2003/11/23(日)「ラスト・サムライ」
サムライを少数民族のように描くこの映画の設定はどう考えても間違っている。すなわち、サムライたちは明示維新以降の近代化にそろって反対し、天皇に対して反乱を起こすのだ。サムライたちを鎮めるためにネイサン・オールグレン大尉(トム・クルーズ)は政府軍に西洋式の戦術を教えるよう依頼され、日本に来ることになる。サムライをまるでアメリカ先住民のように描く基本設定は激しく間違っているのだが、恐ろしいことに監督のエドワード・ズウイックはここから説得力のあるドラマを描き出してみせる。
基本設定などどうでもよく、ハリウッドがこれまでにいくつもの映画で描いてきたような弱者に与する白人男性のストーリーに転化してしまうのだ。官軍も賊軍もなく、サムライたちを一緒くたにして一族のように描き、その精神と生き方を賞賛するこの映画の強引な手腕には逆に感心する。基底にあるのは西洋式の物質文明一辺倒になることの否定であり、伝統的な精神を重んじる訴えである。
最初にタイトルを聞いた時、「ラスト・オブ・モヒカン」のような映画なのではないかと思ったが、その通りの展開だった。急いで付け加えておくと、これは日本を舞台にした映画でよくある誤解だらけで失笑を買うような映画にはなっていない(「キル・ビル」よりは相当ましである)。殺陣も見事に決めるトム・クルーズもいいが、サムライたちのリーダー勝元役の渡辺謙、その右腕・氏家役の真田広之、勝元の妹たか役の小雪など日本の俳優たちが頑張っている。特に渡辺、真田の2人は日本の描写におかしな部分がないように監督にも意見したという。渡辺謙はハリウッド映画に登場する日本人としては極めてカッコイイ役である。
主人公の設定もいい。オールグレンは報復名目で行われたアメリカ先住民の虐殺に関わったことを後悔している男で、殊勲を挙げた大尉とはいっても酒浸りの毎日である。それが日本の政府軍に加わって戦い、サムライたちの捕虜になり、武士道を理解することによって再生していく。先住民を虐殺した男が逆の立場に立って名誉と誇りを取り戻すというわけだ。話に普遍性があるのはこの主人公の設定と、弱者に味方する正義があるからだ。この映画で描かれたことは他の少数民族に置き換えても通用する話なのである(映画の最初の方にある日本の風景はほとんど西部劇のようだ)。ズウイック監督の描写の仕方、話の語り方も極めて映画的である。
ただし、そうは言っても、誤解に満ちた基本設定がある以上、傑作と言うわけにもいかない。クライマックスのスケールの大きな戦闘シーンは見応えはあるものの、撮り方としては取り立てて優れているとは言えないし、2時間34分の上映時間も少し長く感じる。大作だから仕方ない面もあるが、もう少し刈り込んでも良かったのではないか。
英語力を買われての起用がどうかは知らないが、監督の原田真人がサムライを制圧する政府側の悪役を演じていてなかなかうまい。もう少し憎々しい感じを出すともっと良かったと思う。
2003/11/17(月)「人生は、時々晴れ」
「秘密と嘘」のマイク・リー監督作品。今回も家族の再生の話である。登場するのは同じ集合住宅に住む3家族。このうちタクシー運転手フィル(ティモシー・スポール)の家族が中心になる。フィルは妻ベニー(レスリー・マンヴィル)、娘レイチェル(アリソン・ガーランド)、息子ローリー(ジェームズ・コーデン)の4人家族。妻以外は3人とも太っている。食卓では気の入らない会話が細々とあるだけ。4人それぞれに苦悩を抱え、家族とはいっても心はバラバラだ。
映画は前半、この家族の崩壊寸前の様子を執拗に描く。フィルは仕事はぐうたらで、稼ぎも少ない。ベニーはスーパーのレジで黙々と働く。レイチェルは老人ホームの掃除婦で恋人もいない。ローリーは仕事にも就かず、ぶらぶらしている。生活はカツカツで、何をやってもうまくいかない焦りと苛立ちと諦めがこの家族には充満している。そんな時、ローリーが心臓発作に倒れる。ちょうどそのころ、フィルは携帯電話も無線も切って、海を見に行っていた。夫に連絡がつかなかったことに腹を立てるベニーにフィルは「何もかもが嫌になった」と話す。
ここからのフィルとベニーの会話が全編のハイライト。「カス呼ばわりされることに耐えられなかった」と言うフィルにベニーは「カス呼ばわりなんてしていない」と否定する。しかし、夫婦の会話を聞いていたレイチェルは母親にそうしていたと指摘する。涙を流しながら夫婦は本音を語り合い、お互いを理解し、恐らく数年ぶりにキスを交わすことになる。
撮影前に脚本を作らないのがマイク・リーの流儀で、他の2家族の苦悩が置き去りにされているところなどにその欠点は垣間見えるのだが、フィルの家族の話に限っては、現場で脚本を作っていたとは思えないほど充実した会話と議論と描写がある。セリフの一つひとつが重たく、描写も深刻だが、細部には人間を徹底的に描くことによるほのかなユーモアもにじみ出る。マイク・リーはうまいな、と思う。映画の技術を超えて、人間を真摯に見つめる視線がこういう中身の濃い映画を生み出すことにつながっているのだろう。
フィルの家庭ほど極端ではないにしても、ここで描かれたことは多かれ少なかれ、どこの家庭にも当てはまることがあるだろう。「秘密と嘘」ほどの出来ではないし、話の行く末も見えているのだが、その描写の充実ぶりは大いに評価できる。
2003/11/14(金)「g@me.」
「ストックホルム症候群って聞いたことあるか。…じゃあ、吊り橋の恋って知っているか」。キスを迫る葛城樹理(仲間由紀恵)にたじたじとなって佐久間俊介(藤木直人)がこう話す。ストックホルム症候群とは言うまでもなく、人質と犯人(誘拐犯、立てこもり犯など)が長時間一緒にいるうちに親密な関係になることだ。
この映画では、ふとしたことから狂言誘拐をする羽目になった男女がだんだん愛し合うようになる。このセリフの前に佐久間は病気の父親が自分を預かっている親戚に「すみません、すみません」と言いながら死んだ過去を話している。樹理もまた母親が亡くなったために母の愛人だった父親の家に居候している。樹理がキスを迫るのはどちらも同じような境遇にあり、共犯者意識が愛情に変わり、共感も加わってという単純なことでは実はないのだが、こういう背景をチラリと紹介してキャラクターに厚みを与えているのがうまいところで、この全編ゲームのような映画の中に一片の真実が立ち上がってくる。
ストーリーが二転三転するという邦画では珍しく都会的なミステリで、それが必ずしもうまくいっていず、2時間ドラマ並みの描写に陥る部分があるにせよ、まず楽しめる作品に仕上がっている。仲間由紀恵の情感たっぷりの演技がとても良く、大女優になる素質ありと再確認した。
佐久間は広告代理店のやり手のクリエイター。ミカドビールの新商品キャンペーンで30億円を投じるコンサートを企画したが、ミカドビール副社長・葛城(石橋凌)の反対でキャンペーンは潰される。その夜、怒りにまかせて葛城邸に行った佐久間は塀から女が飛び降りるのを見る。女は葛城の娘樹理だった。樹理の母親は葛城の愛人で、樹理は母親が死んだために葛城に引き取られていた。義理の母も妹も樹理とは仲が悪く、樹理は家を出たいと考えていた。樹理は佐久間に「私を誘拐しない」と持ちかける。狂言誘拐で身代金3億円を要求しようというのだ。佐久間は誘拐計画を練り、フリーメールで脅迫状を出す。計画はうまくいき、3億円は手に入ったが、2人はいつの間にか恋に落ちていた。
ここから映画は二転三転していくが、基本にあるのは佐久間と樹理の関係である。「なぜ、一緒に逃げようって言ってくれないの」という樹理の願いに佐久間はこたえられない。若い男と駆け落ちした母親とみじめな父親を見て育った佐久間は、人生は勝つか負けるかのゲームだと考えており、誘拐計画を成功させるために私情を挟むわけにはいかないのだ。だから身代金を手に入れたら、樹理とは別れるしかない。という風な部分を映画は深くは描いていないが、そういう背景はあり、ここを描き込んだらもっと見応えのある映画になっていたのではないかと思う。ただ、観客を気持ちよく騙してくれて、ラブストーリーとしてもうまくまとめているところは評価できる。決着の付け方には異論もあるが、この映画の軽いタッチからすれば、まあ仕方ないだろう。
原作は東野圭吾「ゲームの名は誘拐」。監督は昨年、キワモノ的な題材「ミスター・ルーキー」を手堅くまとめた井坂聡。傑作と言い切れないもどかしさがあるけれど、まったく期待していなかった分、面白く見た。
2003/11/07(金)「アダプテーション」
チャーリー・カウフマン脚本、スパイク・ジョーンズ監督の「マルコヴィッチの穴」コンビの新作。スーザン・オーリアンの「蘭に魅せられた男 驚くべき蘭コレクターの世界」をカウフマンが脚色した。と、普通になるわけはなく、この原作の脚色(アダプテーション)の様子を取り入れたメタフィクションである。主人公のカウフマンをニコラス・ケイジが演じる。デブで禿げという設定だが、実際のカウフマンはそうではないようだ。
脚本家の苦悩を普通に描けばジュンブンガクになってしまうが、不眠症になったり、女友達とうまくいかなかったり、対照的な双子の弟のドナルド・カウフマン(ニコラス・ケイジ二役)のサスペンス映画の脚本が先に売れたりする様子を面白おかしく描いていく。ラスト近くはサスペンス調になるのが、娯楽映画らしくて良い。
現実のように見せかけたフィクションと本の中の話が交錯する物語は小説ではそれほど珍しくはない。映画では少ないだろうが、「マルコヴィッチの穴」ほど斬新なアイデアとは言えず、ケイジのほか、クリス・クーパー(アカデミー助演男優賞)、メリル・ストリープ(同助演女優賞ノミネート)の演技に助けられた部分が大きいと思う。
今回はSF的なアイデアの発展がないのが残念なところ。双子の弟が実はカウフマンの妄想であったとか、そんな展開になると面白かったと思う。多重人格に絡むセリフがあるので、そういう展開もカウフマンは考えたのではないか。ニコラス・ケイジは主演男優賞にノミネートされて結局、取れなかったが、儲け役のクリス・クーパーよりも二役を明確に演じ分けてうまい。
2003/11/06(木)「マトリックス レボリューションズ」
これまでの経緯を一切説明せず、いきなり本編が始まる。今回はマトリックス内よりもリアルワールドの描写が中心である。マシンシティの中枢に向かうネオ(キアヌ・リーブス)とトリニティ(キャリー=アン・モス)、センティネルの無数の大群をロボット兵器で迎え撃つザイオンの兵士たち、ザイオンに向かうため補助パイプラインの中を突っ走るナイオビ(ジャダ・ピンケット・スミス)とモーフィアス(ローレンス・フィッシュバーン)のホバークラフト―の3つのエピソードが描かれていく。
細かい背景説明は前作でしてあるので、スペクタクルな描写に徹しており、それが前作よりも面白くなった理由だと思う。マトリックス内の描写は最初の方の意識を失ったネオを助けるためにトリニティーたちが活躍する場面とクライマックスのネオとエージェント・スミス(ヒューゴ・ウィービング)の戦いの場面(ここは「スーパーマン2」を思わせる)だけ。これでマトリックス・シリーズの完結編と言えるのかという思いも頭をかすめるが、マトリックス内が中心だった「リローデッド」と合わせて4時間27分の映画と思えば、納得はいく。ただし、2作目と3作目を合わせても1作目の革新性には大きく及ばない。これだけの長さでも、まだまだ描写が足りないと思える部分もある。
2作目で印象的だったザ・ツインズが出てこないのは残念だし、メロビンジアン(ランバート・ウィルソン)とパーセフォニー(モニカ・ベルッチ)の登場場面も少ない。ならば、2作目の展開は何だったのさ、という感じがある。話の細部は相変わらず分かりにくいが、今回は描写で押し切った観がある。無数の、本当にあきれるぐらい数が多いセンティネルとの戦いの場面はクライマックスのネオとスミスの戦いよりも良くできており、面白い。面白いけれど、従来のマトリックスの面白さとは異なる面白さである。何か大きな脇道に入ったような感じがつきまとう。それが評価を躊躇わせる理由にもなっている。
一応の完結編ではあるけれど、この決着の付け方では根本的な解決になっていないような気もする。機械と人間の戦争は終わったが、これで眠らされ、エネルギー源となっている人間たちは解放されるのか。エネルギー源を失えば、機械側は存続できないだろう。ラストに予言者とアーキテクトがマトリックスの世界で会う場面があるのを見ると、マトリックスはまだ存続しているわけだ。マトリックスの仮想現実は眠らされた人間たちのためのものなのだから、マトリックスが存続している以上、事態は何ら変わっていないことになる。
2作目と3作目の本当の敵はマシンそのものではなく、スミスだった。スミスはマシンにとっても人間にとっても脅威の存在ということになっているけれど、この設定が話の本筋をずらすことになったのだと思う。マシンの本体を殲滅しなければ、本当の解決にはならないだろう。2作目と3作目は結局のところ、大いなる番外編なのではないか。