2003/08/29(金)「シティ・オブ・ゴッド」
最初に連想したのはマーティン・スコセッシであり、ガイ・リッチーだった。ギャングという題材、時間軸と視点を自在に操るタッチ。フェルナンド・メイレレス監督は重たく深刻な題材を解体し、再構成して絶妙の映画に仕上げた。このうまさには恐れ入る。
後に凶悪なギャングに成長するリトル・ダイスの人を撃ち殺すのが楽しくて仕方がないといった表情や、「(撃たれたいのは)どちらか選べ。手か足か」とガキ軍団の幼い2人が迫られて泣き叫ぶ場面などはショッキングなのだが、全体として軽快にテンポよく進む作りにはもう絶賛を惜しまない。モーテル襲撃事件の真相のミステリ的な描き方であるとか、「二枚目マネ」が死に至る原因となった意外な人間関係であるとか、そういう部分をサラリと描いているのがまた憎い。
逆に言えば、そうした技術的な圧倒的なうまさが題材の深刻さを隠すベクトルともなっていて、これは社会派のテーマを持つ映画でありながら、恐ろしく出来の良いエンタテインメントとして機能することになる。人の命の軽さが点景として多数描かれること、銃やドラッグの本質的な怖さを感じにくいことなどに、かすかな違和感もある。
つまりテーマよりも技術の方が目立つ映画なのであり、あまりにも面白いので、そういう微妙なケチの付け方をしたくなる作品なのである。音楽の使い方を含めて心地よい映像になったのはメイレレスがCM監督出身であることと無関係ではないだろう。あらゆる技術を駆使して商品(題材)を一流のパッケージにくるんで見せているわけだ。
いずれにしても、今年のmust seeの1本であることは確か。IMDBでは8.6の高ポイントで、オールタイムの84位になっている。
2003/08/25(月)「ジェイソンX」
地下の研究所でジェイソンとともに冷凍された女性研究者が450年後に発見される。宇宙船に運び込まれ、蘇生措置を受けるが、冷凍が解けたジェイソンも復活してしまう。宇宙船内で例によって惨殺劇が繰り広げられることになる。
IMDBの評価を見ると、4.9。最低の評価だが、ビデオで見る分にはまずまずの出来と思う。「エイリアン」のシチュエーションの借用は承知の上で、B級SFホラーに徹している。VFXもそれなりの水準。終盤、アンドロイドによってバラバラにされたジェイソンが蘇生装置で金属の外殻を身につけ、よりパワーアップするというのが面白い。
この秋公開予定の新作「フレディ VS ジェイソン」はアメリカではヒットしているらしい。それにしても、ショーン・S・カニンガムの第1作「13日の金曜日」が作られたのはもう20年以上前。未だにシリーズが作られ続けるというのは新たなキャラクターを作るのが難しくなっていることの裏返しか。
2003/08/21(木)「HERO 英雄」
「初恋のきた道」のチャン・イーモウ監督が手がけたアクション映画。戦乱の続く紀元前200年の中国を舞台に秦王を狙う刺客とそれを倒したと秦王に名乗り出た男の物語である。ジェット・リー、トニー・レオン、マギー・チャン、チャン・ツィイー、ドニー・イェンとスターをそろえ、VFXも本格的な超大作。ジェット・リーとドニー・イェンの対決とか、雨のように降りそそぐ矢とか見ごたえのあるシーンが多い。特筆すべきはワダ・エミの担当した衣装で、赤、青、白と物語に応じて使い分け、物語に強いアクセントを与えている。画面の色彩設計ではこのほか、チャン・ツィイーとマギー・チャンの決闘シーンで、黄色のポプラの森が一瞬にして赤に染まるシーンなど見事なものである。
しかし、残念ながらドラマがやや起伏に欠ける。いくら剣の達人ばかりとはいっても、登場人物たちのエモーションがあまり表面に出てこないのである(感情を最も表出させているのは剣の達人ではないチャン・ツィイーだ)。見事なアクションの必然性を生む芯の部分が弱かったと言うべきか。格調高い出来であるだけに惜しい。
後に始皇帝となる秦王(チェン・ダオミン)のもとに無名と名乗る男(ジェット・リー)がやってくる。無名は秦王を狙う刺客の長空(ドニー・イェン)、残剣(トニー・レオン)、飛雪(マギー・チャン)を倒したと話す。どうやって倒したのかと問う秦王に無名はそのエピソードを語り始める。長空は凄絶な戦いの末に仕留めた。恋人同士の残剣と飛雪は嫉妬心を利用して仲違いさせ、倒した。無名はその功績で秦王に10歩そばまで近づくことを許される。しかし、秦王は無名の話におかしな部分を感じる。3年前、3000人の兵をものともしなかった残剣と飛雪は嫉妬に狂うような人物ではなかったはずだ。指摘を受けた無名は真相を語り始める。
一つの物語を3通りに分けて語る手法は黒沢明「羅生門」を彷彿させる。矢のシーンも「蜘蛛巣城」のようだ。チャン・イーモウ、どこかで黒沢を意識したのかもしれない。ただ、黒沢とイーモウを分けるのはアクションのダイナミズムだろう。秦軍の多数の兵が趙の国を攻めるシーンは、無数の矢が放たれるだけで合戦場面がないのが惜しい。ジェット・リーとドニー・イェンの対決はその殺陣のあまりの速さに驚くが、あとの場面は宙を飛んだり、水の上を走ったり、「グリーン・デスティニー」同様、超人的な要素があり、地に足のついたものにならないのである。激しさとは異なる流麗なアクション。これはこれで悪くはないのだが、登場人物たちの感情とこうしたアクションとは密接な結びつきにならないのだ。これは同じジェット・リー主演の「キス・オブ・ザ・ドラゴン」の激しさと比べると良く分かる。
長空のエピソードだけが独立したものになったのも残念。残剣と飛雪だけでなく、長空も絡めて3人の刺客を有機的につなぐ構成が欲しかったところだ。視覚的には十分満足しながら、エモーショナルな部分で不満が残った。
2003/08/15(金)「過去のない男」
愛や夢や希望などという言葉を一切使わずにそれを表現しているのがこの映画である。アキ・カウリスマキ監督の2002年カンヌ映画祭グランプリ受賞作(この年のパルムドールは「戦場のピアニスト」)。暴漢に襲われて頭を強打され、記憶をなくした男の生き方を淡々と見せる。描写は淡々としているのだが、にじみ出るユーモアが心地よい。言葉で語らず描写で見せるのが映画の本質なら、カウリスマキのこの映画はその王道を行っている。
ヘルシンキの駅で降りた男(マルック・ペルトラ)がベンチで休んでいると、暴漢3人が男に殴りかかる。バットで頭を強打され、気を失った男から財布や鞄の中身を盗む。男は血だらけで病院に担ぎ込まれるが、心電図が停止し、医師は死亡を宣告する。しかし、医師と看護婦がいなくなると、男は起きあがり、包帯だらけの格好でベッドを抜け出す。川のそばで倒れていたところを2人の少年が見つけ、父親に告げて、男はこの一家の世話になることになる。この一家はコンテナに住み、貧しい暮らしをしている。傷が癒えた男は自分でもコンテナを借り、救世軍で働き始め、救世軍の女イルマ(カティ・オウティネン)を愛するようになる。
記憶を失った男が過去を追い求めず、現状に順応して生きていく様子がコミカルに綴られていく。男の過去はやがて明らかになる。男は家を訪ねる。家は立派だし、妻はイルマよりも美人だが、かつては喧嘩が絶えなかったという。男は何の感慨も見せずに過去と決別し、現在の暮らしに帰っていく。
病院での心電図停止の描写は過去をリセットして新しい人生を歩む男の姿を象徴しているのだろう。フィンランドの失業率の高さとか、役人のえらそうな態度とか、人々の貧しい暮らしを挟みつつ、過去は関係ない、現在が大事という当たり前のことを当たり前に描いていく。声高に訴えるわけでもなく、さまざまな描写を積み重ねていくカウリスマキの手法は好ましい。ゴミ箱をノックすると、中からそこに住んでいる男が出てきたり、口座を作りに行った銀行で強盗から金庫に閉じこめられたり、細部が微妙なおかしさに満ちていて、クスクス笑いながら見た。カティ・オウティネンはカンヌ映画祭の主演女優賞を受賞したが、むしろマルック・ペルトラの飄々とした演技に主演男優賞をあげたいところだ。
2003/08/15(金)「ウルトラマンコスモス VS ウルトラマンジャスティス The Final Battle」
長男と次女を連れて見に行く。「新世紀2003 ウルトラマン伝説 The King's Jubilee」という短編が最初にある。これがなんで作ったのか分からない出来。ウルトラマンたちのダンスコンテストである。去年も同様の短編があったが、あちらの方がまだましだった。
こういうのを最初に見せられると、本編の方に不安を持ってしまうが、予想に反してまずまずの出来だった。いや、これはあくまでも子ども向けとしてはという条件が付く。
2000年後に地球は有害な存在となるとの理由で、宇宙の調和を守る宇宙正義が地球上のすべての生命の抹殺を図る。ウルトラマンジャスティスはその決定に基づき、コスモスと対決。コスモスはジャスティスとロボット怪獣グローカーの連合軍に敗れ、消滅してしまう。地球滅亡まであと35時間。かつてのチームEYESの面々は消えたコスモスとムサシを探し求める。一方、ジャスティスは地球人の女の子に触れ、徐々にその心を変化させていくが…。
有害な存在になるのにまだ2000年の猶予があると言うムサシに対して、ジャスティスは「サンドロスにも2000年の猶予を与えて失敗した」と切り返す。サンドロスは昨年の「ウルトラマンコスモス2 THE BLUE PLANET」に出てきた怪獣で、このシリーズ、ちゃんと映画第1作、テレビ、映画第2作、そして今作と一応つながっている。VFXも一応整っている。だから子供たちはまずまず満足するだろう。
宇宙正義という存在が今ひとつよく分からないのは置いておくにしても、ジャスティスの心を変化させるのに愛や希望や夢という言葉を持ち出して説明するあたりがダメなのである。地球と人類を守るコスモスと宇宙を守るジャスティスの対比が映画のメインテーマになるはずなのに、そのテーマは深化されず、極めて表面的な描写で終わってしまう。宇宙にとって有害な人類をなぜ守るのか。このテーマを突き詰めれば、映画はもっと深みが出てきたはずだ。なのに脚本はテーマの設定だけで、その後の展開の工夫を放棄している。子ども向けと思って、この程度のことしかやらないようでは大した映画ができないのは自明のことだ。
人類の守護者と宇宙の守護者という対比は、「ウルトラマンガイア」の人類の守護者(ガイア)と地球の守護者(アグル)の対比によく似ている(監督・特技監督の北浦嗣巳はガイアシリーズも担当した)。そういえば、ガイアでもこのテーマは突き詰めきれずに終わったのだった。去年も思ったのだが、「ウルトラセブン」のような名作を生むにはやはりしっかりと話を作っていく必要がある。