2006/06/06(火)「あおげば尊し」
重松清の原作を市川準監督が映画化。末期ガンの父親を看取る家族と、死体に興味を持つ少年の姿を描く。主人公は小学校の教師。死につつある父親も教師だった。死体に、というよりは死に興味を持つ少年に対して、主人公は死の床にある自分の父親の姿を見せる。父親もそれを受け入れ、少年に対して最後の授業をすることになる。
市川準の他の作品と同じように淡々としたタッチの映画。家庭内で展開される物語なので、見ていて僕はマイク・リーの映画を思い出した。マイク・リーが素人の役者を使うことが多いように、この映画も演技的には未知数のテリー伊藤が初めての主役を務めている。テリー伊藤、静かな演技が意外にうまい。マイク・リーの映画は終盤に劇的で激しい場面を用意することが多いが、この映画はラスト近くまで淡々と進む。もちろん、淡々とした中にキャラクターの造型はしっかり描き込まれていて、だから、ラスト、父親の葬儀の場面で教え子たちが歌う「仰げば尊し」の場面が効果的になる。抑え込まれていた感情が一気に爆発するような効果がここにはある。ドキュメンタリーのような描き方をしていた映画がここだけはっきりとフィクションになり、観客の感情を解放する役割を果たしているのである。それまでのタッチとは著しく異なるので、賛否あるだろうが、ここで泣いたという人も多く、とりあえず大衆性は得ているようだ。テリー伊藤も薬師丸ひろ子も加藤武、麻生美代子もリアルに徹し、ドラマ性を廃した好演をしている。
主人公・光一(テリー伊藤)の父親(加藤武)は末期ガンで余命3カ月と宣告される。「いい思い出を作ってあげてください」との医師の言葉で家族は父親を自宅に連れて帰り、在宅で死を迎えさせようとする。それと同時に描かれるのが光一のクラスの田上康弘(伊藤大翔=名前はひろと、と読む)。康弘はパソコンの授業中に死体のサイトを見ていた。そのこともあって光一はクラスの生徒に父親の姿を見せるが、興味を示したのは康弘だけだった。康宏は死んだ父親の葬儀を覚えていず、そのために死に興味を引き立てられているようだった。
在宅での死を描いているので「病院で死ぬということ」の対になる作品かと思うが、基本的には教師の父親と息子を描いた作品。いや、あるべき教師の姿を描いた作品と言うべきか。在宅での死の詳細は意外に描かれていない。それがテーマならば、もっと描写を多くしていたはずだ。「あおげば尊し」というタイトルからして、これが教師の映画であることは明白だろう。悪くない映画と思ったけれど、葬儀の場面をもっと効果的にする演出はあっただろうという思いもある。父親と教え子たちの間に何らかの伏線があっても良かったと思うのだ。唐突に始まる「仰げば尊し」の歌だけで父親の教師としての在り方を象徴するのには少し無理があるのではないか。在宅での死か教師の在り方か、どちらかにもっと焦点を絞った方が良かったのではないかと思う。マイク・リーの錐でもみ込むような強さがこの映画には欠けている。
2006/05/27(土)「嫌われ松子の一生」
「人生って何? 人生って何?」と始まった歌詞が「愛は人生、愛は人生」と変わっていく。ひどい男を殺して刑務所に入った川尻松子(中谷美紀)が自分を愛してくれた平凡な理容師(荒川良々)の元へ行こうと決意する心情の変化をたどる場面に合わせて流れるこの「What Is A Life」(AIと及川リンのコラボ)がもっともミュージカルらしい歌だと思う。男の元で意外な事実を知った中谷美紀の泣き笑いの表情もいい。パンフレットによれば、監督の中島哲也は最初に場面に合わせた歌を各アーティストに頼んだそうだ。歌と踊りで主人公の心情を表現するというミュージカルの根本的な在り方がこの映画にはある。
いや心情どころか、ドラマの展開までを盛り込んでおり、不倫した男との幸せを綴り、ディズニー映画の音楽を思わせる「Happy Wednesday」も秀逸な歌であり、まるで50年代のハリウッド映画のミュージカルのようにハッピーな感覚にあふれた秀逸なシーンだ。歌にドラマを肩代わりさせることが、物語の簡潔な描き方にもなっている。日本映画としては本当に珍しくミュージカルとして成功した映画と言える。同時に昭和22年生まれという松子の人生に合わせてその時々のヒット曲を盛り込んでいるのがもう、ほとんど歌謡映画。音楽がこれほど重要な位置を占める映画というのもまた日本映画としては珍しい。極彩色の場面とCGを盛り込んだ独特の映像とテンポの速い展開も併せて、中島哲也のオリジナリティは革新的であり、海外に十分通用する技術だと思う。
そもそも山田宗樹の悲惨な原作の中にユーモアを感じたという中島哲也のセンスが非凡なものなのだろう。映画は河原で撲殺された松子の部屋を掃除するよう父親(香川照之)から言われた松子の甥の笙(瑛太)が松子の一生をたどる形式。松子は小学校の教師をしていたが、修学旅行先の旅館で盗みを働いた男子生徒をかばった(というよりは早く問題を終わらせたかった)ために誤解が誤解を呼んで教師を辞職させられる。家では病弱な妹久美(市川実日子)ばかりをかわいがる父親(柄本明)に愛されようと頑張ってきたが、家を出ることになる。そこからは転落の一途。作家志望の男(宮藤官九郎)と同棲するが、さんざん暴力をふるった挙げ句、男は自殺。ソープに勤め、ひも男(武田真治)を殺し、刑務所に服役することになる。
悲惨な話を明るく描いたとはいっても、根底にあるのは強いエモーション。泥臭く言えば、浪花節的な部分である。ダメ男ばかりを愛してしまう松子の心情は徐々に浮かび上がってくる。一人よりはまし。松子がダメな男であっても次々に男に惹かれるのは家族から見捨てられ、孤独に耐えられなかったからだろう。男に尽くしても尽くしてもひどい目に遭わされる松子の姿は神にたとえられ、「人の価値というのは人に何をしてもらったかじゃなくて、人に何をしてあげたかだよね」というセリフが生きてくる。笑いと涙、ドライとウェットを混在させた作りには感心させられる。同じく不幸な女を描いても、悲惨に終始したラース・フォン・トリアー「ダンサー・イン・ザ・ダーク」よりは随分洗練されていると思う。
中島哲也の前作「下妻物語」を彷彿させるのは刑務所の中で知り合っためぐみ(黒沢あすか)との関係で、AVに出ためぐみがレストランで泣き崩れるシーンなどは失恋したイチコ(土屋アンナ)の姿を思い起こさせた。黒沢あすか、いい感じである。
2006/05/13(土)「超劇場版ケロロ軍曹」
「まじめにふまじめかいけつゾロリ なぞのお宝大さくせん」との2本立て。どちらも1時間程度でサンライズの製作。なので、ケロロ軍曹にはガンダムが登場したりする。絵は悪くないと思うが、僕は終盤眠かった。話にオリジナルな部分は見あたらない。
「ケロロ軍曹」は子供に大人気で、うちにも吉田観音の原作がたしか7巻か8巻まである。「小さき勇者たち ガメラ」にはまだ発売されていない13巻が登場した。吉田観音、ガメラのファンなのだそうだ。
2006/05/13(土)「陽気なギャングが地球を回す」
伊坂幸太郎の原作を読んだ時に、映画に向いた題材だなと思った(2004年6月19日の日記に書いている)。話の軽さとキャラクターの面白さが際だっていたからだ。ただ、面白く読めた作品ではあるが、それほど感心する部分はなかった。僕は原作の熱心なファンではない。だから、原作と映画がどう違おうが、気にしない。
前田哲監督は予算不足が目についた前作「棒たおし!」(2003年)よりは潤沢な予算で軽い映画に仕上げている。オープニングのカット割りや観覧車への驚異的なズームアップなどはなかなかよくできていて、これは面白い作品なのではと思わせるが、その後は軽いなりにやや1本調子になった感がある。1時間32分という上映時間は軽い映画にはぴったりなのだが、それでもこのテンポでは長く感じた。CGを使ったカーチェイスや場面転換の漫画的な感じなど画面としては成功しているのに緩急自在の演出になっていないのは残念。ストーリーもあっさりした感じ。こうしたコンゲーム的なストーリーでは観客をすっかりだますような仕掛けが欲しくなってくるのである。
それぞれに特殊な能力を持つ4人の男女が銀行強盗の現場で出会う。成瀬(大沢たかお)は人の嘘を見抜き、響野(佐藤浩市)は演説、雪子(鈴木京香)は正確な体内時計、久遠(松田翔太)は天才的なスリの能力を持っていた。4人は3カ月後、自分たちで銀行強盗を計画する。まんまと4000万円をせしめるが、逃げる途中、覆面のグループから盗んだ金を横取りされる。4人の中に裏切り者がいたらしい。と、ミステリなのでこれ以上のストーリーは書けないが、4人は横取りグループを捕まえるためにもう一度、銀行強盗を計画することになる。
ストーリーは軽くてもキャラクターはそれなりに描き込む必要があるだろう。この映画に不足しているのはそうしたキャラクターの深みで、軽いタッチだからこそ、そういう部分が必要と思う。画面の方に力を入れすぎて、それが疎かになったのかもしれない。人工的な画面の作りもそれに拍車を掛けた感じがある。軽いだけでは満足できないものなのである。「棒たおし!」でも感じたことだけれど、どうも、前田哲監督には意欲を映画化していく段階での技術がやや不足しているように見受けられる。「楽しい映画を作ろう」という意気込みは分かるが、十分な成果につながっていないのだ。見かけだけに終わっている、というのは言い過ぎか。
出演者はそれぞれに良く、大沢たかおも佐藤浩市も鈴木京香も軽く軽く演じている。佐藤浩市は演技の懐の深い役者だなと思わせるし、鈴木京香の色っぽさも相変わらず良かった。松田翔太は伊坂幸太郎に顔の輪郭が似ていて面白い。
2006/05/07(日)「Limit of Love 海猿」
握り合う手と手がモチーフか。冒頭、墜落した飛行機の乗客を救出する場面で、主人公の仙崎(伊藤英明)は一人の手を放してしまう。それが仙崎に心の傷を負わせて、環菜(加藤あい)との結婚も延期してしまうのだが、映画はここを驚くほど簡単に描いている。手を放さなければならなかった理由とか、状況を克明に描く必要があったと思う。例えば、レニー・ハーリン「クリフハンガー」では冒頭にあるシルベスター・スタローンが友人を山で亡くすシーンが主人公のその後の再生に説得力を持たせていたように、こういう描写は冒険小説的な映画では常套的なものなのである。ある事件を通じて主人公がそれを克服していくのが普通なのだ。死地から生還する主人公。監督の羽住英一郎にはそういう視点はなかったようだ。いや、あったのかもしれないが、描写が不足している。
あるいは仙崎たちがフェリーから脱出するために30メートルを潜水で移動するシーンを描かなかったり、脱出の前に環菜に長々とプロポーズしたり、フェリーが沈没するまでの時間の経過が感じられなかったりするところなどが、映画が傑作にならなかった要因のように思う。全体的に面白い映画と思ったものの、話がプロット以上のものではなく、密度が薄く感じる。沈没するフェリーのVFXなどビジュアル的には文句のない映画になっているのに惜しいと思う。
鹿児島沖3キロで乗客620人、車両195台を乗せたフェリーが砂利運搬船と衝突、座礁する。フェリーには亀裂が生じ、浸水する。乗客を避難させる時間は4時間。仙崎たち海上保安官は必死で乗客を避難誘導する。避難の途中で船の売店で働く妊婦の本間恵(大塚寧々)が傷を負い、仙崎は手当てをする。恵の案内で脱出しようとした仙崎は車庫で豪華な車に乗っている海老原真一(吹越満)を見つける。海老原を連れて脱出しようとしたところで爆発が起き、バディの吉岡(佐藤隆太)とともに仙崎ら4人は船に閉じこめられてしまう。下の階は浸水、上の階は火災の絶体絶命的な状況。海上保安庁の下川(時任三郎)は30メートル潜水して脱出するよう指示を出す。仙崎たちはそれに成功するが、無線は故障し、船の爆発が相次いだことから、下川は他の海上保安官たちに船からの撤収を命じる。
「海猿」は1作目をDVDで見た後、テレビドラマも何回か見た。特に思い入れはないけれども、嫌いな話ではない。映画は人間関係を承知のこととしてあまり深く描いていないが、それがキャラクターの深みを減じることにもなっている。この映画を独立して見る観客のためには仙崎のキャラクターをもっと描き込む必要があったように思う。冒頭の飛行機事故の場面の描写の薄さは環菜との結婚を延期する仙崎の心情を分かりにくいものにしている。閉じこめられたのがたったの4人というのは近々リメイクが公開される「ポセイドン・アドベンチャー」などに比べてハンディがあるように思えるが、そこは羽住英一郎、恵と海老原のキャラクターを徐々に描くことで補っている。このあたりはうまいと思うのだけれど、細部にはやはり不十分な描写があることは否めない。乗客の避難完了までに4時間という設定は映画を見る前にはいくらなんでものんびりしていてダメなのではないかと思ったが、画面を見る限りでは違和感はない。ただし、時間の経過が感じられないのは先に述べた通り。東京にいる下川がすぐに鹿児島に駆けつけたりするのも唐突に感じる。東京から鹿児島までどんなに急いでも1時間半、空港から現場までさらに1時間近くはかかるだろう(ヘリを使えば速いか)。
この映画、全国的に大ヒットしているようだ。大衆性は十分にあり、韓国映画「タイフーン」あたりと比べても画面の迫力は負けていない。それだけに緻密さに欠ける部分があることが惜しまれる。