2006/02/06(月)「ブレードランナーの未来世紀」
80年代アメリカのカルト映画を解説した町山智浩の本。取り上げているのはデヴィッド・クローネンバーグ「ビデオドローム」、ジョー・ダンテ「グレムリン」、ジェームズ・キャメロン「ターミネーター」、テリー・ギリアム「未来世紀ブラジル」、オリバー・ストーン「プラトーン」、デヴィッド・リンチ「ブルーベルベット」、ポール・バーホーベン「ロボ・コップ」、リドリー・スコット「ブレードランナー」。いずれも好きな映画ばかりなので、つい買った。
まだ第1章の「ビデオドローム」のところを読んだだけ。この映画が難解とあるのはちょっと意外。いや、難解なのだが、なんとなく意味は通じるのだ。同じクローネンバーグなら、僕には「裸のランチ」(1991年)の方がよほど難解だった。
「ビデオドローム」の難解さは主に製作上のスケジュールが影響していたと説明してある。これは知らなかった。1981年当時のカナダは国産映画に出資すると、税金を免除する制度があったそうで、クローネンバーグは映画化の許可を取り付けた後、机しかない部屋を借りて脚本を執筆したが、「ありとあらゆるアイデアが浮かんで」収拾がつかなくなり、脚本が未完成のまま撮影に入ったのだという。
第1章は宗教とメディア、セックスと暴力の表現を含めて映画の結末まで詳しく解説されている。映画を未見の人は見てから読んだ方がいいだろうが、アメリカの社会状況を含めた考察はとても面白い。こういうカルト作品が好きな人にお勧め。
2006/02/04(土)「ナイト・ウォッチ」予告編
ロシア製のダークなSFファンタジーで4月公開が決まった。光の勢力と闇の勢力の戦いで、光の勢力の方はバンパイアという設定だけを見ると、「アンダーワールド」みたいな感じだが、もっと面白そう。ロシアでは大ヒットして興収記録を塗り替えたそうだ。といっても1600万ドル(18億4000万円)。きっと入場料が安いのだろう。続編の「デイ・ウォッチ」はさらに大ヒットしている。監督のティムール・ベクマムベトフはCMディレクター出身らしい。
公式サイトにある「2004年のアカデミー賞外国語映画部門にノミネートされた」とあるのは間違いでしょう。外国語映画賞のロシア代表作品に選ばれたのでは。本賞のノミネートには入っていない。
2006/02/01(水)「フライトプラン」
飛行機の中から6歳の娘がいなくなるというジョディ・フォスター主演のサスペンス。SFではないのだから、娘が飛行機のどこかにいるのは明白で、そのアイデアだけで後半まで持って行くのはつらいものがある。脚本も穴だらけで、よくまあこの程度の脚本で映画化にOKが出たものだなと思う。プロデューサーに脚本を読む力がよほどなかったか、映画化の段階で脚本が大きく書き換えられたかのどちらかなのではあるまいか(恐らく前者)。密室の中で人が消えたり、殺されたりの不可能犯罪には緻密なトリックがないと面白くない。母親が寝ている間に子供を連れ去るだけではがっかりするのだ。しかもそこからの展開が偶然に頼りすぎた部分がある。この犯人、バカかと思う。個人的には去年の「フォーガットン」(これはSFだったが)と並ぶぐらいのがっかり度。脚本は「ニュースの天才」のビリー・レイとピーター・A・ダウリング。設定だけは考えられても、そこからの物語の発展のさせ方が基本的に分かっていないようだ。監督はドイツ出身のロベルト・シュヴェンケ。序盤の不安なタッチは悪くなく、まともな脚本ならば、もう少しましな映画を撮る監督ではないかと思う。
ドイツで転落事故によって夫を亡くしたカイル(ジョディ・フォスター)は6歳の娘ジュリア(マーリーン・ローストン)とともに深い悲しみの中、ベルリン空港からニューヨークに帰る飛行機に乗り込む。最新型のジャンボジェットE-474はカイル自身の設計によるものだった。睡魔に襲われたカイルは眠り込んでしまう。3時間後、目覚めたカイルはジュリアがいなくなっているのに気づく。客室乗務員とともに飛行機の中を探すが、見あたらない。しかも、調査した乗務員はジュリアの名前が乗客名簿にないと言い出す。カイルがポケットに入れていたはずの航空券の半券もなくなっていた。カイルは機長(ショーン・ビーン)に助けを求めて捜索するが、やがてジュリアは夫とともに6日前に死んでいたという情報がもたらされる。孤立無援の中、錯乱したカイルは飛行機を緊急着陸させようとして、エアマーシャル(私服航空保安官)のカーソン(ピーター・サースガード)に取り押さえられ、手錠をはめられてしまう。
カイルが狙われたのが飛行機の設計士だったからという理由は説得力に乏しい。犯人の狙いがこの程度のことであるのなら、カイル以外の誰でも良かったはず。警官に包囲された飛行機の中でのカイルと犯人の対決もサスペンスにはなりようがない。もっともっと緻密に話を組み立てるべき映画だった。話の底が浅すぎるのである。熱演が少しも報われていないにせよ、ジョディ・フォスターは悪くない。ただ、フォスターのような知的な女性はこんなに錯乱しないのではないかと思う。飛行機に乗り合わせた精神分析医の役でグレタ・スカッキが出ているが、主要キャストではなく、パンフレットに名前さえないのが悲しい。
エアマーシャルという職業は初めて知った。同時テロ以降、保安強化のために配備が進んでいるそうだ。
2006/01/31(火)「空中庭園」
「これは学芸会なんだわ、学芸会なんだわ」と言いながら、ワインを飲み過ぎたミーナ(ソニン)が貴史(板尾創二)に向かって「オエッ」と吐いてしまう場面を見て、思わず「ウワッ」と声をあげてしまった(幸い、劇場にいた観客は僕一人だった)。この後に主人公絵里子(小泉今日子)の家庭である京橋家の誕生パーティーは悲惨な修羅場と化してしまう。学芸会とは言うまでもなく、この仮面夫婦ならぬ仮面家族の一見和やかそうな雰囲気のことで、恐らくミーナはワインに酔ったからだけではなく、家族の嘘くささに気持ちが悪くなって吐いてしまったのだ。
何事も秘密にしないという家族の決まりとは裏腹に、家族4人はそれぞれに秘密を持っている。絵里子はいつも笑顔を絶やさず、夫と長女(鈴木杏)と長男(広田雅裕)の4人家族を取り仕切っているが、一人になった時には般若のような怖い顔を見せる。それがなぜなのかを映画は徐々に明らかにしていく。それは絵里子の子供の頃にさかのぼり、母親との確執が根底にあった。という設定を見れば、カーティス・ハンソン「イン・ハー・シューズ」との類似性も何となく感じてしまう。
絵里子を演じる小泉今日子のもの凄い演技と母親を演じる大楠道代の懐の深い演技がこの映画の見どころで、もうめっぽう面白い作品に仕上がっている。深刻な題材でありながら、サスペンスだったり、ホラーだったり、ショッキングだったり、コメディだったりするところ、つまりエンタテインメントなところが素晴らしい。いや、監督の豊田利晃はもしかしたら、そう受け取られることは不本意なのかもしれないが、この映画の面白さはそういう部分が積み重なったところにあるのだから仕方がない。だからこれは監督が意図しないところで生まれた奇跡的な大ホームランなのではないか、と僕は思う。決して精緻に組み上がった作品ではなく、乱暴な部分もあるけれど、それが逆に面白いという映画である。
例えば、京橋家が住むマンションが画面の中でぐるりと1回転してタイトルが出る場面など何か青臭い撮り方だなと思う。ゆらゆら揺れる長回しのカメラワークにしても、監督の思い入れが強すぎるきらいがある。また、絵里子が母親との不幸な家庭を反面教師にして幸せな家庭を築こうと、15歳のころから基礎体温を計って計画的に努力する要因となった出来事の精神分析的な部分での説明も不足している。母親が嗤った顔だったか、泣き顔だったかを誤解しただけで人は思いこみに突っ走っていくものかどうか。そう思うに至った要因までも探るのが本当だろう。この映画の説明だけではすっきりしない部分が残ったので原作を買うことになった。
そういう十分とは言えない部分があるにもかかわらず、映画が面白いのは小泉今日子に尽きる。笑顔と怒りの落差の激しさは一歩間違えれば、それこそホラーなのだが、ぎりぎり踏みとどまっている。ホラーとかサスペンスとかに似ている部分があるのは絵里子にサイコな部分があるからだ。「幸せな家庭を作りたい」という願いはいつのまにか「作らなければならない」という強迫観念になってしまって、夫の浮気などいくつか目に付く綻びも意識的に見ないようになっている。いったんは壊れた家族が再生へと向かうのは絵里子の再生とそのまま重なっている。家庭を壊したのは実は幸せな家庭を築こうとした絵里子自身にほかならない。現実をありのままに受け入れることで、絵里子が再生を果たすという展開は甘いが、豊田利晃は救いのない映画にはしたくなかったのだろう。クライマックス、真っ赤に血に染まった絵里子の姿は劇中で語られる「人は泣きながら血まみれで生まれてくる」という言葉と呼応するという分かりやすさがまた良いところか。
キネマ旬報ベストテンでは9位にランクされた。もっと上でも良かったと思う。
2006/01/30(月)「THE 有頂天ホテル」
グランドホテル形式で描く都会的なコメディ。三谷幸喜の映画は評判になった「ラヂオの時間」(1997年、キネ旬ベストテン3位)も「みんなのいえ」(2001年)もそれほど感心しなかったが、これは素直に面白かった。数多くの登場人物を出し、細かいエピソードをつなぎ合わせる手腕はたいしたもので、西田敏行と香取慎吾と佐藤浩市が絡むエピソードなど、昨年11月22日の日記に書いた僕が考えるうまい脚本の例とほぼ同じである。
洪水のようなセリフとドタバタした慌ただしい展開の中で、ふっと立ち止まるシーン(例えば、ベッドの中で物思いにふけっているYOU)が効果的だ。大晦日のカウントダウン・パーティーに関わる人々はそれぞれにどこか現状に満足していない。その思いを解消していく終幕へのもって行き方がとてもうまい。「夢をあきらめてはいけない」「他人の目を気にするな」「自分らしく生きろ」という当たり前のことが当たり前にできていないからこそ、その言葉は僕らを元気づけてくれるのだろう。クスクス笑って、爆笑して、最後は心地よい気分になる映画。ホテルの中に限定した作りは演劇的な要素が強いけれど、同時にハリウッドの50年代の映画の雰囲気を備えたソフィスティケイトされた映画であり、映画マニアだからこそ作れた映画だと思う。三谷幸喜がこの映画の中で多数引用している過去の映画の断片や、さりげない伏線の数々はとても一度見ただけでは全部を見つけられないだろう。2度、3度見ても新たな発見ができるのではないか。
キネ旬1月下旬号の三谷幸喜と和田誠の対談によれば、三谷幸喜はこの映画を「火事の起こらない『タワーリング・インフェルノ』」として作ろうとしたという。そう言われてみれば、パニック映画には多数の登場人物が出てきて、災害に遭うことでそれぞれのドラマを展開させていくわけで、グランドホテル形式と似ている。映画は高級ホテル「アバンティ」の副支配人・新堂(役所広司)を主人公にして、カウントダウン・パーティーの準備を進めるホテルの従業員や宿泊客のさまざまな事情と次々に起こるトラブルをテンポ良く描いていく。主要登場人物だけで25人、描かれるエピソードはとても多くて、映画数本分の数が詰め込んである。早口のセリフで映画が進むので、ああこれは伏線をいくつも見逃しているだろうなという気分になるが、それは脚本の計算でもあるのだろう。観客に考える暇を与えないようなスピードで映画はどんどん進んでいく。だからこそ、それが止まるシーンの印象が強まることになる。
先に挙げたYOUは、本来は洋楽を歌いたいのに事務所の社長(唐沢寿明)から邦楽に変更され、しかもホテルに取り入るために新堂と一夜の関係を強要されることになる。ホテルのベルボーイ憲二(香取慎吾)は歌手の道をあきらめて故郷へ帰ろうとしている。国会議員の武藤田(佐藤浩市)は汚職疑惑でマスコミから追いつめられる日々。新堂はホテルマンとして優秀であるにもかかわらず、演劇をあきらめた過去にこだわっている。そうした人々が騒動の中で立ち止まって考え、自分の行く道を確認することになるのだ。ラスト近くにある役所広司と佐藤浩市の「いってらっしゃいませ」「帰りは遅くなる」という会話はだからこそしびれる。
三谷幸喜はこの多くの登場人物の画面には描かれない背景まで細かく設定しているのだろう。撮影現場での俳優のアドリブも多く、それを脚本に取り入れたそうだが、それはこうした設定がしっかりしているから出てくるのだと思う。この映画の中で多用されるワンシーン・ワンカットを僕は映画的な技術とは思わないが、それでもこの映画においては俳優の演技の持ち味を引き出す上で有効に作用していると思う。その効果で西田敏行のシーンはどれもおかしかった。
ぜいたくを言うなら、香取慎吾の歌う「天国うまれ」という歌にもっと魅力がほしかったところではある。これは佐藤浩市の心変わりの契機になる歌なので、ちょっと聞いただけで傑作というぐらいの歌を用意したいところなのだ。オリジナルではなく、既存の有名な曲であってもかまわなかったと思う。