2004/07/28(水)「シュレック2」
前作は“政治的に正しい”おとぎ話にギャグとパロディを散りばめた作りだったが、ラストに納得はするものの、あれで本当に幸せだったのかどうか疑問も残った。フィオナ姫の魔法が解けてみたら、絶世の美女になるのではなく、怪物になってしまったからだ。このオチは意外ではあるし、人は外見じゃないよというのは分かるのだが、どうもめでたしめでたしという感じではない(もちろん、製作者たちはそんなことを狙ってるわけではないだろう)。いや、美女になったら幸せで、怪物になったら不幸と考えるのは政治的に正しくないし、製作者たちのシニカルな視点も分かるのだけれど、一般大衆の感覚からは離れている。
今回はその疑問を払拭するような話である。ラストでフィオナ姫は能動的にある選択をする。前作との違いはここにある。他人まかせではなく、自分の意思で決める。そこに心地よさがあり、人は外見じゃないという主張も説得力を増すのだ。大衆性にシフトしたからこそ、アメリカでは前作以上にヒットしたのだろう。
前作以上にギャグとパロディが散りばめられている。子どもを無視して、その親の世代をターゲットにしたようなパロディも多い。優れたパロディは元ネタが分からなくても笑えるものだが、この映画のパロディもそのようで、子どもは大笑いしていた。
今回の新キャラクターである長靴をはいた猫がシュレックの洋服の下から飛び出すのは「エイリアン」だし、終盤に登場する巨大クッキーマンは「ゴーストバスターズ」のマシュマロマンを彷彿させた。ついでに書くと、馬車から出てきたシュレックとフィオナ姫を見て、待ち受けた人々が唖然とした表情を見せるのは個人的には「新・猿の惑星」のコーネリアスとジーラが宇宙船から降りてきたシーンを思い出さずにはいられない。ドンキーが「ローハイド」のテーマを歌ったりして、出てくるパロディは年季が入っている。すべったギャグがないのも立派なものである。
ドリームワークスの3DCGアニメは「ファインディング・ニモ」などのピクサーより表現がリアルだ(ピクサーはわざと漫画映画っぽい表現を残している節がある)。このリアルさがキャラクターの表情の細かいリアクションにつながっており、シュレックとフィオナ姫にまとわりつくドンキーの絡みをはじめ、実写以上にキャラクターの表情が豊かである。
あと、感心したのはクライマックスのミュージカルシーン。アレンジした「ヒーロー」とともに展開するこのシーンは、本当に楽しい。ミュージカルが血肉となった国のアニメでなければ、こういう楽しさは表現できないだろう。
次女を連れて行ったので、僕が見たのは日本語吹き替え版。前作同様、シュレックは浜田雅功、フィオナ姫を藤原紀香、ドンキーを山寺宏一が吹き替えている。シュレックの関西弁も悪くない。長靴をはいた猫は竹中直人。
2004/07/20(火)「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」
昨日、子ども3人を連れて見に行った。1軒目の映画館は満席で入れず。30分後に上映が始まる別の映画館に行く。こちらは客が少なくて快適だった。
前半はこれまでの2作と同工異曲で退屈だが、2種類の狼男と時間テーマが絡む後半の展開にちょっと感心した。2作目では目立たなかったハーマイオニー(エマ・ワトソン)が今回、大活躍するのもいい。ただし、これまでの2作より小味な感じがする。スケール感がないのだ。上映時間が2時間22分と最も短いことが影響しているのではなく(子ども向けなのだからもっと短く、1時間30分程度でいい。前半の描写には無駄が多いと思う)、ハリー・ポッターが戦う敵のスケールが小さいのだ。というか、今回、悪役らしい悪役は1人だけではないか。しかも本筋の敵ではない小悪人であるから、何だか物足りない。
子ども向けの丁寧なファンタジーではあるが、大人を満足させるほどの出来にはなっていない。第1作が公開されたころは、同じファンタジーということで「ロード・オブ・ザ・リング」と比べられたが、今となっては「ロード…」と比較すべくもない。
アズカバン牢獄から凶悪な囚人シリウス・ブラックが脱獄する。ブラックはハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)の両親をヴォルデモード卿に引き渡し、死に追いやった張本人で、今度はハリーの行方を追っているらしい。ホグワーツ魔法学校のダンブルドア校長(マイケル・ガンボン)は学校にアズカバンの看守ディメンダーを呼び寄せ、警護に当たらせる。しかし、ブラックは密かに学校に近づいていた。
まるで死に神のようなディメンダーの存在は面白い。これは看守とはいっても善玉ではなく、魂を吸い取る悪の存在にもなりうるらしい。VFXはこのディメンダーのほか、馬と鳥を組み合わせたようなバックビーク、狼男などよくできている。ロン役のルパート・グリントを含めて主役の3人は1作目からすると、随分成長した。この3人には好感が持てるので、原作とは離れてもいいから3人の成長を生かしたシリーズにしてほしいと思う。
監督はクリス・コロンバスからアルフォンソ・キュアロン(「天国の口、終りの楽園。」)に代わった。キュアロンはシリーズのテイストを残しつつ独自のものを出したかったのかもしれないが、独自の味わいを出すまでは至っていない。シリウス・ブラック役のゲイリー・オールドマン、トレローニー先生を演じるエマ・トンプソンとも演技派だが、この映画では特に評価すべきところはなかった。
上の子ども2人は原作を読んでいる。感想を聞くと、「いっぱい省略してあった。小説の方が面白い」(長女)、「映画の方が面白かった」(長男)ということだそうだ。
2004/07/15(木)「スパイダーマン2」
同じサム・ライミ監督による2年ぶりの続編。ダニー・エルフマンの音楽に乗って、前作のストーリーをイラストで見せるオープニングがいい感じである。前作の話をそのまま引きずっており、スパイダーマンことピーター・パーカー(トビー・マグワイア)とMJことメリー・ジェーン・ワトソン(キルステン・ダンスト)の恋の行方と、グリーン・ゴブリンだった父親(ウィレム・デフォー)を殺され、スパイダーマンに復讐心を燃やすハリー・オズボーン(ジェームズ・フランコ)のドラマを軸にしている。これに絡めて、核融合実験の失敗から機械のアームを持つ怪人ドック・オクとなった科学者ドクター・オクタビウス(アルフレッド・モリーナ)とスパイダーマンの対決が描かれる。
前作は「大いなる力には大いなる責任が伴う」というテーマを抱えながらも、ドラマ部分が軽かったのが不満だったので、ドラマ重視の作りは悪くない。高層ビルの壁面で展開されるアクションなどVFXも充実している。十分に面白いことを認めた上で不満な点を書くと、主人公の悲壮感が決定的に足りないと思う。どうもスパイダーマンとして生きる主人公の苦悩が響いてこない。その苦悩とはMJへの思いである。MJが自分と親しくなれば、悪いやつらから狙われる。だからパーカーはMJに思いを打ち明けられない、というわけだ。
このほかパーカーが家賃の支払いを迫られたり、仕事や大学の講義に遅刻したり、伯母が銀行からの融資を断られたりするエピソードがあるけれど、こうしたエピソードがスーパーヒーローものに必要だったかどうか疑問に思う。もちろん、サム・ライミは人間的な部分を強調したいがためにこうしたエピソードを入れたのだろうが、これはスーパーヒーローのキャラクター形成方法としてはほとんど間違っているとしか思えない。
宿敵ワルダスターを倒すために民間人を巻き添えにした「宇宙の騎士テッカマン」とか、近いところで言えば、地球生態系を守るために人間の犠牲をも厭わない「ガメラ3 邪神覚醒」のガメラの設定を見習って欲しいところだ。こういう悲壮な決意を持つ孤高のヒーローに比べると、サム・ライミのスパイダーマンはいかに表面で深刻な問題を抱えていても根底にはアメリカらしい脳天気さがある。スパイダーマンはNYの人々からスーパーマンのように正義の味方として認知されており、人々に理解されない孤高のヒーローではない。登場人物が深刻に悩んでいても基本的に明るいのはライミの資質が影響しているのかもしれない。僕のスパイダーマン原体験が平井和正原作、池上遼一作画の悲壮な スパイダーマン(このコミックは現在、メディアファクトリーから再刊中だ)にあるので、そういう部分に不満を感じてしまう。
主人公はスパイダーマンであることをそのコスチュームとともに一度は捨て去るが、伯母の言葉とMJをドック・オクにさらわれたことで復帰を決意する。このエピソードは「スーパーマンII 冒険篇」などを参考にしたのだろう(ロイス・レーンと結婚するためにスーパーマンの能力を捨てたクラーク・ケントは街のチンピラに叩きのめされたことと、スーパー3悪人が行っている悪行を見て復帰を決意する)。「大いなる力には大いなる責任が伴う」という言葉は「大いなる力」を持った者は不用意にそれを捨てることは許されないという意味もあるのだと思う。スーパーヒーローには個人の幸せよりも社会の平和を優先する義務があるのだ。
だからクライマックス、ドック・オクがブレーキを壊して暴走した列車をスパイダーマンが身を挺して止める場面は、それを象徴している場面と言える。ここでスパイダーマンは前作同様、マスクを脱ぎ去る。そしてMJにもハリーにも素顔をさらすことになる。明らかに第3作が作られそうなラストの処理だが、スパイダーマンの苦悩の一つが解決したことで、この路線での第3作は相当に脚本を練らないと難しいような気がする。バットマンシリーズのように第3作ではそういう部分をばっさり切り捨てて映画化することもできるが、それではあまりにも芸がない。サム・ライミ、次が正念場だ。
2004/07/07(水)「スキャンダル」
ヨン様人気と女性の日が重なって、映画館は満員で整理券を発行していた。しかも男は僕ひとりだけだったような気が。オバさまパワーに恐れ入りました。
ラクロの「危険な関係」を18世紀の朝鮮に翻案した作品。監督のイ・ジェヨンはスティーブン・フリアーズ版「危険な関係」を見て、映画化を決めたという。数ある「危険な関係」の映画化のうち、僕はフリアーズ版しか見ていないが、この「スキャンダル」はそれに劣らない出来だ。危険な恋愛ゲームの首謀者チョ夫人がラストに見せる深い後悔と喪失感は秀逸。人の心を弄ぶゲームによって、当事者さえも傷つき、破滅していく様子を象徴的に見せた。チョ夫人を演じるイ・ミスクが映画を引き締めている。
李朝末期の朝鮮。政府高官の妻チョ夫人(イ・ミスク)は子どもに恵まれず、夫は16歳の側室ソオク(イ・ソヨン)を迎え入れることにする。内心穏やかでないチョ夫人は従兄弟のチョ・ウォン(ペ・ヨンジュン)にソオクを妊娠させるよう持ちかけるが、プレイボーイのチョ・ウォンは簡単すぎてつまらないと断る。その代わりに提案したのが婚約者の死後9年間も貞節を守り続けているチョン・ヒョン(チョン・ドヨン)を落とすこと。それに成功すれば、褒美として初恋の人でもあったチョ夫人と関係を持つとの条件つきだった。チョ・ウォンはあの手この手でチョン・ヒョンにアタックをかける。チョン・ヒョンが参加している天主教の組織に多額の寄付をしたり、暴漢に襲わせたチョン・ヒョンを助けたり、何通も手紙を出したり。次第に心を開いたチョン・ヒョンは突然チョ・ウォンに熱烈なキスをされて、すべてを投げ出す決意をする。そしてチョ・ウォンも本気でチョン・ヒョンを好きになっていく。それを知ったチョ夫人は嫉妬からチョン・ヒョンを陥れようと画策する。
ペ・ヨンジュンは「冬のソナタ」のイメージを一掃して好演しているが、惜しいのは貞淑なチョン・ドヨンが普通の女優でありすぎること。フリアーズ版のミシェル・ファイファーのような美人じゃないので、プレイボーイが本気で好きになる対象としてあまり説得力がない。やはり恋愛ゲームの犠牲者である側室役イ・ソヨンの方が美人だった。エンドクレジットの途中でぞろぞろ席を立ったオバさま方には分からないでしょうが、イ・ソヨンが最後の最後に出てくる。この恋愛ゲームの犠牲者の一人でありながら、溌剌としていてちっとも犠牲者という感じがしないイ・ソヨンのたくましさ(若さ)がいい。
イ・ジェヨン監督の演出は端正かつ情感のこもったものだが、前半は話の展開が分かっているためかメリハリに欠けると感じた部分もあった。朝鮮の貴族社会を詳しく再現した美術と衣装はよい仕事をしている。バロック調の音楽もいい。
2004/07/04(日)「シャーロット・グレイ」
「何か私にできることがあるはずだわ。しなくてはいけないことが…」。匿っていたユダヤ人の子ども2人をドイツ兵に連れ去られたシャーロット・グレイ(ケイト・ブランシェット)は必死に考える。そしてタイプライターに向かう。
列車の中でフランス語に堪能なところを買われて、諜報員の誘いを受けたイギリス人のシャーロットはフランスのレジスタンスに協力する理由を「国のため」と答える。最初の理由としてはフランスへ行ったパイロットの恋人に会えるかもしれないという期待もあったのだろう。しかし、フランスでナチスの手先となった卑しい人間を目の当たりにし、レジスタンス仲間の死に立ち会い、ユダヤ人なら子供でさえ連れ去られてしまうという厳しい現実を知ることで変わっていく。ブランシェットはいつものようにその変化を絶妙の演技で見せる。
セバスチャン・フォークスのベストセラー(1999年)を女性監督のジリアン・アームストロングが映画化。甘すぎるラストなど見ると、全体的には女性映画の範疇に収まってしまう映画だが、ブランシェットの演技を見るだけでも価値がある。ブランシェットは例えば、ニコール・キッドマンやナオミ・ワッツのような正統的な美人ではないけれど、その雰囲気と演技のレベルの高さがとても魅力的な女優と思う。
シャーロットと愛し合うようになるレジスタンスにビリー・クラダップ、その父親をマイケル・ガンボン(「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」のダンブルドア校長役)が演じていて、特にガンボンの存在感が圧倒的だ。