2011/11/04(金)「リアル・スティール」
リチャード・マシスンの原作「四角い墓場」を基にしたSF。ロボットボクシングという設定だけを借りてVFXで見せる映画にしている。監督は「ナイト・ミュージアム」のショーン・レヴィ。危惧していた通り、凡庸な映画になっている。子供が主人公のファミリー映画だから、ヒットはするだろうが、どうも物足りない思いが残る。
2011/11/03(木)「アリス・クリードの失踪」
主要登場人物は3人、全登場人物も3人といういかにもインディーズ映画らしい作り。脚本は凝っているが、内田けんじの映画のように「騙してくれてありがとう」という感じにはならない。見ていて気分が良くならないのはこれが人間不信の考えから成り立った脚本であるためか。
金持ちの娘アリス・クリード(ジェマ・アータートン)が覆面をした正体不明のヴィック(エディ・マーサン)とダニー(マーティン・コムストン)に誘拐され、ベッドに手足を縛られて監禁される。犯人2人はアリスの父親に身代金200万ポンドを要求する。ストーリーを書けるのはここまでで、ここから先は3人の意外なドラマがサスペンスフルに展開していく。床に落ちた銃弾をサスペンスにつなげる部分などはうまいと思う。
登場人物が少なく、ほとんど部屋の中で話が進行するので、そのまま舞台になりそうだ。アイラ・レヴィンの某戯曲を思わせる展開もある。これは想像がついた。意外な人間関係を織り込むにはこれはぴったりの設定なのだ。監督のJ・ブレイクソンはこの戯曲の映画化を当然見ているのだと思う。
2011/11/03(木)「MM9 invasion」
怪獣小説+本格SFの連作短編集「MM9」の続編。気象庁特異生物対策部(略称:気特対)という名前からして「ウルトラマン」の科特隊を思わせるが、今回はそのままウルトラマンの世界だ。少女の姿をした怪獣6号ヒメを輸送中のヘリが青い火球と衝突、墜落する。同じ頃、つくば市に住む高校生案野一騎の頭の中に「来て。あなたの助けが必要なのです」という呼びかけが聞こえるようになる。その声の通りに霞ヶ浦まで来た一騎はヒメと怪獣の戦いの場面に出くわす。声の正体はヒメに憑依した宇宙人ジェミーだった。ガス状星雲に住むジェミーはチルゾギーニャ遊星人の侵略を阻止するために地球に来たと話す。
前半は一騎とジェミーと一騎のガールフレンドとのラブコメ感覚で進む。後半は東京に襲来した宇宙怪獣とヒメとの決戦。東京スカイツリーの近辺を舞台に派手な戦闘が繰り広げられる。プロットは簡単で、スペクタクルに徹した小説。すぐにも映像化できそうな題材だが、できることならアニメではなく、実写で見せてほしいものだ。
読み終わって、「このペースなら10巻や20巻は続くのでは」と思った。山本弘のSF秘密基地BLOG:『MM9―invasion―』を読んだら、アニメ化の企画があったために26本のプロットを考えてあるそうだ。
このブログには「ヒントになったのは『三大怪獣 地球最大の決戦』と『ウルトラQ』の『宇宙指令M774』」と書いてある。「ウルトラQ」はWOWOWで放送した際に録画してあるので、「宇宙指令M774」(第21話)を見てみた。なるほど、これはプロットがよく似ている。
人間に姿を変えた宇宙人が「私の名はゼム。ルパーツ星人です。地球に怪獣ボスタングが侵入しました」と警告する。ボスタングはエイのような(というか、エイそのままの)怪獣でタンカーを襲うが、海保と自衛隊の攻撃で難なく退治される。なんと言うことはない話だが、おまけにある部分が面白い。ゼムはルパーツ星に帰るのかと思ったら、「美しい地球に住むことにします」と言うのだ。「地球に住みついた宇宙人はたくさんいます。あの人も、あの人も、あの人も…。あなたの隣にいる人も宇宙人かもしれませんよ」。
2011/10/29(土)「ミッション:8ミニッツ」
パラレルワールドを使えば、どんなことも可能になってしまう。この映画はタイムトラベルものではなく、列車爆発の犯人を見つけるため、死ぬ直前の8分間を何度も経験する男の話だが、繰り返されるうちにその結果に影響を与えていく。8分間は列車爆発の犠牲者の記憶。主人公のコルター・スティーブンス大尉(ジェイク・ギレンホール)はふと気がつくと、その中に送り込まれていた。シカゴ中心部を高性能爆弾で襲うテロを防ぐため、軍が実施したプロジェクトだった。
記憶の中をいくら探したって記憶していないものは見つけられないはずだが、これはその記憶を元に構成した電脳世界と言えるだろう。コンピューターのシミュレーションであり、サイバーワールドの中で完結しているから外の世界とのつながりはない。そこがラストに変わるのが映画の工夫というか、つじつま合わせというか、評価の分かれるところかもしれない。この結末は脚本にはなく、監督のダンカン・ジョーンズが変更したものだという。これが気持ちよいのはハッピーエンドへの強い希求が根底にあるからだ。観客の期待に応える変更と思う。
映画はSFというより音楽も含めてヒッチコックのサスペンス映画のようなタッチ。ダンカン・ジョーンズの本質はSFよりもサスペンスにあるのかもしれない。
2011/10/16(日)「モールス」
ヨン・アイヴィデ・リンドクィストの原作「MORSE モールス」を映画化したスウェーデン映画「ぼくのエリ 200歳の少女」のアメリカ版リメイク。隣に吸血鬼が引っ越してきたという設定は「フライトナイト」(これもリメイクされた)と同じだが、元がスウェーデン映画なだけにゆったりとした展開だ。吸血鬼の少女役は「キック・アス」のクロエ・グレース・モレッツ。監督は「クローバーフィールド HAKAISHA」のマット・リーヴス。
ちょうどWOWOWで「ぼくのエリ 200歳の少女」を放映したので見た。これは叙情性・耽美性を備えた傑作。同じストーリーなのにこうも違うかと思う。マット・リーヴスは耽美性を取り入れようとして精いっぱい頑張っているが、とてもかなわない。アップを多用した画面構成と音楽、そしてスウェーデンの冬の光景が美しい。監督はトーマス・アルフレッドソン。Wikipediaによれば、兄ダニエルは「ミレニアム 火と戯れる女」「ミレニアム 眠れる女と狂卓の騎士」の監督なのだそうだ。
テレビ放映なので仕方がないが、肝心なところにぼかしが入る。「わたしが女の子でなくても好き?」とエリが聞いた理由が分かるシーンなので残念。この、「女の子」のセリフ、ぼくは「モールス」を見た時にバンパイアだから男でも女でもない、という風に解釈したが、実はエリ、元は男の子でバンパイアになる時に去勢されたのだそうだ。「モールス」はクロエ・グレース・モレッツをキャスティングした段階で、この部分を捨て去っていることになる。
原作も買ってしまったが、amazonのレビューに「半分ゲイポルノのようなもので、読まなくていい」とあった。むむむ。そうなのか。ということは、「ぼくのエリ」の成功はアルフレッドソンの力なのだろう。