2004/11/27(土)「Mr.インクレディブル」
スーパー・パワーが社会の迷惑になるとして引退させられ、政府の保護下に置かれたスーパー・ヒーローとその家族が難事件に出会ったことで復活する姿を描くピクサーの3DCGアニメ。おもちゃや魚やお化けを描いてきたピクサーとしては珍しく人間(スーパー・ヒーローだが)が主役の映画で、これは監督のブラッド・バードが加わったことによるものだろう。「アイアン・ジャイアント」の監督であるバードは今回も伏線を張ってしっかりとした物語を組み立て、大人が見ても楽しめるアニメに仕上げている。音楽や悪役の描き方は007調、構成は「スパイキッズ」を思わせるけれど、家族が絆を深める姿やスーパー・パワーを持つ子どもの自己実現の姿をじっくりと描いており、その両者よりは良い出来である。主人公の家族の絆や愛情は普通の家族にも当てはまることで、そうした普遍性を備えているのが強いところか。エモーショナルなものを根底に置くのはピクサー映画の特徴だが、この映画もその例に漏れない。少し長い(上映時間は2時間)ので、小さな子どもにはつらい部分もあるけれど、バードの映画としては、個人的に違和感がつきまとった「アイアン・ジャイアント」よりはるかに優れていると思う。
主人公のインクレディブルはスーパー・ヒーローとして街を守っていたが、ビルから落ちた男を助けたために訴訟を起こされる。男は自殺しようとしたのであって、助けてもらおうとは思っていなかった。助けられた時のけがで不自由な体になったという理由。同時にスーパー・ヒーローたちの強すぎるパワーは社会問題となり、ヒーローたちは活動を禁じられる。15年後。インクレディブルことボブ・パーは保険会社に勤めてさえない毎日を送っている。妻は元スーパー・レディのイラスティガールことヘレン。消える能力を持つヴァイオレット、超人的な走りの能力を持つダッシュ、赤ん坊のジャック・ジャックの3人の子どもがいる。会社で困っている人に保険金が出るよう手を回したボブは社長から責められ、ふとした弾みで社長に重傷を負わせて会社をクビになる。そこへスーパー・ヒーローの能力を使う依頼が来る。暴走したロボット兵器を止めてほしいというものだった。しかし、その依頼には陰謀があり、ボブは捕らわれの身となる。ヘレンとヴァイオレット、ダッシュは力を合わせて父親を救出しようとする。
一般市民としての生活を守るため、インクレディブルの家では子供たちにスーパー・パワーの使用を禁じている。その力を思い切り使う場面を用意することで、映画は子どもの自己実現の重要さを訴えているし、同時に父親を助けようとする家族、家族を思う父親の姿を描いて、脚本には隙がない。ユーモラスな描写に絡めてそうした部分をしっかりと描いているのがいい。3DCGの技術はピクサー独自のものではなくなったし、今さら珍しくはないけれど、脚本を大事にする姿勢はピクサー映画のブランド化に大きく貢献していると思う。
吹き替えは主人公をクレイグ・T・ネルソン、ヘレンをホリー・ハンターが担当。日本語吹き替え版は三浦友和、黒木瞳がそれそれ演じている。どうでもいいが、手足がグイーンと伸びるインクレディブル夫人の能力は「ワンピース」のゴム人間ルフィを参考にしたのではないか。バードはパンフレットで「日本人はそのアニメのポテンシャルに気づいて、アニメの可能性をどんどん切り開いていると思う。世界のアニメは今、日本に追いつこうとしているんだよ」と語っており、日本のアニメはよく研究しているはずである。
2004/11/22(月)「ハウルの動く城」
前作「千と千尋の神隠し」は2度行って満員で入れず、公開後1カ月にして3度目でようやく見ることができた。今回は平日の朝一番に見に行って、楽々座れた。2館で上映しているためもあるのだろうが、公開が夏休みに重ならなかったことが大きい。大人が見るためにも宮崎駿作品は子どもの休みと重ならない時期の公開が好ましいとつくづく思う。
さて、今回は一筋縄ではいかない作りである。呪いによって90歳のおばあさんに変えられた少女ソフィーがハウルとその仲間たちと擬似的な家族を築いていく、という表面的な物語自体は簡単なだけに、宮崎駿が込めたテーマが見えにくくなっている。終盤の展開を見れば、宮崎駿が「ハートを取り戻せ」「人間らしく生きろ」と言っているのは明確なのだが、原因と結果の描写を微妙にずらしている(あるいは単純な因果関係にない)ので解釈しにくいのである。これを子どもと一緒に見た親は子どもから「なぜ」を連発されることになるだろう。しかし、そうした描写の仕方によってこれは奥行きの深い物語になった。単純な比喩による一意的な解釈を許さない物語というのは確かにあって、そういう作品は時代によって受け取られ方が異なるものだが、イラク戦争が泥沼化した今の状況を考えれば、これは反戦が大きなテーマと受け取っていいだろう。今さら言うまでもなく、宮崎駿は硬派な人なのである。その意味でこれは「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」という初期作品の延長線上にある作品と言える。
人の心臓を食べると言われるハウルという魔法使いに街で偶然会った18歳のソフィーが荒れ地の魔女に呪いをかけられ、90歳のおばあさんになる。このままでは家にいられない。家を出たソフィーは荒れ地で、かかしのカブを助けた後、ハウルの動く城にたどりつき、掃除係として一緒に暮らし始める。ハウルの城にはハウルと契約を結んで暖炉に縛り付けられている火の悪魔カルシファーと弟子のマルクルという少年が住んでいる。ハウルは夜になると、どこかへ出かけていく。この4人プラス魔力を失った荒れ地の魔女が次第に家族みたいになっていくと同時にソフィーはハウルに惹かれるようになるというのがメインプロット。併せてこの国で起きている戦争の描写もインサートされる。国王のそばにはハウルの師匠に当たる魔法使いのサリマンがいて、ハウルを戦争に協力させようとしている。このサリマンが一般的に言えば、悪役になるのだが、ここでも宮崎駿は一意的な描き方はしていない。敵を倒して終わらせる物語ではないのである。
呪いをかける方法は知っていても解く方法を知らないとか、カルシファーの「火薬の炎は嫌いだ。あいつらは作法を知らない」というセリフとか、ハウルが戦争で魔法を使いすぎて魔物になっていく描写(これはフォースのダークサイドに落ちるイメージを思い起こさせる)とか、戦争や愚かな人間を暗示した描写は至る所にある。終盤、ハウルが心臓を取り戻すシーンから一気に戦争の終息を示す描写など見ると、心臓=ハート=人間性を取り戻せば、争いごとはなくなるという主張がくっきりと浮き上がってくる。
心臓を取り戻したハウルは「体が重くなった」と言う。それに対してソフィーは「心は重いものなのよ」と答える。目に見える敵ではなく、自分の心の中にいる敵。人間の心次第で状況は悪化もすれば、好転もする。映画に戦争はあってもその具体的な理由や戦場の悲惨さはない。戦争を悪いこととして抽象化することで、映画は分かりにくくなっているし、大衆性も伴ってはいないけれど、それによって右翼左翼や宗教上のイデオロギーから独立した普遍的な作品になり得ていると思う。
2004/11/15(月)「コラテラル」
12年間タクシーの運転手をしているマックス(ジェイミー・フォックス)には夢がある。リムジンの会社を持つこと。タクシー運転手は本人にしてみれば、仮の仕事である。そんなマックスを見透かしたように殺し屋のヴィンセント(トム・クルーズ)が言う。「みんないつかは自分の夢が実現すると思ってる。しかし、何もしない。夢をどこかに置いて、テレビをボーっと見ている。そしてある日、鏡を見て自分が年を取ったことに気づくのさ」。
これと対をなすのが序盤にある女性検事アニー(ジェイダ・ピンケット=スミス)との会話で、翌日の公判を控えてナーバスになっているアニーにマックスは休養を取るよう勧める。自分は仕事中でもボラボラ島の写真を5分間見ることで休息していると言い、「これが必要なのはあんただ」と写真を渡す。そしてアニーは自分の名刺を渡すのだ(2人に交流が芽生えるこのシーンを見れば、クライマックスの予想は付く)。事件の巻き添え(コラテラル)になったタクシー運転手という本筋の話よりも印象に残るのはそんなセリフで、脚本のスチュアート・ビーティー、サスペンスとは別の意味でなかなかうまいと思う。マイケル・マン監督の映画としては特に出来がいいわけではないが、演出は的確であり、ひと味違ったサスペンス映画になっている。
マックスはアニーを降ろした後、同じビルの前でヴィンセントを乗せる。予測した通りの時間でヴィンセントを目的地まで送り届けると、マックスの腕を見込んだのか、ヴィンセントは600ドルで今夜行く数カ所への運転を依頼する。マックスが一休みしていたところ、ビルの窓から車の屋根に死体が落ちてくる。死体はヴィンセントが殺した男。ヴィンセントは殺し屋で今夜5人を始末するという。脅されたマックスは男の死体をトランクに入れ、次の目的地に向かう。死んだ男は麻薬組織の一員で、裁判の証人だった。男が消えたことで麻薬捜査官のファニング(マーク・ラファロ)など警察も捜査を開始する。ヴィンセントが3人目を殺したところで、マックスはヴィンセントの鞄を奪い、道路に投げ捨てる。中には標的の資料が入っていた。ヴィンセントは組織のボス、フェリックスに会い、標的の資料をもらうよう強要する。
タクシー運転手が主人公の映画と言えば、マーティン・スコセッシ「タクシー・ドライバー」がある。あの映画がニューヨークの風俗をつぶさに映し出したほど、ロサンゼルスの街がよく描かれているとはいえないのがちょっと不満な点。これは狙いが違うのだから仕方ないが、平凡な運転手だったマックスの変化も明確には描かれないのが弱いところか。クライマックスは5人目の殺しを阻止しようとするマックスとヴィンセントの対決になる。いくらヴィンセントがけがをしていたとはいっても、マックスに勝てる理由は見あたらないのも弱い。しかし、ジェームス・ニュートン・ハワードの音楽とディオン・ビーブの撮影はともにレベルが高く、映画に貢献している。
凄腕のタフな殺し屋を演じるトム・クルーズは、白髪交じりの髪に無精ひげのメイクでうまく役にはまっている。美男俳優が殺し屋を演じるのはアラン・ドロンを持ち出すまでもなく、かつては普通のことだった。冒頭、ヴィンセントが降り立つ空港の場面に「スナッチ」「ザ・ワン」のジェイソン・ステイサムが出てくる。ヴィンセントにぶつかって鞄を渡す男の役でパンフレットには名前が記載されていない(この映画のパンフはまったく詳しくない)。ゲスト出演か。
2004/11/11(木)「血と骨」
昨日、見た。見た直後は頭がクラクラして考えがまとまらなかった。
主人公の金俊平(ビートたけし)が一斗缶に入った豚肉を食う場面がある。豚肉は自分でさばいたものだが、日がたっているので既にウジがわいている。俊平はウジをはらいながら口に入れる。それを見ていた息子の正雄は気持ち悪くなって吐いてしまう。あれは朝鮮料理なのかと思って、いろいろ調べてみたが分からない。脚本にも「豚の腐肉」と書かれているだけである。キネ旬を読んでみたら、崔洋一監督インタビューにこうあった。
「(釜山映画祭で)おもしろい質問をしたやつがいた。あの腐肉は日本食なのか、韓国食なのかと聞かれたんですよ。で僕の答えは、いやどちらでもない、あれは俊平食だと。食べても元気にならないから食べるのはやめなさい、と言うと、ウケてましたね」。俊平は後で2年も一緒にいるのに赤ん坊が生まれない愛人の清子(中村優子)にもこれを無理矢理食べさせる。俊平にとって、これは活力を付ける食べ物だったのだろう。
「その男、凶暴につき」を字義通りにいくような金俊平という在日コリアンの生涯を描いたこの映画、重厚な描写が2時間24分も続く力作である。金俊平という男の生き方も特異なら、映画の方も特異で見終わると、ぐったり疲れる。描かれる暴力はアクション映画のそれとはもちろん異なり、見ている方にも痛みと悲惨な感情を伴う。金俊平は自分の思うとおりにことが進まないと、暴れだし、家を壊し、家族を殴り、他人を殴り、その暴力はとどまるところを知らない。死ぬまでこの調子だったのだから恐れ入る。決して近くにはいてほしくない人物である。実際には身長183、4センチの巨漢だったというこの男をビートたけしが凄みを持って演じている。
金銭欲と性欲と支配欲の権化のような金俊平は原作者の梁石日(ヤン・ソギル)の父親がモデルで、戦前、済州島から大阪に渡ってきた。原作は未読だが、映画は原作の前半にある金俊平の青春部分を除いてあるそうだ。そこまで描くと、上映時間は4時間ぐらいになってしまうだろう(初稿は7時間半あったという)。徹底的に他人を信用しない金俊平の人格がどのように形成されていったのかも興味深いところだが、崔洋一監督が目指したのは半径200メートル以内を暴力で完全に支配した身勝手な男の生き方であり、精神分析的な部分には興味がわかなかったのかもしれない。俊平と私生児の朴武(オダギリジョー)が雨の中、延々と殴り合うシーンをはじめ、暴力シーンは多いが、映画で印象的なのは俊平の毒気に巻き込まれて不幸になっていく女たちの姿である。
蒲鉾工場で金をためた俊平は家族が住む長屋の近くに家を借り、戦争未亡人の清子を愛人にして一緒に住む。清子は相当な美人で、酒屋のおやじ(トミーズ雅)が「お姫様みたいや」とつぶやくほど。妻の李英姫(鈴木京香)とのセックスがレイプまがいなのに対して、清子とのセックスは穏やかに描かれる。間もなく、清子は脳腫瘍に倒れる。手術して髪の毛を剃り、頭の一部が陥没した清子の姿は元が美人だけに、ただ悲惨である。言葉も「アー、アー」としかしゃべれず、半身不随で寝たきりとなっている。リヤカーの荷台に乗せて清子を家に連れ帰った俊平は、タライで清子の体を洗うなどこまめに世話をするが、やがて別の愛人定子(濱田マリ)を家に連れ込み、清子の世話をさせるようになる。清子と定子は反目し合い、階下で俊平が定子と一緒にいると、二階から動けないはずの清子が転げ落ちてくる。やがて俊平は濡れた新聞紙を顔に押しつけて清子を殺す。それを見た正雄(新井浩文)に対して、俊平は「楽にしたった」とつぶやく。
娘の花子(田畑智子)は俊平から殴られて歯を数本折る。俊平の支配から逃れるため、好きでもない男(寺島進)と結婚して家を出るが、この男も暴力をふるい、花子は顔に青あざを作るようになる。暴力に耐えきれず、家を出るため正雄に金を借りようとして断られると、首を吊って自殺してしまう。DVから逃れようとした女がやはりDVを振るう男と一緒になってしまうという典型的な例。男尊女卑が徹底したコリアン社会の特色というよりも、そういう時代だったのだろう。
女が印象に残るといっても、崔洋一は今村昌平ではないのだから、女が中心テーマであるわけではない。あくまでも金俊平という男の生き方に惹かれたのだろう。この男の凄まじい生き方を突きつけられて、僕らはそれをどう受け止めればいいのか戸惑ってしまう。そうした戸惑いの一方で、こうした男はかつて確かにいたということも思い出す。映画が描く多数のエピソードのどれかに思い当たる観客は多いのではないか。かつては飲んで暴れる、俊平をスケールダウンしたような父親なんてたくさんいたし、今もいるだろう。俊平は酒が入っていなくても暴れるのだが、両者に共通するのは現状への不満が積もり積もっていることなのではないかと思う。社会の閉塞感が原因なのか、在日コリアンへの差別なのか、俊平がどこに不満を感じていたのか、そもそもそれが暴力の原因なのか、映画は分析していないので分からない。しかし、この映画がぬるま湯の現状に突きつけた過激な作品であることは間違いない。描写は平易だが、単純な分析を許さない映画であり、見終わっても長く後を引く作品である。
崔洋一はかつてハードボイルド調の作品も撮ったが、この「血と骨」もまた、主人公の内面描写を廃している点で、ハードボイルドの精神に近いものがある。行間を読むことを観客に強いる映画なのだと思う。
2004/11/10(水)「笑の大学」
傑作舞台劇の映画化。昭和15年を舞台に、浅草の軽演劇一座「笑の大学」の座付き作家椿一(稲垣吾郎)と警視庁保安課の検閲官向坂睦男(役所広司)の7日間の攻防を描く。原作・脚本の三谷幸喜によると、映画版は「コメディを題材にしたシリアスなドラマ」という。といっても今川焼を巡る爆笑のやりとりをはじめ言葉のギャグは満載で、笑って笑って最後に感動させてという構成はいかにも日本的なコメディである。個人的には最後のほろりとさせるエピソードなど不要に感じたし、もっと別のラストは考えられなかったのかと思うが、これはモデルがエノケン一座の座付き作家で戦死した菊谷栄だから仕方ない面もあるだろう。ちょっとオーバーアクト気味な稲垣吾郎の演技はバラエティ番組の演技としか思えない(これは演出に関わることだが、警視庁の前に来るたびに圧倒されて倒れそうになるなんてありえないだろう)けれど、必死さは伝わってきて悪くない。それを受け止める役所広司の演技が素晴らしく、この映画のほとんどの笑いは役所広司のキャラクターと演技からきている。舞台を映画にして何の意味があるのかという根源的疑問はつきまとうし、ちっとも映画らしくない映画なのは気になるにせよ、見て損のないドラマには仕上がっている。
サイレント映画のようなタッチで映画は始まる。第2次大戦直前のきな臭い時期なので、演劇は当局の検閲を受けなければならない。「ジュリオとロミエット」というパロディを提出した椿一は検閲官の向坂から「毛唐を題材にするなんて」と一喝され、上演不許可の判子を押されそうになる。「チャーチルが握った寿司を食べたいと思うか」というたとえがおかしい。椿は日本を舞台にして翌日までに書き直すと約束し、危うく不許可を免れる。しかし、翌日も向坂は接吻シーンが良くないとして、書き直しを要求する。椿は書き直しを命じられた部分をまた笑いにしてしまう性分。そこが向坂の気に障るところでもあるのだが、「この非常時に喜劇の上演なんて」と考えていた向坂は次第に椿の台本に魅せられ、最高のコメディを椿と一緒に作り上げていくことになる。
書き換えていく過程でどうすればおかしくなるかというコメディの本質を突いたセリフも出てくるので、「シリアスなドラマ」なのだろう。同時に映画は検閲制度に対する批判も込めている。惜しいのはそれと現代とのつながりが見えにくいこと。体制の中から出ず、制限された範囲内で喜劇を作ろうという椿の姿勢には物足りない部分が残るのだ。それが映画としての批判の甘さにつながっているのかもしれない。
監督は「古畑任三郎」などテレビのディレクターで、これが映画デビューの星護。演出は手堅かったが、もっと動きのある題材でないと、本当の力は分からない。2作目を期待したい。