2004/06/29(火)「ブラザーフッド」
「俺はお前のために靴磨きになった。母さんはお前のために市場で働いて腰が曲がっても、少しも苦に思っていない。お前は家族の夢であり、希望なんだ」。兄弟2人一緒に無理矢理徴兵されたジンテ(チャン・ドンゴン)は高校生の弟ジンソク(ウォンビン)にそう話す。地獄のような戦場から弟を無事に帰すため、ジンテは地雷埋設の危険な任務に進んで参加し、奇襲作戦の提案もする。武勲を挙げ、勲章をもらえば、弟を除隊させることができるからだ。しかし、ジンテのあまりに非情な振る舞いにジンソクは次第に反発するようになる。
南北統一への悲痛な思いをスパイ戦に絡めて描いた傑作「シュリ」のカン・ジェギュ監督が朝鮮戦争を題材に取った戦争映画。韓国で史上最高の1,200万人以上の観客を動員したという。同じ民族同士で殺し合わねばならなかった朝鮮戦争の悲劇を詳細に描き、戦場の惨禍を徹底的に描き出す。これに兄弟の泣きのドラマを入れて、隙のない映画になるはずだった。残念ながら戦場シーンは「プライベート・ライアン」に及ばず、泣きの部分も作りがうまくない。細部の作り込みに荒さが残る。
冒頭、平和な時代(とはいっても第2次大戦終結から1950年までの5年間にすぎない)の兄弟の交流にはわざとらしさを感じるし、軍隊から列車に乗せられ、恋人ヨンシン(イ・ウンジュ)と母親に別れを告げるシーンの演出は大仰に思える。演出過剰の部分は「シュリ」にも見られたのだが、「シュリ」にはそれを超えて見る者を納得させる熱い思いがあった。もちろん、この映画にもその熱さは受け継がれているのだけれど、ジンテの終盤の行動は常軌を逸したものにしか見えてこない。
イデオロギーに立脚せずに戦争を描くことは、興行上の意味から見ても有利だし、広く大衆性に訴える利点がある。だからこの映画は韓国で大ヒットしたのだろう。ただし、ドラマの作りとしては、兄弟愛を中心に据えるのもいいが、バカな戦争を引き起こした者たちへの批判も必要に思う。この映画の終盤が極端な展開になったのはこの批判の視点が甘いからだと思う。共産主義勢力とアメリカの代理戦争的側面を描き出し、戦争によって苦しめられる民衆の怒りの矛先を明確にしないと、小さな兄弟愛の話だけで終わってしまうことになる。
2004/06/25(金)「頭山」
宮崎映画祭で上映された「ヤマムラ・アニメーション図鑑」の1本。アカデミー短編アニメーション賞ノミネート、ザグレブ国際アニメーション映画祭グランプリ受賞作品。落語の「頭山」を素直にアニメにした10分の作品で、アニメの技術に関しては特別に優れているわけではない。海外での高い評価は落語が評価されたと考えていいのではないか。
SFが多い落語の中でも「頭山」はシュールな話である。サクランボの種を食べた男の頭に桜の木が生えてくる。春になって桜の花が咲くと、そこに花見客が訪れ、どんちゃん騒ぎが始まる。騒がしさに怒った男は桜の木を抜いてしまう。しかし、雨が降って抜いた穴に水がたまり、今度は泳ぎに来る客で騒がしくなる。オチもシュールなので、どうアニメ化するのかと思ったら、「ロイスの無限」的描写を使っていた。これはうまいと思う。
「ヤマムラ・アニメーション図鑑」の他の作品はいずれも幼児向け。NHK制作のアニメもあった。粘土アニメのようでそうではない作品とか。
2004/06/22(火)「天国の本屋 恋火」
ベストセラーの「天国の本屋」とその第3作「恋火」を元にしたファンタジー。篠原哲雄監督作品としては同時期に公開となった「深呼吸の必要」よりは落ちるが、違和感のないファンタジー自体が邦画には珍しいことなので、まず合格点の出来といっていいのではないかと思う。
問題はラブストーリーのようでそうではなく、ファンタジーであること以上に話が発展していかないことか。恋火とは“恋する花火”のことで、それを一緒に見た男女は結ばれるといわれる。だから、ラストで恋火が打ち上げられる場面は、ようやく地上で出会った主人公2人の行く末を暗示していていい感じなのだが、この2人の話をもっと見たい気になってしまうのだ。本屋の店員で、自殺しようとしていたところを天国に連れてこられた由衣(香里奈)のエピソードは、これそのものは良いし、「天国の本屋」という話には必要であるにしても、「恋火」には不要に思える。こういうエピソードを描くのであれば、事故で花火を捨てた元花火師がもう一度、恋火を打ち上げるに至った心境の変化を詳しく描いた方が良かったと思う。話の訴求力に欠ける部分があるのは2つの原作を合わせた結果なのだろう。
主人公の町山健太(玉山鉄二)はピアニスト。オーケストラをリストラされ、居酒屋で飲んだくれていたが、目を覚ますと、天国に来ていた。ヤマキと名乗る男(原田芳雄)が天国の本屋にアルバイトとして連れてきたのだ。仕方なく本屋のバイトを始めた健太のところへある日、見覚えのある女性が来る。その女性、桧山翔子(竹内結子)は、健太が子どものころに演奏を聴いてピアニストを志すきっかけとなった女性だった。翔子は花火の暴発事故で左耳の聴力を失い、ピアニストをやめて失意のまま病死したのだった。一方、地上では翔子のめい長瀬香夏子(竹内結子)ら商店街の青年会メンバーが12年ぶりの花火大会を企画していた。“恋する花火”の伝説を聞いたは香夏子はその花火の製作者で、今は花火師をやめている瀧本(香川照之)の元を訪ねる。しかし、瀧本はすげなく断る。瀧本と翔子は恋人同士だったが、事故が原因で別れ、それ以来、瀧本は花火の仕事をやめた。
映画はピアノをやめた翔子が健太との交流で未完のピアノ曲「永遠」を完成させていく様子と、地上での花火大会実現へ取り組む香夏子の姿を交互に語っていく。クライマックス、地上に戻った健太と天国の翔子が弾く「永遠」の調べと恋火が夜空を焦がすシーンはなかなかよくまとまっている。こういう良いクライマックスにするのなら、やはり「恋火」の部分をもっと詳細に語った方が良かったと思う。
「黄泉がえり」「星に願いを。」に続いて竹内結子は健康的な魅力を見せ、二役を無難にこなしている。玉山鉄二も好青年ぶりがよろしい。このほか、香川京子や原田芳雄、桜井センリ、根岸季衣、大倉孝二らがそれぞれに好演している。
2004/06/15(火)「深呼吸の必要」
「お医者さんなんでしょっ。助けてあげてっ」と、ひなみ(香里奈)に言われた池永(谷原章介)が意を決して、足に大けがをした田所(大森南朋)の治療に当たる場面でなんだか涙がにじんだ。池永はその後、ひなみに自分が小児外科医で死んでいく子供を見送ることが耐えられずに宮古島に来たことを打ち明ける。子供が好きで小児科医になったのに、それ以上に子供の死ぬ姿を見なくてはいけないつらさ。それがサトウキビ刈りのバイト(きび刈り隊)に参加した理由だった。
東京からきび刈り隊に参加した5人と全国の農家を渡り歩く田所と宮古島出身で帰郷した美鈴(久遠さやか)の7人の男女の物語。7人の男女はそれぞれ何かから逃げてきたらしい。池永と手首に傷のある無口な加奈子(長澤まさみ)とニヒルな大学生の西村(成宮寛貴)のエピソードがそれを物語るけれど、この映画で描かれるのは7人がただただキビを刈り、次第に交流を深めていく姿である。
35日間で7万本のキビを刈る。広大なサトウキビ畑を前にして到底無理と思えたことが、自発的に1時間早起きして遅くまで作業することで達成されていく。最初は自分のために参加した7人が、人の良いおじい(北村三郎)とおばあ(吉田妙子)のために期限内に刈り終えようと変わっていく姿には胸を打たれる。
映画はドラマティックなものをことさら強調せず、きび刈り隊に参加した男女の成長を描くとか、そういう部分も希薄である。7人の間にはロマンスさえ生まれない。なのに見ていてとても心地よく、感動的だ。メチャクチャ気持ちのよくなる映画である。
映画の元になったのは長田弘の詩集「深呼吸の必要」だが、物語はもちろんオリジナルである。篠原哲雄監督はこの映画の脚本について、こう語っている。
「脚本は、あの島にやってくる7人7様の物語を、最大限語るという方法からスタートし、そこから映画的にどのように削ぎ落とし、省略し、簡潔に語るかという方向性をずっと試行錯誤して決定稿に近づいて、というやり方でした」(キネマ旬報2004年6月上旬号)
きちんと背景を作った上で、それを削除していく作業。画面には直接描かれなくても、それは画面からにじみ出ることになる。そういう作業を経ているからこそ、この映画は洗練されているのだ。泥臭い感動の押し売りではなく、さわやかに人の心を動かすことはなかなか難しいことなのである。
「朝は来るんだなあ。…いっぱい働いて、たくさん食べて寝れば、必ず朝は来るんだなあ」。それまで何も話さなかった加奈子が終盤そう言うあたりに監督の主張はさりげなく込められているのだろう。
7人の俳優たちがいい。だれか一人だけいいというのではなく、全体としていい。6日目であまりの重労働に音を上げて、きび刈り隊を脱けようとする悦子(金子さやか)を含めて全員が素直な演技なので好感が持てた。
2004/06/08(火)「21グラム」
それぞれの場面をシャッフルした後に再構成したように時間軸を前後に動かして物語を語っている。アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の前作「アモーレス・ペロス」を僕は未見だが、これも同じ構成という。この構成にどんな意味があるのかよく分からない。例えば、クリストファー・ノーラン「メメント」やクエンティン・タランティーノ「パルプ・フィクション」には時間軸を動かすこと自体に意味があったが、この映画の題材の場合、普通に語っても何ら構わないはずである。主演3人の演技を含めてかなりの力作であり、寂寥感漂う厳しさを備えた映画ではあると思うが、この構成は気になった。
交通事故で夫と娘2人を亡くしたクリスティーナ(ナオミ・ワッツ)と、その事故を起こしたジャック(ベニチオ・デル・トロ)と、クリスティーナの夫の心臓を移植されたポール(ショーン・ペン)の物語。クリスティーナは薬物中毒を乗り越えて幸せな生活をしていた矢先に家族を失う。ジャックは前科のある生活から足を洗い、真面目に信仰心篤く暮らしていた時に事故を起こす。ポールは余命1カ月と宣告されていた時に心臓移植を受けるが、その心臓も拒絶反応を起こしていたことが分かる。3人それぞれに不幸と孤独に苛まれている。クリスティーナは家族を亡くしたから孤独なのだが、あとの2人は妻がいても妻子がいても基本的に分かり合えないものがあって、孤独なのだ。「それでも、人生は続く」“Life is just going”というセリフを3人とも慰めの言葉としてかけられるけれど、そんな言葉ではどうしようもないほど3人の絶望は深い。
その3人が出会った時に何が起きるのか、というのが映画のクライマックスとなる。ただし、映画は最初の方で3人に何が起きたかをワンカットだけ見せる。それはミステリ的な興味を観客に持たせる意味合いはあるにしても、物語の悲劇性や観客のショックを薄める効果としても作用してしまう。題材と手法が合わない。本格の題材を変格で語っている。この手法に観客の目をくらませる以上の意味はない。端的に僕はそう思う。物語をどう語るかに腐心することは大事なことだけれど、それを余計に感じる題材というものもあるのだ。
孤独を共有しているからこそ、クリスティーナとポールは惹かれ合う。2人が惹かれ合うのは恋愛感情のためではなく、仲間意識みたいなものだろう。そしてこれとは対照的にクリスティーナが幸せを奪ったジャックに憎しみを抱くのは当然のことだ。「右のほほを打たれたら、左のほほを出せ」という聖書の教えを忠実に守るジャックはクライマックスでもその教えを守ることになる。ただ、僕はこのクライマックスも突然、21グラム云々のナレーションが流れるラストの処理にも物足りなさを感じた。イニャリトゥ監督は構成に凝るより、物語をもっと突き詰めることに時間を割いた方が良かったと思う。
ナオミ・ワッツが分かりやすい熱演なのに対して、デル・トロとペンの演技は奥が深く、見応えがある。観客が感動するのは題材よりも細部なので、この3人の繊細な演技が映画を支えているのだと思う。