2004/06/01(火)「下妻物語」
茨城県下妻市を舞台に、ロココ時代のフランスに憧れてフリルひらひらの洋服を着る桃子(深田恭子)とヤンキーのイチゴ(土屋アンナ)のおかしな友情を描く。監督の中島哲也はCMディレクター出身のためか、編集に冴えがあり、アニメも取り入れた人工的でポップな映像と速いテンポの佳作に仕上がった。
ジャージ世界の大阪からジャスコファッションの下妻に来ることになった桃子とテキヤの父親(宮迫博之)のこれまでを描く冒頭から快調である。桃子の母親(篠原涼子)は桃子を生んだ病院の医師と不倫して、桃子が小学生の時に両親は離婚。父親はヤクザの下でバッタものの洋服を売って儲けていたが、ブランド側からイチャモンを付けられそうになり、桃子と一緒に下妻の実家に逃げてくる。ロリータなファッションに目覚めた桃子は洋服を買うため、父親のバッタ製品を売りに出す。そこに平仮名だらけの手紙を送ってきたイチコ(本名はイチゴ)が洋服を買いに訪れる。対照的な2人だが、桃子のパチンコの才能と刺繍の才能が2人を結びつけ、何だか変な友情関係が出来上がる。
と、ストーリーを書いてもあまり面白くない。映画の面白さはそのデフォルメされてぶっ飛んだキャラクターと類型的なセリフを笑い飛ばす演出にある。イチゴの頭突きで桃子がぴょんと跳ばされる場面とか、ジャスコに関するセリフとか、狂騒的でゲラゲラ笑える場面が多い。しかも桃子のキャラクターが「人は人、自分は自分」という徹底的な個人主義であるのが面白い。酸いも甘いもじゃなくて、甘い物ばかり食べていきたい女の子なのに、芯は硬派なのである。
この設定が成功の大きな理由だろう。ロリータファッションをしていても、バカじゃない。しかも、その個人主義の桃子が終盤、イチゴを助けるために奔走することで、観客の共感も十分に得られることになっている。桃子にはテキヤの父親の血がしっかりと流れているようで、クライマックス、けじめを付けられそうになったイチゴを助けるためヤンキー集団を相手に啖呵を切る場面などピタリと決まる。桃子以外のキャラクター、祖母の樹木希林や八百屋の荒川良々、ヤクザの本田博太郎、一角獣の龍二役の阿部サダヲ、ロリータファッション会社の社長・岡田義徳などまともなキャラクターが1人もいないのが素晴らしすぎる。しかし、そのキャラクターが綴る話には共感できるのである。中島監督の演出の計算はなかなか正確だと思う。
深田恭子は演技がうまいというレベルではないが、少なくとも桃子役にはピッタリ。「女はな、人前で涙を見せちゃいけないんだよ」という土屋アンナは失恋して涙をこらえるシーンが良かった。同じ女の子の友情を描いた岩井俊二「花とアリス」の上品さとは対照的にハチャメチャな映画だが、そのパワーは侮れない。ただ、少しぜいたくを言うなら、クライマックスの盛り上げ方にはもっと工夫が必要とは思う。
2004/05/10(月)「世界の中心で、愛をさけぶ」
「ロボコン」で魅力を見せつけた長澤まさみの主演第2作。と、言い切ってしまっていいだろう。物語はサク(大沢たかお)の視点で語られるが、映画を背負っているのは長澤まさみである。その証拠に長澤まさみが画面から消えた後は途端に魅力がなくなってしまう。いや、もっと正確に言うと、長澤まさみ演じるアキが白血病で入院してからは、話自体が類型的なものになり、面白みに欠ける。
白血病(ほかの難病でも同じ)を話の軸に使うというのは劇中、アキが非難するように本当の病気の人の身になって考えれば、ひどい話であり、映画としてみても手あかのつきまくった設定である(これは原作がそうなっているのだから仕方がない)。行定勲監督は映画化に当たって、原作にない大人のサクとその婚約者律子(柴咲コウ)のストーリーを付け加えた。片足の不自由な律子もまた、サクとアキの過去につながっていく女性であり、2人はそれぞれ故郷の高松に帰って、過去を振り返り、過去へのオトシマエを付けることになる(行定監督によると、律子が足を引きずるのと過去を引きずるのは同じことという。なるほど)。この脚色はうまいと思うのだが、極めて残念なのは現在のパートが高校時代のサクとアキのパートに負けてしまっていることだ。
引っ越しの荷造りの最中、突然、家を出た婚約者の律子が高松にいることを知ったサク(大沢たかお)は通りを走る。その大沢たかおの足が港の防波堤を走る1986年のサク(森山未來)の足に重なって、過去の話となるジャンプショットは映画らしい手法である。台風が近づき、曇り空の現在に比べて高校時代の夏は光り輝いている。サクは校長先生の葬儀で弔辞を読んだアキに目を止める。アキは美人で頭が良くてスポーツ万能。劣等生のサクには手が届かない存在に思えたが、ふとしたことから2人には交流が生まれる。交換日記の代わりにカセットテープに声を吹き込んで交換したり、深夜放送でどちらの葉書が先に読まれるかを競ったり。2人は夏休みの思い出に無人島への一泊旅行をする。このあたりのゆっくりと愛が育まれる描写が心地よい。森山未來は少しもハンサムではないけれど、実直な感じに好感が持てる。2人の夢のような幸福は永遠に続くと思えたが、無人島から帰る日、アキは倒れてしまう。アキは白血病に冒されていたのだ。
この過去のパートは恐らく、長澤まさみではない他の女優が演じていたら、どうしようもないお涙ちょうだいものにしかならなかったはずだ。ところが、長澤まさみが実に魅力的に演じきってしまい、もうここだけでいいと思えてしまう。あとの部分は付け足し。そんな感じである。もちろん、映画の中でも“後かたづけ”と表現されている。
2時間18分が長い映画ではないけれど、気になるのはサクと律子がどうやって知り合ったのか、律子はあのテープをなぜ引っ越しの荷物の中から見つけるまでサクに聞かせなかったのか、ということ。まさか忘れていたわけでもないだろう。そのあたりは現在のパートに説得力を持たせるためにも必要な描写だった。といって、そのあたりを詳しく描くと、魅力的な過去のパートを削る必要が出てくる。難しいところだ。
過去を包み込むようにして構成された脚本自体は悪くないし、出演者たちもそれぞれに好演している。しかし、出来上がった映画を傑作と呼ぶのにはためらいが残る。凡庸ではないけれど、特別に優れた映画でもない。たぶん、話の軸足を現在に置くか、過去に置くか、監督にも踏ん切りが付かなかったのではないか。
2004/05/09(日)「星に願いを。」
香港映画の「星願 あなたにもういちど」を日本風にアレンジした作品(函館で全編ロケ)で、オリジナルに比べると、かなり落ちるらしい。
交通事故で死んだ笙吾(吉沢悠)は流星の力で数日間だけ再び生きることを許される。ただし、自分の正体を知られた瞬間に消えるという条件付き。笙吾はかつて交通事故に遭って、視力と声を失い、自暴自棄になったが、看護婦の奏(竹内結子)に支えられて生きる意欲を取り戻した過去がある。その奏と愛が芽生え始めたのを自覚したところで、死んでしまうのだ。生き返った笙吾は自分の生命保険3000万円を思い出し、保険会社の社員を装い、アメリカに行きたがっていた奏を受取人にしようと画策する。しかし、絶望に沈む奏にとって、見ず知らずの男は迷惑なだけで、拒絶される。
「天国から来たチャンピオン」のように笙吾は生前とは違う姿で生き返るが、どんな風貌なのか映画を見ている者には分からないのがつらいところ。良いところもあるのだけれど、隅々まで気を配っていない作りが惜しい。吉沢悠の目が見えないようには見えないとか、交通事故を3度も出すのはどういうわけだとか、いくらなんでもリハビリのシーンであの暴力はないだろうとか、所々に引っかかる部分がある。
竹内結子は「黄泉がえり」とは立場を逆にした役柄。彼女はナチュラルな感じがいいのだから、過剰な演出は不要だろう。監督は冨樫森。もっと細やかな作りが欲しいところだ。
2004/05/08(土)「死に花」
「ジョゼと虎と魚たち」で大いに評価を上げた犬童一心監督の新作。老人ホームに暮らす4人の男たちが、死んだ仲間の残した計画を実行して銀行から現金を強奪する、というコメディで、主演は山崎努、青島幸男、谷啓、宇津井健。これに銀行近くの河川敷に住むホームレスの長門勇が加わる。青島幸男や谷啓が主役級で出る映画というのも久しぶりで、1960年代から70年代初めのコメディを思い起こさせるのだが、残念ながら、青島はともかく谷啓にはあまり目立った場面はない。
死ぬ前にもう一花咲かせようという理由で話が進む中盤までは、「ジョゼ…」のような描写の素晴らしさは見あたらず、やや退屈だった。なぜ、銀行から現金を奪わなければならないのかという理由が宇津井健の銀行への個人的な恨みを交えて説明されても、説得力に乏しいのである。途中で温泉旅行に出かける山崎努と松原智恵子の描写など、もう少し本筋に絡める工夫が必要だと思う。なかなか本筋に移行しない前半の描写は(出演者やスタッフからの敬意が感じられる森重久弥の登場場面を除けば)緩いし、本筋に移ってからも、目新しいエピソードがないのはつらい。台風の中で現金強奪計画が進み、計画の真意が明らかになる終盤でちょっと盛り返した感じがする。前半は死を意識せざるを得ない登場人物たちの老いに焦点が当てられているのだが、恐らく1960年生まれの監督自身にも老いの実際は分かっていないだろう。「ジョゼ…」に比べて、あまり深みのない描写が多いのは仕方ないのかもしれない。
太田蘭三の同名小説が原作(脚本は犬童一心と小林弘利)。東京郊外にあるぜいたくな老人ホームが舞台。夫婦仲の良かった源田(藤岡琢也)が急死し、妻の貞子(加藤治子)が後を追う。源田と仲の良かった元映画プロデューサーの菊島(山崎努)、穴池(青島幸男)、庄司(谷啓)、伊能(宇津井健)はショックを受ける。死を覚悟していた源田は「死に花」と名付けた計画を残していた。河川敷からサクランボ銀行支店まで20メートルの穴を掘り、現金を強奪する計画。死ぬ前にもう一花咲かせたいと思った4人は計画を実行することにする。河川敷に住むホームレスの先山(長門勇)も仲間に引き入れ、ホームのマドンナ的存在・鈴子(松原智恵子)の協力も得る。5人は老体にむち打って、穴を掘り続けるが、サクランボ銀行は近く合併し、支店は閉鎖されることになる。
前半の描写を緩く感じるのは動機付けに乏しいからだ。ここはかつて銀行の不祥事の責任を負わされ、リストラされた宇津井健をもっと前面に持ってきて、動機付けをいったん観客を納得させた上で、ラストに計画の真意を明らかにするのが常套的だ。あるいは藤岡琢也に徹底的にみじめな死に方をさせ、老人への迫害を見返す展開にするとか。そうしたエモーショナルな動機付けを工夫すれば、劇場で目に付いた高齢者だけでなく、広い年齢層にアピールする映画になったのではないか。17億円強奪の計画にしては切実さが足りないのである。
序盤と終盤に登場する森重久弥にセリフはないが(画面の外から声が聞こえるシーンがあるが、吹き替えではないか)、車いす姿が実生活と重なって、なんだか厳粛な気分になる。しかも、ただの顔見せ程度のゲスト出演に終わっていないのがいい。老人ホームの新人職員役の星野真里が老男女優の中で溌剌としたアクセントになっていてもうけ役だ。図書館の職員役で一場面だけ登場する戸田菜穂の使い方も含めて、犬童一心監督、女優の魅力を引き出すのは得意のようだ。
2004/04/29(木)「理由」
宮部みゆきの原作を大林宣彦が映像化。2時間40分の大作で、出演者も過去の大林映画のキャスト総出演というぐらいの数が出てくる(107人だそうだ)。しかも全員ノーメイク。これは原作のルポルタージュ形式をリアルに見せるためだそうで、映画の語り口も原作そのままだ。
前半は早口のセリフの洪水という感じ。後半、マンションで殺された4人とその関係者の家族の描写が進むにつれて映画はゆったりとしたペースになり、深みを増してくる。原作を読んだ際には宮部みゆきにしては人間の深みが足りないと思う部分もあったのだが、映画はそこをすくい上げて、しっかりと描写している。南田洋子とか勝野洋とか回想で出てくる片岡鶴太郎にうまさを感じる。