2007/08/06(月)「トランスフォーマー」
日本製ロボット玩具から始まった日米合作アニメをスティーブン・スピルバーグ製作、マイケル・ベイ監督で映画化。軍とロボットが戦う場面が中心だった予告編はSFアクション映画かと思わせたが、本編は単なる子供向け(あるいはファミリー)映画だった。ロボットの造型はアニメのデザインが基本になっており、元のテレビシリーズを見ていた人にも違和感がないように作ってある。そのロボットのいかにも子供向けな造型が少し不満で、動きは速いのだが、だんだん重量感と質感に乏しいように見えてくる。監督のマイケル・ベイは前作「アイランド」の後半、CGを使いまくったアクションを見せてくれて、これはアクションだけでも凄いと思ったものだが、今回は物語の求心力が弱く、これが決定的な欠点だろう。だからクライマックスのロボット同士の市街戦は技術に感心こそすれ、それほど面白くはない。結局のところ、アメリカ映画もまた大ヒットするのは家族向け映画であり、この映画もそんな中の一本と言える。
カタールのアメリカ軍基地から始まる序盤は快調である。墜落したはずのヘリコプターが基地に近づいたかと思うと、ヘリはロボットに変形(トランスフォーム)し、基地を壊滅させる。ロボットへの変形シーンがこの映画の見どころの一つでこのCGは確かに凄い。舞台はアメリカに移り、主人公のサム・ウィトウィッキー(シャイア・ラブーフ)が中古車を買う場面。父親とともに中古車屋を訪れたサムは他の車がなぜかすべて壊れたことで黄色いカマロを買うことにする。ボロボロのカマロだったが、これが実は金属生命体であることがやがて分かる。サムの曾祖父は南極で何かを発見し、気が触れたことになっている。サムはその遺品をネットオークションに出していたが、実はその遺品を巡って宇宙から来た善と悪の金属生命体が争奪戦を繰り広げていたのだ。カマロはバンブルビーという名前の金属生命体で、サムの護衛の役を与えられていた。こうして善と悪のロボットたちが地球を舞台に戦いを繰り広げることになる。
巨大ロボットアニメはよく「ロボットプロレス」とバカにされることがあるが、それと同じ次元のストーリーではどんなにCG技術が優れていても、引き込まれるはずがない。見ていてガンダムやエヴァンゲリオンのようなストーリー性、物語の奥行きが欲しくなってくる。単純な物語をCGで見せているだけの作品に終わったのはかえすがえすも残念だ。この内容で2時間25分は長すぎると思う。
パンフレットとキネマ旬報8月下旬号でマイケル・ベイはILMの日本人クリエイター、ケイジ・ヤマグチ(山口圭二)を絶賛している。ちょっと引用しておこう。「面白い話がある。オプティマス・プライムのデザインをチェックするミーティングで、隅っこに座っていたILMの日本人クリエイター、ケイジ・ヤマグチが突然立ち上がり『このデザインは日本人への侮辱だ! 僕がオプティマス・プライムを直す!』と叫んだんだ。ケイジはルービック・キューブのような変身シーンを可能にした影の功労者。フレームを止めてみると、パーツがくっついたり変形したりと、その複雑さに驚くばかりだったよ」(キネ旬8月下旬号)。製作が決まった第2作ではこの素晴らしい変形シーンに負けない物語にしてほしいものだ。
主演のシャイア・ラブーフは決してハンサムではなく普通の少年っぽいところがいい。主人公が思いを寄せるミカエラ・ベインズ役のミーガン・フォックスもちょっと色っぽくて良かった。
2007/07/19(木)「涙そうそう」
古いパターン。これは昭和30年代の映画かと思えるような古いパターンにもかかわらず、土井裕泰監督はしっかりした演出で最後まで見せる。
絵に描いたような好青年と血のつながっていない妹の話。兄は妹を大学に行かせるために働きづめに働く。昼間は市場で、夜は居酒屋で。ようやく自分の店を持てたかと思ったら、詐欺に遭っていたことが分かる。舞台が東京だったらパロディにしかならないような古いパターンの話を成立させるために土井監督は沖縄を舞台に選んだのだろう。終盤にある設定もこれまた普通に描かれたら怒るところだが、映画の流れから言えば、こうするしかないだろう。
映画を支えているのが妻夫木聡と長澤まさみの好演であることは言うまでもない。ひたすら明るく人がよい妻夫木もいいのだが、長澤まさみはそれ以上によく、麻生久美子と並ぶ場面では麻生久美子がかわいそうになってくるほどの魅力。だいたい比較するのが間違いで、これは女優とスターの違いと言っていい。
小林信彦は週刊文春のコラムをまとめた「昭和が遠くなって」の「天成のスターは映画の枠を超える」という文章の中でこの映画の長澤まさみについてこう書いている。
「ヒロインとしての長澤まさみも、船の舳先で手をふる陽気な登場シーンから、兄に向かって『本当に好きだよ』と言って去ってゆくシーンまで、みごとである。アップになった時の視線の微妙な動き、抜群の表情に、演技の進歩(というのは失礼だが)が見て取れる。スター映画を観る喜びはそういうものであり、観客は一瞬たりとも気を緩めることができない」
長澤まさみはそういう存在であり、もっともっと映画に出るべきだと僕は思う。
ところで、上の文章に続けて、小林信彦は「そういうスター、少なくともスター候補は、もう一人いる」と書いている。
「昨年、『ALWAYS 三丁目の夕日』の中で、昭和三十年代にはあり得ない広い幅の道を車で通り抜け、戦前の松竹映画のようなゴミゴミした町に入っていった集団就職の少女である」。
つまり、堀北真希のことを小林信彦は長澤まさみに匹敵すると言っているのだ。大淀川さんは反論するでしょうが、これは僕も同感。
2007/07/18(水)「雲のむこう、約束の場所」
端的に言って傑作。「秒速5センチメートル」や「ほしのこえ」に感じた物語の未完成さが微塵もない。立派にSFしているところに好感。「ハウルの動く城」を抑えて2004年の毎日映画コンクールでアニメーション映画賞を受賞したのも当然か。
Wikipediaから引用しつつストーリーを紹介する。津軽海峡で分断された日本が舞台。北海道は「ユニオン」に占領され、「蝦夷」(えぞ)と名前を変えていた。ユニオンは蝦夷に天空高く聳え立つ謎の「塔」を建設しており、その存在はアメリカと「ユニオン」の間に軍事的緊張をもたらしていた。青森に住む中学3年生の藤沢浩紀(吉岡秀隆)と白川拓也(萩原聖人)は、海の向こうの「塔」にあこがれ、ヴェラシーラ(白い翼の意)と名づけた真っ白い飛行機を自力で組立て、いつか「塔」へ飛ぶことを夢見ていた。
2人は、同級生の沢渡佐由理(南里侑香)にヴェラシーラを見せ、いつか一緒に「塔」まで飛ぶことを約束する。しかし、佐由理は何の連絡も無いまま2人の前から姿を消す。ショックで2人は飛行機作りを止めてしまう。喪失感を埋め合わせるように浩紀は東京の高校へ進学し、拓也は地元の高校へ進学して勉学に打ち込むことになる。
3年後、「ユニオン」とアメリカの緊張は高まり、戦争が現実になりそうな気配の中、「塔」の秘密が明かになる。それは近接する平行宇宙との間で空間を交換し、世界を裏返して書き換えてしまう超兵器であった。
一方、佐由理の行方も明らかになる。彼女は中学三年の夏から三年間もの間、原因不明のまま眠りつづけており、東京の病院へ入院していたのだ。やがて「塔」と佐由理の関係が明らかになると、この事実を知った浩紀と拓也はヴェラシーラを塔まで飛ばす決意をする。宣戦布告後の戦闘のさなか、ヴェラシーラは津軽海峡を越えて北海道の「塔」へ飛ぶ。佐由理と世界を救うために。
最初の30分近くはいつもの新海誠の映画のタッチで中学生3人の交流が描かれる。ああ、またこういうパターンかい、と思って見ていたら、いきなりハードなSFの設定に移行した。この世界に住む科学者は平行世界の存在に気づいており、平行世界とこの世界で「砂粒程度」の空間の置換に成功している。塔はそれをより大きなレベルで実現する兵器だったのだ。世界は平行世界を夢見ている、という設定は大変魅力的だ。
少女を救うことが世界を救うという展開はいわゆる「セカイ系」といわれるパターンに属する。だからというわけではないが、ハードな設定が姿を現した時の驚きに比べると、その後の展開はまあ予測できる程度のものである。
しかし、いつもの新海誠の絵のタッチの良さにきちんとした物語が組み合わさっていることで、これは大変まとまりのある作品になった。新海誠だけで作ったわけではなく、他のスタッフがかかわったからこそ完成度の高い作品になったのだろう。新海誠自身は共同作業があまり好きではないのかもしれないが、このレベルの作品を生み出すには協力するスタッフが必要だ。こういう製作方法で新作を撮ってほしいと思う。
2007/07/05(木)「ほしのこえ」
新海誠が注目を浴びるきっかけになった25分足らずの短編アニメ。
異星人タルシアンと戦うために国連軍に入った少女ミカコと地球で待ち続ける少年ノボルの携帯メールでのやり取りを描く。地球に届くまで数日かかっていたメールはミカコが冥王星付近に移動すると1年以上かかるようになり、シリウス星系に移動した後は8年以上かかるようになる。それだけのワンアイデア・ストーリー。時間と空間に引き裂かれた恋人たちを叙情性あふれるタッチで描くのは「秒速5センチメートル」と同じだ。
2046年の携帯があんなに古くさい形のはずはないとか、超光速移動ができるなら超光速通信もできるだろうというツッコミはいくらでもできる。新海誠はそういう技術的な話よりも8年後にメールが届くというロマンティシズムにしか興味がないようだから、仕方がない。SF的なセンス・オブ・ワンダーは皆無だが、それでも好きな人は好きなのだろう。
2007/07/02(月)「ダイ・ハード4.0」
12年ぶりの第4作。1作目の完璧な出来に感嘆した後の2作目(レニー・ハーリン監督)と3作目(ジョン・マクティアナン監督)にはがっかりしたが、今回はなかなか面白い。サイバーテロ事件に巻き込まれたジョン・マクレーン(ブルース・ウィリス)がいつものように孤軍奮闘して、敵の野望を打ち砕く。レン・ワイズマンの演出はビジュアル面では文句なく、ヘリに車をぶつけて墜落させたり、戦闘機と戦ったりの派手なアクションを連続させて、ノンストップの映画に仕上げた。マクレーンは今回、過去のどの作品よりも傷だらけになって戦い抜く。
クライマックスの敵のボスの倒し方などは描写自体は無茶なのだが、「ガメラ3 邪神覚醒」を思い出してしまった。出来が良いと思ったのは脚本にちゃんとドラマがあることで、よくある設定であってもマクレーンと娘との対立と和解が描かれたり、ハッカーの青年をワシントンD.C.まで連れて行くうちにマクレーンと青年との間に理解が生まれるところなどはバディムービーを彷彿させたりする。思えば、1作目が強烈な傑作だったのは周到に伏線を張りまくった脚本にマクレーンと妻や黒人部長刑事との間のドラマが用意されていたからこそであり、ドラマを忘れてアクションしかなかった2作目と3作目がダメだったのは当たり前なのである。今回もドラマ部分が特別に出来が良いわけではないのだが、少なくともこれぐらいはないとアクション映画の心情の部分が成立しないのである。ワイズマンのバランス感覚は悪くない。
FBIのコンピュータシステムに何者かがクラッキングを仕掛けてくる。事態を重く見たFBIのボウマン(クリフ・カーティス)はブラックリストに載っているクラッカーたちの捜査を命じる。そのころマクレーンはニュージャージーの大学にいた。娘のルーシー(メアリー・エリザベス・ウィンステッド)に会うためだったが、ボーイフレンドと一緒のところに押しかけたためルーシーの反感を買ってしまう。無線連絡でクラッカーのマット・ファレル(ジャスティン・ロング)をD.C.まで連れて来るように命じられたマクレーンはマットのアパートで何者かに襲撃される。危ういところでマットとともに逃れ、D.C.へ向かうが、さらに追撃が待っていた。一味はガブリエル(ティモシー・オリファント)率いるサイバーテロ集団の傭兵部隊だった。サイバーテロは深刻さを増し、交通システムや金融、原子力、水道、電力などが次々に麻痺していく。マットはこれを「ファイアーセール(投げ売り=国のインフラに対する組織的なサイバー攻撃)だ」と指摘する。全米がシステムダウンする中、マクレーンとマットは執拗な敵に対抗するが、ルーシーが人質に取られてしまう。
マクレーンはガブリエルから“デジタル時代の鳩時計”とバカにされる。携帯電話さえ扱えないマクレーンがサイバーテロ集団に打ち勝っていく構図は痛快で、アクションのエスカレーションと併せてこの映画を大衆的なものにしている。ドラマの描写は過不足なく、ワイズマン、「アンダーワールド」などよりはずっとうまくなった。サイバーテロを捜査しているFBIのところにNSA(国家安全保障局)が乗り込んで来る場面は1作目のロサンゼルス市警に乗り込むFBIを思い起こさせた。脚本のマーク・ボンバックはちゃんと1作目を分析しているようだ。無線で連絡を取り合うボウマンとマクレーンの描写やサイバーテロ集団の本当の目的なども1作目を踏襲している。当然のことながら、マクレーンのYippee-ki-yay, motherfuckerという決めぜりふも出てくる。映画の作りは主人公がマクレーンでなくても成立するのだが、こうした部分がシリーズものを作る上でのお約束なのだろう。
敵の中で目立っているのはマギー・Qで、アクションも決まっているし、途中で姿を消すのがもったいないほど。マギー・Q主演のアクション映画も見てみたい。