2007/12/30(日)「劇場版BLEACH The DiamondDust Rebellion もう一つの氷輪丸」

 子供3人を連れて見に行く。選択肢は3つあった。これか、「ルイスと未来泥棒」か「マリと子犬の物語」。「マリ」は長男がダメ、「ルイス」は長女がダメ。次女は「恋空でもいい」とか言っている(それだけは勘弁してくれ)。3人とも第一希望だったのがこの映画だった。

 僕は原作もテレビアニメも見ていず、まったく内容を知らなかった。なので、なんで人が空中に浮かぶんだとか、いったいいつの時代の話なんだとか思いながら見た。映画は独立した話なので背景を知らなくても理解はできるが、死神代行っていったい何のことやら分からない。ホロウとかアランカルとか、耳で聞いただけでは分からないものもある。だいたい主人公はクロサキイチゴという名前なんだが、これにどういう字を当てるのかも分からない。クレジットを見たら、黒崎一護だった。

 「BLEACH」の内容についてはWikipediaが詳しいので参照してほしい(http://ja.wikipedia.org/wiki/BLEACH)。「ひょんな出来事から悪霊・虚(ホロウ)の退治者(死神)になってしまった高校生、黒崎一護とその仲間達の活躍を描いた漫画」だそうである。2001年から少年ジャンプに連載が始まり、単行本の累計発行部数は4200万部。「デスノート」よりはるかに多く、いかに人気が高いか分かる。

 以下、ストーリーはWikipediaをアレンジして引用。尸魂界(ソウル・ソサエティ)の王族の秘宝「王印」の運搬を警護していた日番谷冬獅郎(ひつがや・とうしろう)率いる十番隊が謎の集団に襲撃され王印が奪われてしまう。同時に首謀者と刃を交えていた日番谷も失踪を遂げる。一護は森の中で傷つき「クサカ」という言葉を残して倒れた日番谷を発見し、保護するが、日番谷は一護の問いには何も語ろうとせず、そのまま立ち去ろうとする。そんな日番谷に対して、あくまでも強制的には連れ戻そうとはしていない一護だったが、「邪魔をするな」という日番谷と刃を交える。戦いの最中に2人の女インとヤンが乱入し、日番谷の身柄を渡すことを要求。一護は重傷を負い、更に日番谷も彼女らの後を追うようにその場を立ち去る。日番谷捜索部隊は日番谷に帰還を求めるが、倒されてしまう。山本総隊長は日番谷に謀反の疑念を強め、日番谷処刑の決定を下す。

 「日番谷冬獅郎を処刑せよ」というのが映画のコピーである。上のストーリーを読んだだけでは内容が分からないだろうが、要するに美男美女が登場する超能力SFっぽい作り。作画は標準的で特に優れた部分はないが、悪くもない。ストーリーはファンならこれで喜ぶのだろうが、これだけしか知らない僕から見ると、ちょっと引っかかる部分はある。悪役側に理があるのだ。こんなことになってしまった理由には尸魂界の在り方にも問題があると思える。徹底的な悪役にしてしまった方が単純に面白かったかもしれない。

 アクションに加えてジャンプ連載らしく友情を噛ませているのがみそ。「何があったか知らねえが、一人で背負うんじゃねえ!」「どうして仲間を頼らねえんだ!」。一人で解決に当たろうとする日番谷に対する一護の苛立ちのセリフは自分が小さいころの体験に裏打ちされており、その他大勢の仲間もまた日番谷の真意を理解して助けようとする。

 映画単体の出来としては疑問も感じるが、まあ、本編とは異なるサイドストーリーだから、これでいいのだろう。見に来るファンはキャラクターの活躍が見たいわけで、本編の話とのつながりを期待しているわけではないはず。毎年春に公開される「ワンピース」と同じ位置づけということになるか。キャラクターはそれぞれに魅力的だった。

2007/12/03(月)「自虐の詩」

 中谷美紀でもってる映画だと思う。そばかすとほくろをつけただけで、ほぼノーメイク。それでもきれいで、僕は初めて中谷美紀を美人だと思った。この人、化粧しない方がいいのではないか。原作の幸江より美人すぎるという意見は分かるけれど、そのあたりは演技力で十分カバーしている。

 映画の出来は悪くないと思う。ラストでは泣いてる人が多かった。前半にあるコミカルな卓袱台返しを少なくして、もっと少女時代の熊本さんとのドラマを多くすれば、さらに良くなっていただろうが、そこは堤幸彦だから、コメディの部分を外したくなかったのだろう。脚本は良く原作をまとめていると思うけれど、イサオ(阿部寛)が独身時代には幸江に尽くしていたのに、今はなぜ立場が逆になっているのか分からないとか、突っ込みどころはたくさんある。ぎくしゃくした感じは拭いきれず、そこが減点対象か。

 脚本は関えり香(美人)と里中静流。里中静流は「恋愛寫眞」で広末涼子が演じた主人公の名前で、堤幸彦が今回のペンネームに使ったのだという。関えり香は映画の脚本は今回が初めてだそうだ。

 出演者は寡黙な阿部寛もいいが、あさひ屋のマスターを演じる遠藤憲一が原作とはイメージが違うにもかかわらず、好演している。

2007/12/01(土)「椿三十郎」

 同じ脚本で映画化しているのだから、ストーリーは分かっており、興味はどんな演出をしているか。冒頭、お堂に近づく大目付の配下をとらえたショットを見て、おお森田、やるじゃないかと思った。大島ミチルの時代劇を意識した音楽が良く、若侍たちのユーモアもいい。全体的によくまとまっており、映画の出来は悪くない。ただ、当然のことながら、黒澤版を超えることはできず、これだとリメイクの意味が薄いように思う。オリジナルを見ていない若い観客向けということか。

 黒澤のダイナミズムは森田にはない。数ある黒澤映画の中で、「用心棒」の後の息抜きのようなユーモアのある「椿三十郎」なら自分でも撮れると思ったのは正しい判断と思う。「用心棒」は森田には無理だろう。それでもダイナミズムが必要な部分はあり、ラストの決闘シーンの一工夫は認めるけれども、黒澤版の血しぶきには及ばない。

 鹿児島のOさんは織田裕二について「健闘している」と「シネマ」の原稿に書いてきた。健闘は確かにしているのだが、三船敏郎のような雰囲気が決定的に欠けており、三船を意識した演技を僕は少し窮屈に感じた。要するに軟弱な部分が透けて見えるのだ。いくらセリフ回しを似せようとも、俳優の資質はどこか画面に出てしまうものだ。森田芳光の演出も黒澤を意識した部分がいくつか目に付いた。

 黒澤版の上映時間が1時間36分なのに対して、今回は1時間59分。23分長い。エンドクレジットの分を考慮しても20分近くは長いと考えて良さそうだ。これは俳優のセリフ回しも少し影響しているのかなと思う。「70年代ぐらいまでの日本映画はとにかく早口でしゃべることが多く、密度が濃かった」というような意味のことを大林宣彦が以前書いていた。後は演出のリズムとか描写のコンパクトさとか、以前の映画に学ぶべき点は多い。

 角川春樹は「用心棒」のリメイク権も買っており、いずれリメイクされるのだろう。しかし、あの大傑作を撮れる監督をすぐには思いつかない。犬が人の手首を加えて登場する冒頭の殺伐とした宿場町のシーンから、僕は「用心棒」にしびれた。当時の日活アクションなどを蹴散らしてアクション映画としての格の違いを見せつけた映画なのだ。

2007/11/18(日)「ALWAYS 続・三丁目の夕日」

いきなりゴジラが出てきたのに驚く。このゴジラ、凶悪な顔つきでいい。山崎貴の本領発揮といった場面で、この路線の映画を撮ってほしいと切に願う。本編の方は長すぎる(2時間26分)のが欠点で、30分ほど短くすれば傑作になっていただろう。エピソードが多すぎるというか、描写をもっとコンパクトにすべきところ。クライマックスでは場内のあちこちからすすり泣きが聞こえてくる。この大衆性のあるドラマはいいと思う。

 前作では未完成だった東京タワーが既に完成している。当時の羽田空港を再現した場面をはじめVFXがさりげない感じなのは前作同様。まあ、だから冒頭にゴジラを出したかったのかもしれない。県庁のGさんが来ていて、冒頭の場面を見られただけで良かったと言っていた。

 高度成長前の昭和34年だから成立するドラマ。貧しいけれども、金がすべてじゃないぞという主張が成立するのである。寅さんとかサザエさんの世界。これはテレビドラマで半年ぐらいやるべき素材なのではないかと思う。夢と理想が現実のものになっている世界だと思う。熱血的な堤真一がおかしくて出色。

2007/09/16(日)「包帯クラブ」

 「包帯クラブ」パンフレット天童荒太の原作を堤幸彦監督が映画化。傷ついた人の傷ついた場所に包帯を巻きに行き、それを写真に撮ってネットにアップするという包帯クラブの面々を描く。だれも最初は包帯を巻くだけで心の傷が癒えることなど信じてはいない。しかし、だんだん分かってくる。包帯を巻くことに効果があるのではなく、包帯を巻いてくれた人がいることを知ることによって、傷ついた人は人とつながっていることを知る。それが傷ついた人の心を癒すのだ。やらなければ何も変わらない。やれば変わるかもしれない。それならやろうという登場人物たちの前向きの姿勢が気持ちよい。石原さとみ、柳楽優弥のほか関めぐみ、貫地谷しほり、田中圭、佐藤千亜妃という若い俳優たちがそれぞれに良く、現実の厳しさを併せ持った青春映画として、きっちりまとまった作品だと思う。

 堤幸彦は冒頭で短いショットを積み重ねる。主人公のワラ(石原さとみ)のナレーションとともに描かれるこの冒頭のシーンが秀逸で、堤幸彦はこんなに映画的な手法を取る監督だったかと少し感心しているうちに、映画は厳しい面を見せてくる。主人公のワラ(石原さとみ)は包丁で誤って手首を切り、病院に行く。医者からリストカットと間違えられたことに腹を立てたワラは病院の屋上でディノ(柳楽優弥)と名乗る高校生と出会う。屋上の手すりに立っていたワラを自殺しようとしていると勘違いしたディノは手すりに「手当て、や」と言って包帯を巻き付ける。それが包帯クラブの始まりとなった。親友のタンシオ(貫地谷しほり)の知り合いの浪人生ギモ(田中圭)は包帯クラブのホームページを作り、ディノを引き入れて4人は活動を始める。サッカーでオウンゴールをして引きこもった少年のためにはゴールとボールに包帯を巻く。美容院で髪を切りすぎた女性のために美容院の前で包帯を巻いたタンシオの写真をアップする。街のいろんなところに4人は包帯を巻いていく。

 ディノは生ゴミをポケットに入れて学校に行ったり、自分がいるテントの中に爆竹を投げ込ませたりする。それは他人の痛みを知るためだという。他人の痛みを知らない人間によって人は傷つけられるのだ。「包帯1本巻いて何かが変わったら、めっけもんやん」「来いやー、出てこいやー」と下手な関西弁で言う柳楽優弥は複雑なキャラクターをうまく演じている。両親が7年前に離婚したことでワラは心に傷を持っている。「自分の子供だったら、どんなに醜くてもバカでも親はかわいいものだ」との考えが父親には通じなかったからだ。父親が勤めていた工場が倒産したために高校には進学しなかったリスキ(佐藤千亜妃)と、中学時代は親友だった裕福なテンポ(関めぐみ)の意外な関連も泣かせる。この映画、細部のエピソードにいちいち説得力がある。キャラクターの立たせ方もうまい。森下桂子の脚本は原作の大筋を踏襲しながら、エピソードを作り替え、配置し直し、ふくらませ、新たなエピソードを付け加えて物語を再構築している。よくある単なる原作のダイジェストではない。森下桂子は原作に真摯に向き合い、テーマをより効果的に訴えるために最大限の力を注いでいるのがよく分かる。恐らく堤幸彦の意見も入っているのだろうが、これは脚色のお手本みたいなものだと思わざるを得ない。

 堤幸彦の映画らしくユーモアも散りばめているが、どれも堤幸彦にありがちな滑った場面にはなっていない。一人の少女の命を助けるために包帯クラブの面々が必死に走るクライマックスが感動的で、ここで終わっても良かった。その後にディノの1年前の事件を描くことで、クライマックスが2つあるような感じになってしまったのはちょっとした計算違いだが、これでも大きな減点にはなっていない。希望のあるラストが素敵だ。

 堤幸彦はしばらく前の三池崇史を思わせるようなペースで映画を撮っている。撮っていくうちにだんだんうまくなってきた監督なのではないかと思う。次の「自虐の詩」も楽しみだ。