2008/07/21(月)「エクスクロス 魔境伝説」
善良(に違いない)な父親がバカ(に違いない)な中3の娘に刺殺されるという事件があった。「寝ている時に父親が家族を殺す夢を見て、父親を殺そうと思いついた」のだそうだ。夢で殺されては父親は浮かばれない。ちなみに、うちの長女も中3。寝る時は気をつけないといけない。
「エクスクロス 魔境伝説」は劇場公開時に一部での評判の良さを気にしながら、見逃した。阿鹿里(あしかり)村といういかにもな名前の山奥の温泉地に来た若い女性2人(松下奈緒と鈴木亜美)が、足を切ろうとする村人たちからいかに逃げるかというストーリー。超常現象は出てこない。狂気の集団という点で「悪魔のいけにえ」あたりを思い起こさせるが、ホラーではなく、アクション、コメディの趣が強い。
原作は上甲宣之、監督は深作健太。深作健太は「バトル・ロワイアルII
鎮魂歌」でまるでダメだなと思ったが、今回はB級に徹したところが良かったのだろう。携帯の通話やメールを繰り返しているうちに誰が敵で誰が味方か分からなくなる展開がポイントで、主人公は疑心暗鬼にとらわれながら逃げ惑う。逃げた後の終盤の反撃が気持ち良い(狂気の村人たちが弱すぎる気もする)。携帯でずっと助けてくれた男の正体も笑った。
鈴木亜美にあまり興味はないが、松下奈緒は良いですね。このほか、小沢真珠(怪演)と中川翔子を出しているのは監督の趣味なのか。
2008/07/20(日)「クライマーズ・ハイ」
横山秀夫のベストセラーを原田眞人監督が映画化。日航ジャンボ機墜落事件を報道する地方新聞社の激動の1週間を圧倒的な迫力で描ききった。これは原田眞人最良の作品だと思う。いつものように細かいカット割りとさまざまな細かい技術を組み合わせながら、それだけが目に付いた「魍魎の匣」とは違って、まったく気にならない。というか、物語を語るために技術が総動員されているので、技術だけが浮き上がって見えないのだ。コマ伸ばしの効果的な使い方は久しぶりに見た(だいたい、コマ伸ばしなんて若い監督は知らないだろう)。冒頭、原作の解体の仕方がうまいなと思わせるが、その後は原作とじっくり向き合って作ってある。
原田監督作品としては銀行を舞台にした傑作「金融腐蝕列島 [呪縛]」(1999年)に連なる映画であり、「呪縛」がそうであったように新聞社内の闘争がめっぽう面白い。主人公はさまざまな障害に遭い、人間関係の軋轢に悩まされながらも紙面製作に邁進する。どこの会社や組織でもありうることと思えるのは原作を読んだ時にも感じたことだが、映画もそういう作りになっている。原作の面白さを生かしながら、原田眞人は自分の映画に仕上げており、監督の言う“言葉のボクシング”が炸裂した熱い映画になっている。今年のベストテン上位は決定的という印象だ。
主人公の悠木和雅(堤真一)は群馬県の北関東新聞の記者。1985年8月12日、販売局の安西(高嶋政宏)と谷川岳の衝立岩に向かおうとした時にジャンボジェット機不明の第一報が入る。乗客524人、墜落したとすれば、未曾有の事故だ。悠木は事故報道の全権デスクを命じられる。社内には無線機がなかった。翌日、現場に向かった県警キャップの佐山(堺雅人)は必死の思いで取材し、山を下りて電話で送稿する。しかし、輪転機の故障で締め切りが早まったことを悠木は知らされていなかった。社内にはかつて大久保清事件と連合赤軍事件で名前を売った上司たちがおり、事故の大きさをやっかみ、悠木たちの報道に妨害を仕掛けてくる。さらに安西がくも膜下出血で倒れ、その裏に会社の過酷な業務命令があったことが分かる。
脚本は成島出と加藤正人の初稿を原田監督が手直したという。ビリー・ワイルダー「地獄の英雄」(Ace in the Hole、1951年)のセリフ「チェック、ダブルチェック」を効果的に引用し、クライマックス、主人公が事故原因のスクープを掲載するかどうかを判断する場面の効果を上げている。このエピソード、まるで原作にもあったかのようにピッタリと収まっており、ハリウッド映画に詳しい原田眞人らしいアレンジだと思う。
登場人物は主演の堤真一をはじめ、堺雅人、遠藤憲一、蛍雪次朗、でんでん、田口トモロヲ、マギー、中村育二ら端役に至るまで素晴らしい。気になったのは販売局長(皆川猿時)のヤクザみたいな描き方と山崎努演じる社長のいかにもといった感じの悪役ぶり。1985年の日航機墜落事件と2007年の谷川岳登山を交互に語る映画の構成も後半に至って、単調に思えてくるのだけれど、小さな傷と言うべきだろう。緊張感を伴って突っ走る2時間25分。怒り、悲しみ、屈辱、後悔などさまざまな人間感情が噴出する様子は見応え十分だ。
2008/07/13(日)「山桜」
藤沢周平の原作を篠原哲雄監督が映画化。予告編は随分前から流れていて、田中麗奈も篠原哲雄も好きなので少し期待していた。見終わった感想としてはほぼ水準作の映画で、それ以上でも以下でもない。藤沢周平原作の映画であるならば、どうしても山田洋次の3部作と比べられるのは仕方がない。そして比べてしまうと、元も子もなくなる映画である。
富司純子が出てくる最後の場面で泣かせるし、ゆったりとした映画の展開も真っ当なのだけれど、話が古く感じる。いや、例えばここで描かれる悪徳武士であるとか、苦しめられる農民であるとか、正義感に燃える武士たちは何も悪くない。問題は描写の密度なのだろう。山田洋次作品で徹底的にリアリティーを与えられていた武士の家の古びた様子はここにはなく、なんだか小ぎれいなたたずまいだ。
話も小ぎれいにまとまっていて、だからリアリティーを欠いてしまっている。こうしたありきたりの描写が話を古く感じさせる要因なのだろう。うまい描写で見せられれば、話の古さなどは感じないものなのである。だいたい、山田作品と同じく庄内のたぶん海坂藩なのにどうして方言(「がんす」)が出てこないのか。標準語でしゃべる登場人物たちが一番リアリティーを欠いている。
主演の東山紀之と田中麗奈も悪くない。悪くないのだけれど、どちらもミスキャストではないかと思えてくる。田中麗奈は基本的にちゃきちゃきした現代っ子なのだ。それが寡黙さを演じるには少し無理がある。というか、魅力を消している。どうも小さな齟齬が積み重なって映画の出来を悪くしている感じがする。神はやっぱり細部に宿るのである。
2008/07/12(土)「Mayu ココロの星」
期待値ゼロ、平山あやを見られればいいかという気分で見に行ったら、大変面白かった。乳がん患者の闘病記ではなく、乳がん患者を主人公にした悩む若者たちの「セント・エルモス・ファイヤー」みたいな青春映画に仕上がっている。主人公の友人たちと家族、乳がん患者たちの描写がいいのである。松浦雅子監督の脚本は細部のセリフや描写にいちいち説得力があり、嘘っぽくない。平山あやは予想以上の好演で、もっと映画に出るべきだと思った。見てみないと分からないものですね。
「私をいくら攻めても無駄だから、私の一番大切なものを標的にしたんだわ」。
娘のまゆが乳がんと分かった時に主人公の母親(浅田美代子)が言う。母親は12年前に卵巣がんが見つかり、余命わずかと言われながらも、がんと闘ってきた。病人に見られないように精いっぱいの努力をしてきたのだ。そんな母親も娘ががんと知らされれば、絶望的になる。原作にもあるのだろうが、こういう子供を思う親の気持ちが今はぐっと来る。
あるいは恋人と別れるシーン。「もう会わない方がいいよ、私たち」という主人公は実は恋人からそれを否定してほしいのだが、恋人は「まゆが何カ月もかかって出した結論なんだろう」と言ってそれを受け入れる(最低の男だ)。主人公は恋人が去っていく後ろ姿を見て涙を流す。
同じ乳がん患者を演じる京野ことみを見るのは個人的には「メッセンジャー」(1999年)以来。「メッセンジャー」でも感心したが、今回は別人かと思えるほどうまくなっている。
上映後のトークでの松浦監督の話も面白かった。松浦監督はこの映画を引き受けたとき、妊娠後期だったが、それを伏せて引き受け、生まれたばかりの子供と40日間、離れて北海道で映画を撮影した。結婚していることも子供がいることも伏せてきたという(監督の代わりはいくらでもいるからだ)。いったん書き上げた脚本はプロデューサーから絶賛されたが、原作者の大原まゆから「私、こんなにいい子じゃないかも」と指摘され、主人公が泣いたりわめいたりするシーンを追加したそうだ。これが正解。これによって主人公の造型が深くなり、幅が生まれた。主人公はリストカットする友人から頼りにされているが、主人公自身の弱さも描いたところが良い。
「だいじょうぶ、きっと私はがんばれる」という主題がストレートに伝わる佳作だと思う。
2008/05/25(日)「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」
あさま山荘事件の時に僕は12歳。テレビをつければ、延々とこの中継をやっていたから見ているが、この後に明らかになった山岳ベース事件については当時はあまり知らなかった。ただ、総括が流行語になったのは覚えている。
映画は3つのパートに分かれている。1960年の安保闘争から連合赤軍が生まれるまでをニュース映像を中心に描いた部分を第1部とすると、第2部は12人の同志が総括や処刑で殺害された山岳ベース事件、第3部があさま山荘事件である。もちろん映画の焦点は第2部にあり、ここが最も見応えがある。映画としてはあさま山荘の部分をもっとコンパクトにした方が良かったかもしれない。若松孝二監督が所有する別荘を破壊しながら撮ったそうだが、予算に限りがあったようで山荘内部の描写に終始する。時折、インサートされる浅間山の遠景だけではなく、当時のニュース映像を使うと、効果的だったのではないか。ここが予想以上に長いので山岳ベース事件の陰惨な衝撃がやや薄れる結果になっている。もっとも、この部分、警察視点に終始して山荘内部をまったく描かなかった「突入せよ! あさま山荘事件」へのアンチテーゼでもあるのだろう。
山岳ベース事件はリーダーの器ではなかった卑小な男女がリーダーになってしまったために起きた事件だろう。森恒夫も永田洋子も共産主義と武力闘争に忠実であるように見えて実は自分勝手なだけである。赤軍派と革命左派の幹部が次々に逮捕されて組織が弱体化していたために生まれた連合赤軍はこういうバカな人間たちがリーダーにならざるを得なかったのが悲劇の始まりだ。
映画はなぜ次々に若者が殺されなければならなかったのかを詳細に描く。自己批判と総括自体は以前から行われていたそうだが、そのうちに総括を助けるとする総括援助が行われるようになり、気絶するまで殴る暴力が肯定されていく。反対すれば、自分に総括の順番が回ってくるという絶望的な状況。それは死を意味する。森と永田の唾棄すべき人格がこれをもたらしたのは間違いない。痛ましいのは自分で自分の顔を殴らされる遠山美枝子(坂井真紀)で、遠山は生き残りたいために必死に殴り続けるが、永田洋子(並木愛枝)から腫れ上がった顔を鏡で見せられ、悲痛な叫びを上げることになる。監督によれば、あの醜い顔は永田洋子の醜さのメタファーでもあるという。永田洋子役の並木愛枝が人をにらみつける場面は怖い。爬虫類のように冷たい視線だ。
革命の実現のために人を殺し、指導力を維持するために人を殺し、疑心暗鬼が募ってさらに人を殺す。狭いグループの崩壊はいつもこのように進むのだろう。革命のために同志を殺すというのはポル・ポト政権下のカンボジアを思い出してしまうが、それよりも強い権力を持った人間が横暴を振るって惨殺を続けた北九州の監禁殺人(7人が殺された)の方がこの状況には近いかもしれない。
日本の左翼運動はこの事件によって壊滅したと言っていい。若松孝二は「鬼畜大宴会」や「突入せよ!あさま山荘事件」「光の雨」など事件を部分的に捉えた一連の映画に我慢できず、この映画を撮ったという。安保闘争、なにそれ、という若い観客には格好のテキストになるだろう。それだけでもこの映画には十分な価値がある。歴史に残るのは常に勝者視点の出来事であり、当事者に近かった若松孝二が事件全体を総括することの意義は大きい。しかも、山岳ベース事件に関しては徹底して批判の立場を貫いている。残念ながら、劇場に来ていた観客は年配者が多かった。今の若い世代には連合赤軍事件なんて通用しないのかもしれない。来ている年配者にしてもノスタルジックな気分が皆無とは言えないだろう。
劇場でパンフレット「若松孝二 実録・連合赤軍 あさま山荘への道程」を買ったら、パンフではなく、本だった。B5判より大きく、A4判より少し小さい。A4変形判といったところか。シナリオ付きで217 ページ。これ、amazonでも販売していて買おうかどうか迷っていた。amazonには「公式ガイドブック」と書いてある。パンフレット代わりに売っているらしい。この本に収録されたロフトプラスワンでの座談会はめっぽう面白い。元共産主義者同盟赤軍派議長の塩見孝也と連合赤軍の植垣博弘が未だに対立しているのである。60年代から70年代初めまでは政治の季節だったのだなという思いを強くする。あの時代に比べれば、今の日本は社会全体がノンポリになってしまった。変革の兆しがあるとすれば、プレカリアートだろうが、思想的な根拠がないと、社会運動には発展しにくいのではないかと思う。