2009/10/05(月)「グッド・バッド・ウィアード」
大平原でのバイクと馬と車が入り乱れての四つどもえの大追跡と爆発に次ぐ爆発のクライマックスに流れるのはサンタ・エスメラルダの「悲しき願い」(Don't Let Me Be Misunderstood)。フルコーラスは10分30秒もある長い曲だが、イントロ部分がマカロニ・ウエスタンならぬオリエンタル・ウエスタンにはぴったりだ。ただし、メロディだけで歌は流れない。これは歌もぜひ欲しかった。
「悲しき願い」は何度聞いても名曲で、ファンが多いらしく、クエンティン・タランティーノも「キル・ビル vol.1」で使っていた。
このクライマックスも凄いが、映画は冒頭の列車上でのアクションで一気に観客を乗せてしまう。「グッド・バッド・ウィアード」というタイトルは言うまでもなく、セルジオ・レオーネ「続・夕陽のガンマン」(The Good, The Bad, and The Ugly)を意識したものだろうけれど、マカロニ・ウエスタンの単なるモノマネではない。オープニングの空撮とCGを交えたシーンをはじめ、長いコートを羽織ったチョン・ウソンが闇市の空中を軽やかに飛び回るアクションなど、どのシーンも監督の演出に力がこもっているし、しっかりしている。マカロニ・ウエスタンを超えていると言ってよい。キム・ジウン監督がマカロニ・ウエスタンから引き継いでいるのはその外見ではなく、血が流れるスタイルと精神なのだろう。この映画の一番の美点は映画のスケールの大きさだ。話が大きいのではない。画面作りが大きく、雄大な風景とマッチしており、横長の大きなスクリーンで見るにふさわしい映画なのである。
1930年代の満州を舞台にしたのはウエスタンの舞台としても違和感がないからだろう(実際の撮影地はゴビ砂漠や敦煌という)。このアイデアがまず良かった。画面に流れる空気は西部劇でもマカロニ・ウエスタンでもないのだが、無法者たちや日本軍が銃撃戦を演じてもおかしくない状況にある。ストーリーは宝の地図を巡る争奪戦。バッドが馬賊のパク・チャンイ(イ・ビョンホン)、グッドが賞金稼ぎのパク・ドウォン(チョン・ウソン)、ウィアードがコソ泥のユン・テグ(ソン・ガンホ)で、この3人がそれぞれに良い。映画を支えているのはソン・ガンホで、いつもの人間味あふれるユーモアが映画をいっそう楽しいものにしている。
監督のキム・ジウンの作品は過去にイ・ビョンホン主演の「甘い人生」(2005年)を見ている。当時の感想を見直してみたら、僕はこう書いていた。
キム・ジウン監督は撮影中、ビョンホンにアラン・ドロンのイメージを重ね合わせていたそうだ。僕も映画を見ながらアラン・ドロンの映画をなんとなく思い浮かべていた。外見がハンサムとかそんなことではなく、アラン・ドロンの映画は暗黒街の組織に刃向かった男を描いたものが多かったイメージがあるのだ。フィルム・ノワールといわれるフランスの暗黒街を描いた映画に通じる臭いがこの映画にはあり、だからこそ韓国ノワールという言い方も的を射ていると思う。
キム・ジウンは描写力、演出力では完成された技術を持っている。脚本に磨きをかければ、さらに面白い映画を作る監督になるのではないか。この監督、職人ではなく、作家的な資質を持っていると思う。
「甘い人生」はイ・ビョンホンにアクションができるのにまず驚き、監督のしっかりした演出に感心した。「甘い人生」がフランスのフィルム・ノワールを意識したもので、今回がマカロニ・ウエスタンということになると、キム・ジウンの映画ファンぶりが分かってくる。素晴らしいのは先に書いたようにモノマネで終わっていないことだ。スケールの大きなアクション、ソン・ガンホの絶妙のユーモアを交えて進む語り口など演出には少しも狂いがない。
過去の映画へのオマージュと遊び心の中に本物志向が漂い、パロディでもモノマネでもない本物のアクション映画。ただし、やっぱりオリジナルな題材ではあった方が良く、次の作品では100%オリジナルのキム・ジウン映画を見たいと思う。
2009/10/03(土)「子供の情景」
19歳でこの映画を監督したハナ・マフマルバフによれば、いろいろな人物から破られる主人公のノートはアフガニスタンの文化を象徴しているのだという。タリバンによる仏像の爆破シーンに始まり、同じく仏像の爆破シーンで終わるこの映画の原題は「BUDDHA COLLAPSED OUT OF SHAME」。ハナの父親で映画監督・作家のモフセン・マフマルバフの著書「アフガニスタンの仏像は破壊されたのではない恥辱のあまり崩れ落ちたのだ」から取っている。
子供の世界に仮託してアフガニスタンの現状を描くという狙いは悪くないが、僕には比喩が幼すぎるように思えた。タリバンの真似をして戦争ごっこをする男の子たち。ノートが破られる場面で決まって流れる深刻な音楽。そしてラストの「自由になりたかったら死ね」という皮肉なセリフ。映画そのものの技術のレベルから言えば、これは習作の域を出ていないと思う。それにもかかわらず評価すべきなのはアフガンの現状を伝えようとする意志があるからだろう。というか、そこしか評価するところはない。ハナ監督、次は比喩に頼らず、正面からアフガンの現状を取り上げて欲しい。食い足りない気分が残ったので、昨日、amazonに注文したモフセンの著書を読んでみようと思う。
破壊された石像が瓦礫となって残るバーミヤン。主人公のバクタイ(ニクバクト・ノルーズ)は6歳の女の子で岩場の洞窟が家である。隣に住む少年アッバス(アッバス・アリジョメ)の影響で学校に行きたいと思ったバクタイは学校で必要なノートを買うために家のニワトリが生んだ卵を市場で売ろうとするが、誰も買ってくれない。卵をパンと交換したバクタイはようやくノートを手に入れ、学校に行く。そこは男子校で教師はバクタイに川の向こうにある女子の学校へ行けという。女子校に向かったバクタイは途中で戦争ごっこに興じる少年たちに囲まれ、「女は勉強しちゃダメだ」と言われ、ノートを破られる。石打ちの処刑にされそうになったところへアッバスが通りかかり、バクタイはなんとか難を逃れて学校へたどり着く。
現実のアフガンを舞台にしながら、ストーリーは寓意に満ちている。バクタイが学校に行きたいと思うのはアッバスが読んでいた教科書のストーリーに引かれたからだ。「ある男が木の下で寝ていたら、頭にクルミが落ちてきた。目をさました男は、クルミで良かった。カボチャだったら死んでいたところだと言った」。この話もソ連、タリバン、アメリカから支配され続けてきた現実のアフガンの寓意にほかならない。しかし、映画全体を比喩で覆ってしまうと、何も知らない人にはメッセージが伝わりにくくなるだろう。現実を伝えるには現実をそのまま描写した方が良かったと思う。
2009/09/30(水)「あの日、欲望の大地で」
ファーストショットは平原で燃え上がるトレーラーハウス。原題の「Burning Plain」はパンフレットの表紙にもなっているこの場面から取ったものだろう。このトレーラーハウスが悲劇の始まりとなったわけだから当然だ。邦題の「あの日、欲望の大地で」は良くない。登場人物の誰も欲望で動いているわけではないからだ。夫と子どもがありながら妻子ある男と密会を続ける主人公の母親(キム・ベイシンガー)は不実で自堕落な女に見えるが、後で描かれる2つの悲痛なショットでそうではないことが分かってくる。レストランのマネージャーを務めながら、男と行きずりの関係を続ける主人公のシルヴィア(シャーリーズ・セロン)もまた行動の根幹にあるのは欲望ではない。
「21グラム」「バベル」の脚本家で、これが長編映画監督デビューとなるギジェルモ・アリアガはこれまでの脚本と同じように時系列をバラバラにして断片の描写を積み上げていく。現在のパートは青を基調とした寒々とした色彩で、過去のパートは温かな色彩でと分けてはいるのだけれど、並列的に描かれるため最初は人間関係もエピソードのつながりもまったく分からない。「21グラム」を見た時に僕は「物語をどう語るかに腐心することは大事なことだけれど、それを余計に感じる題材というものもあるのだ」と思った。この映画に関してはこの手法で良かったと思う。ミステリアスな雰囲気が作品に奥行きを与えているからだ。悲劇が横たわる母と娘、その娘とそのまた娘との関係をアリアガは重厚なタッチで描いている。断片を積み重ねる手法にもかかわらず、見ていて映画への興味が薄れないのは映像に力があるからだろう。
時系列をバラバラにするのは「21グラム」「バベル」の監督アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥの趣味かと思ってきたが、考えてみれば、脚本を書いたアリアガの手法であることは当然なのだった。小説家でもあるアリアガの物語を語る手法は完成されている。語り口が身上とも言える映画なので、時系列に沿ってストーリーを紹介すると、映画の面白みも半減してしまう。何も知らずに見た方が良い映画と言える。
アリアガの演出・脚本は優れているが、映画を支えているのは何よりもシャーリーズ・セロンだ。美貌とスタイルに恵まれたセロンはアイドル的な映画スターになることも簡単だったが、それを拒否して13キロ体重を増やし、過剰なメイクを施して「モンスター」に出演した。「モンスター」での演技力は評価されてしかるべきものだったけれど、同時に僕はやりすぎではないかとも思った。演技が人工的で主人公の造型にも無理があった。その後の「スタンドアップ」にも僕は無理を感じたが、それに比べてこの映画のセロンは自然体である。虚無感漂う主人公を演じて間然とするところがない。しかも化粧っ気がないにもかかわらず美しい。悲しみに彩られた主人公にしっかりとリアリティを与えている。
脚本で惜しいと思ったのは過去と決別し、自傷行為を行う主人公の行動がやや説得力を欠くことか。映画の構成に凝る前にここをしっかりと補強した方が良かったと思う。
2009/09/22(火)「男と女の不都合な真実」
下ネタ満載のラブコメ。テレビ局の有能な女性プロデューサーと本音のトークで人気の下品でHな恋愛カウンセラーのおかしなラブストーリーを描く。four letter wordsがポンポン飛び出し、これはセリフによるR15+指定なのだろうが、そうした過激さが痛快にはなり得ていないのが惜しい。バイブレーター付きの下着を身につけたために、レストランで起こる騒動など何やってるんだと思う。
話の進め方、エピソードの組み立て方が洗練されていないし、ロマンティックなものが欠けている。何より主演のキャサリン・ハイグルにいまひとつ魅力がない。こういう役柄なら、メグ・ライアンやゴールディ・ホーン、リース・ウィザースプーンのようなキュートでコケティッシュなものが欲しい。相手役のジェラルド・バトラーの懐の広さに比べると、随分見劣りがして、バトラーの良さのみが目立った。監督は「キューティ・ブロンド」のロバート・ルケティック。
アビー(キャサリン・ハイグル)はサクラメントにある地方テレビ局のプロデューサーで朝のニュース番組を担当している。有能だが、私生活では理想が高すぎて男性に縁がない。番組の視聴率も2%台に下降してしまう。上司は視聴率を上げるため、人気上昇中のマイク(ジェラルド・バトラー)をコメンテーターとして起用する。マイクの「Ugly Truth」というコーナーは既成の恋愛観を打ち砕く本音のトークで反響を巻き起こし、視聴率が上がるが、理想の男性とは正反対の粗野なマイクにアビーは反発を繰り返す。そんな時、アビーの家の隣にハンサムな医師コリン(エリック・ウィンター)が引っ越してくる。コリンこそ理想のタイプと舞い上がったアビーはマイクのアドバイスを受けて、男が求める理想の女性を装い、コリンと親しくなっていく。それを見て、マイクは複雑な心境になってくる。
下品な外見の下にナイーブなものを秘めたマイクをジェラルド・バトラーはうまく演じている。前半に比べて後半が面白いのはそうしたマイクのキャラクターに深みが顔をのぞかせるからだが、映画自体には深みは生まれない。脚本家デビューのニコール・イーストマンの原案・脚本に「キューティ・ブロンド」の女性脚本家カレン・マックラー・ラッツとキルステン・スミスのコンビが共同脚本としてクレジットされている。高ビーな女の子が奮起してハーバード・ロー・スクールに入る「キューティ・ブロンド」は軽くて面白かったが、今回はやや不発気味。
こういう簡単なプロットの場合、エピソードにどんなものを持ってくるかで映画の出来が決まる。コリンと出会ったアビーがうれしくて飛び跳ねるシーンはリチャード・カーティス「ラブ・アクチュアリー」に同じようなシーンがあったが、「ラブ・アクチュアリー」のような粋な映画とはかけ離れた出来に終わっている。
2009/06/06(土)「スター・トレック」(2009年)
ロミュランの宇宙船からバルカン星に伸びるパルス兵器を破壊するため、シャトルから飛び降りるカーク、スールーら3人の場面からバルカン星のブラックホールによる崩壊、惑星デルタ・ヴェガのモンスターとのチェイス、そしてレナード・ニモイの登場へと至る中盤が圧倒的に素晴らしい。たたみかけるような演出とはこういうシークエンスの連続を言うのだ。
それよりも何よりもニモイのシワが刻まれた顔は「スター・トレック」の長い歴史の象徴であり、見ているこちらも感慨を覚えてしまう。僕はテレビシリーズ「宇宙大作戦」は熱心に見ていたが、劇場版はそんなに追いかけていず、ネクスト・ジェネレーションの話はほとんど知らないし、興味もない。それでもニモイを登場させたことによって、この映画がシリーズを再起動させる成功につながったことは疑いようがないと思う。原典への敬意を忘れない作りが好ましい。テレビシリーズで毎回流れたナレーションと音楽が再現されたラストはトレッキーたちを狂喜させるに違いない。「スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐」と同様に第1作につながる作りなのである。
急いで付け加えておくと、この映画は「スター・トレック」の始まりの物語であり、これまでのシリーズを見ていなくても十分に楽しめる。単なる前日談に終わっていないところがまた素晴らしく、新たなスタッフ、キャストによる元のシリーズとは違う世界(パラレルワールド)のスター・トレックになっているのだ。だから「スター・ウォーズ」のように円環は閉じてはいない。
劇場版第1作の「スタートレック」(1979年、Star Trek : The Motion Picture)は本格SF風のアイデアが基本にあり、コアなSFファンをも楽しませた。しかし、ロバート・ワイズ監督によるこの超大作はキャストがテレビ版と同じであっても本来スペースオペラであるシリーズとは微妙に味わいが異なっていた。第2作以降は本来のスケールに戻ったが、面白さもそこそこという感じだった。キャストの高齢化も一般受けしない原因であったように思う。今回の映画も話のスケールとしては決して大きくはないが、そのスケールの中でめいっぱいのアイデアと巧みな演出が駆使されて、シリーズの中では破格の面白さとなっている。
話は西暦2233年、連邦の宇宙船USSケルヴィンが巨大な宇宙船から攻撃を受ける場面で始まる。死亡した船長に代わってジョージ・カーク(クリス・ヘンズワース)が指揮を務め、乗組員800人を脱出させた後、ジョージは生まれたばかりの息子にジェームズと名前を付けて船と運命をともにする。船長を務めたのはわずか12分間だった。25年後、ジェームズ・タイベリアス・カーク(クリス・パイン)は宇宙船USSエンタープライズに乗り組むことになる。バルカン星域にワープしたエンタープライズはそこで巨大な宇宙船と遭遇する。宇宙船はブラックホールによるタイムスリップで未来から来たもので、ロミュラン人船長のネロ(エリック・バナ)は連邦への復讐を図っていたのだ。
カークがエンタープライズに乗り組んだ後、ドクター・マッコイやスコット、スールーらおなじみの面々が次々に登場してきてファンならうれしくなるだろう。さらに中盤から映画は面白さを加速していく。カークとスポック(ザッカリー・クイント)の確執を軸に笑いを織り交ぜて進行する語り口は見事と言って良い。監督のJ・J・エイブラムスはトレッキーではないそうなので、シリーズを知らない一般観客へのサービスをてんこ盛りにしているのだ。エイブラムス、「M:i:III」でもスピーディーな演出に冴えを見せていたが、今回もその演出に誤りはなかった。クリス・パインも若くて元気の良いカークを好演しており、映画の出来が良かったこともあって、既に第2作の製作が決まっているそうだ。唯一、気になったのは死者をむち打つようなロミュランへの仕打ちだが、目をつぶっておく。
スポックの母親役の女優が美人だなと思ったら、久しぶりのウィノナ・ライダーだった。残念なことにライダーの写真はパンフレットにはなかった。