2013/11/02(土)「Wの悲劇」
「1958年生まれ、26歳。職業はいろいろ。年収は日収月収で150万」。世良公則が2度目に会った薬師丸ひろ子に自己紹介する。29年前でも150万円は少ない方じゃないかと思うが、考えてみれば、バブルの前なのでそういうものなのかなと思う。久しぶりに見た「Wの悲劇」はとても良かった。1984年の映画だが、70年代の青春映画の雰囲気を引きずったところがあって、それがとても懐かしい。今やお母さん役の多い薬師丸ひろ子が、かなりかわいいのにあらためて驚く。世良公則は役柄も含めて好感が持てる。久石譲のセンチメンタルな音楽がとても内容に合っている。
今回再見してちょっと気になったのは舞台のシーンが少し長いこと。全体のトーンから浮いている感じが拭いきれないのだ。なんぜ、この部分、蜷川幸雄が(派手に)演出しているし、夏樹静子の原作の部分なのでそうそう短くするわけにもいかなかったのだろう。ま、これは小さな傷にすぎず、この映画が青春映画の傑作であることに変わりはない。恐らくミステリの映画化には興味が持てなかったであろう澤井信一郎と荒井晴彦の脚本は原作を劇中劇に押し込めただけでなく、主演の2人のキャラクター設定に冴えを見せ、映画に確かなリアリティーを与えている。
キネ旬ベストテン2位。この年の1位は伊丹十三「お葬式」だ。「お葬式」に負けるなんて、何かの冗談としか思えない。
2013/10/27(日)「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編]叛逆の物語」
物語が希望・祈りというテーマと感動的にリンクした完璧な前作からどう話を続けるのかに興味があった。一つの作品として見れば、出来は決して悪くはないが、無理に話を続ける必要はなかったように思える。完璧な物語の続編を作ることは容易ではないのだ。
前作ですべての魔法少女の悲劇的な運命を断ち切るため、円環の理(ことわり)となった鹿目まどかが平然と登場する。これにどういう風に説明を付けるのかと思ったら、そんなに意外なネタではなかった。物語の中心になるのは、というか、語りの視点はまどかではなく暁美ほむらの方だ。転校してきたほむらは、同じ魔法少女であるまどか、さやか、マミらとチームを組み、ナイトメアと戦うが、次第にどかこおかしいと感じ始める。隣の町に行こうとしても、たどり着けない。ほむらは次第に記憶を取り戻す。まどかは円環の理になったはずではなかったのか。いったい誰がこの世界を操作しているのか。
序盤の展開がやや平板で、ここをもう少し刈り込んで、話が発展していく後半につないだ方が良かっただろう。前作は外に開いたSFらしい物語、今回はミステリ的な閉じた物語(アイデアはSF)ということになると思う。
アニメーション作家ユニットの劇団イヌカレーが担当した前衛的な背景描写は前作より多くなり、観念的なSFのアイデアと相まって、映画全体がかつての手塚治虫のアニメ(「悲しみのベラドンナ」とか)のように前衛的かつ観念的な印象になっている。前衛的なのはかまわないが、観念的なのは残念で、劇中で語られる世界の仕組みを言葉で説明するより描写で描いていけば、これは抑えられたのではないか。この映画、コアなファンは満足するかもしれないが、前作のような一般的な広がりには欠けるだろう。
昨年、前作公開時に流れた予告編では魔女の代わりに魔獣が登場したが、本編での敵はナイトメアであり、魔獣はセリフにしか出てこない。今春公開の予定が半年延びたことを考えると、途中で物語の軌道修正があったのだろう。
2013/10/20(日)「おしん」
30年前のテレビドラマのダイジェスト版、あるいは名場面集。そんな感想を抱かざるを得ないのは1時間49分の上映時間の中にエピソードを詰め込みすぎだからだ。一つ一つの場面は悪くない。「おねげえするっす」と山形弁を駆使する主演の濱田ここねをはじめ、上戸彩や泉ピン子や岸本加世子やガッツ石松など出演者はそれぞれに好演しているし、冨樫森監督は雪の山形の風景を効果的に取り入れ、しっかりと画面を構成して撮っている。「おしんの“しん”はなあ、信じるの“しん”だ、真実の“しん”だ。辛抱するのも“しん”だが、神様だって“しん”だ」。おしんにそう話す脱走兵役の満島真之介もいい。問題はメリハリがなく、単にエピソードを並べただけで、物語にうねりが感じられない点にある。
全体の構成に難があるのだ。だから、最も盛り上がるべきラストシーンはなんだか拍子抜けで物足りない思いがしてしまう。テレビドラマの省略すべきところは省略し、力を入れるところと抜くところの強弱を付けた方が良かったと思う。良い題材なのに惜しい。
山形の貧しい小作農家に生まれた7歳のおしんが奉公に出る。奉公先の材木屋で子守や洗濯、炊事など小さな体で懸命に働くが、盗みの疑いをかけられて、いたたまれずに逃げ出す。吹雪の山の中で行き倒れになったところを脱走兵に助けられる。隠れて住む脱走兵から字を教わって平穏な日々を過ごすが、春の訪れと共に実家に帰ることになる。家に帰ったところで状況は何も変わっていず、むしろおしんが奉公先から逃げたことで代金のコメ一俵を取り上げられた上に悪い評判まで立っている。おしんは再び加賀屋という店に奉公に出ることになる。
2013/09/23(月)「許されざる者」
便所に入っている小澤征悦を柳楽優弥が襲う。拳銃で仕留められず、もみ合いになる、腰に差していた短刀を振りかざし、突き刺そうと力を込める柳楽、それを精いっぱい押しとどめる小澤。短刀は少しずつ少しずつ小澤の胸に突き刺さっていき、小澤はついに絶命する。人を殺すということの重さと残酷さを痛烈に感じさせる場面だ。これはクライマックスの渡辺謙の殴り込みの場面でも繰り返される。爽快さとは無縁の暴力、殺戮。アクション映画でよくある場面を詳細にリアルに描けばこういうことになる。命は重いのだ。
クリント・イーストウッドの名作をリメイクしたこの映画、命の重たさを描いてイーストウッド版より深化している。深化したのはそれだけではない。女郎とアイヌという虐げられた者たちへの視点はより明確になっている。しかも不当な力で抑圧された者たちの無念の思いに共感をこめる一方で、顔を切り刻まれた女郎とその仲間が賞金首をかけるという行為や、切り刻んだ開拓民に善悪の二元論を単純に適用しているわけではない。人間は複雑だ。鷲路村を守る警察署長の佐藤浩市の強権的な行為は正当化されるのか、戦友の柄本明を佐藤浩市になぶり殺しにされた渡辺謙の行為は正当化されるのか。映画はどちらも肯定しない。
この映画のキャラクターの描き方は優れた小説がそうであるようにとても奥が深い。人間を書き割りのように分かりやすく単純化した映画が多い中、複雑な実相を浮かび上がらせている。もちろん、イーストウッド版にもこうした部分はあったのだけれど、李相日監督はそれを突き詰め、重厚なドラマを作り上げた。見事な翻案、素晴らしいリメイクだと思う。ただ単に西部を北海道に移し替えただけではない。イーストウッドが提示したテーマを考え抜いて深化させ、彫りの深い映画に仕上げているのだ。傑作だ。
2013/09/15(日)「逆転裁判」
三池崇史監督でゲームが原作。主人公の神尾型とか名前とか漫画のよう。なるほど(成歩堂龍一=成宮寛貴)とか、まよい(綾里真宵=桐谷美玲)、やはり(矢張政志=中尾明慶)とか。桐谷美玲が意外に良い。タイトル通りの逆転があるのは当たり前だが、ミステリファンの目から見ると、ゲームと漫画が原作なのでリアルになりようがないが、真犯人捜しの作りはもはや古い。いや、映画の手法自体は新しいんですけどね。