2015/08/14(金)「ミッション:インポッシブル ローグ・ネイション」

 シリーズ第5作。そして今回が最も面白い。冒頭、離陸する飛行機のドアにぶら下がるトム・クルーズなど数々のアクションにも見応えがあるが、それ以上にスパイ映画の本道に立ち返ったストーリーがいい。国際犯罪組織シンジケートの謎の女イルサ・ファウスト(レベッカ・ファーガソン)の役柄は「北北西に進路を取れ」のエヴァ・マリー・セイントを思わせるほど魅力的だ。クライマックス、イルサがイーサン・ハント(トム・クルーズ)に迫る3つの選択肢にはしびれた。スパイ映画、サスペンス映画に冴えを見せるクリストファー・マッカリー監督の起用は大成功だったと言うべきだろう。アクションを羅列しただけのよくある凡作とは異なり、ドラマとアクションを高いレベルで組み合わせた傑作エンタテインメントだ。

 今回の敵シンジケートは各国諜報機関のエージェントを集めたテロ集団。イーサン・ハントはベンジー(サイモン・ペッグ)とともにシンジケートのボス、レーン(ショーン・ハリス)を追い詰めたところで逆に捕まってしまう。しかし、組織の女イルサはなぜかハントを助けた。イルサは英国諜報部MI6がシンジケートに潜入させたエージェントだった。エージェントの非情な宿命を背負ったイルサの役柄もさることながら、アクションができ、情感を込めた演技も見せるレベッカ・ファーガソンはこの映画の成功の大きな部分を占めている。ハントとイルサの関係が淡すぎず、濃すぎない大人の関係なのもいい。

 中国資本のアリババ集団が制作参加しているためか、オーストリア首相が狙われる劇場で上演されているのは中国が舞台のオペラ「トゥーランドット」。しかし、マッカリ-、転んでもただでは起きない。イルサが迫る3つの選択肢はトゥーランドット姫が出す3つの謎かけにかけたものなのだろう。序盤のイーサンが捕まる場面の仕掛けを終盤に逆のパターンで繰り返すなどドラマトゥルギーをきっちり守ったマッカリ-の脚本はヒッチコックなど過去のサスペンス映画を引用して映画ファンに目配せしながら細部に凝っている(ウィーンが舞台となる場面では「第三の男」を思わせるシーンがあった)。自分の監督作だけにいつも以上に脚本に力が入ったのではないか。

 公式サイトにあるメイキング映像を見ると、飛行機にぶら下がるシーンはワイヤーを付けたクルーズが本当にやっている。ジャッキー・チェンと比較している人がいて、いやそこまではと思ったのだが、クルーズは既に53歳。アクションのレベルが違うとはいっても、クルーズが相当に頑張っていることは間違いない。ユーモアを絡めた場面も得意なのはジャッキーに共通する。そのユーモアはサイモン・ペッグとCIAのアレック・ボールドウィンが担っていて、どちらも好演だ。

 マッカリ-は「ユージュアル・サスペクツ」でアカデミー脚本賞を受賞した後、「ワルキューレ」「アウトロー」(兼監督)「ミッション:インポッシブル ゴースト・プロトコル」「オール・ユー・ニード・イズ・キル」でクルーズと組んでおり、クルーズの信頼が厚いのだろう。シリーズの次作を作るなら、再登板を熱望する。

2015/08/01(土)「進撃の巨人 Attack on Titan」

 諫山創の原作コミックを樋口真嗣監督が映画化。原作とは細かい設定が異なり、登場人物の名前も違う。これは原作者の要望だったそうだ。といっても大筋は同じだ。突然現れた巨人たちに蹂躙され、文明が崩壊してから100年後。人類は高さ50メートルの壁を作り、その中で安寧に暮らしていた。主人公のエレン(三浦春馬)は壁の中の生活に飽き飽きしており、外の世界を夢見ている。幼なじみのアルミン(本郷奏多)、ミカサ(水原希子)とともに壁のそばまで行ったところに超大型巨人が現れ、壁を破って多数の巨人たちが侵入、人間たちをむさぼり食い始める。ミカサも行方不明になってしまう。そして2年後、エレンとアルミンは兵団に入り、壁の穴を塞ぐため巨人に侵入された地区に行く任務に参加する。

 身長120メートルの超大型巨人が出てくる場面は怪獣映画、普通の巨人の場面はゾンビ映画という感じの作り。巨人は「ウルトラQ」の大型化した人間の容貌を崩して醜悪にした感じ。こいつらが人間を捕まえて上半身をパクリと食べたり、手足を引きちぎって食べる。悲鳴と絶叫とグチャッグチャッという擬音が交錯し、さながら阿鼻叫喚の地獄絵図だ(日本ではPG-12に収まったが、アメリカではR指定になるのではないか)。巨人を防ぐ壁に囲まれた世界というのは周囲をゾンビで囲まれたスーパーマーケットを容易に思い起こさせる。映画はこの悪夢のような描写に力を入れているが、残念ながらそのほかの部分はどうにもこうにも擁護できない出来に終わっている。

 原作と異なるのはかまわないが、ある事件によって強い絆で結ばれたエレンとミカサの関係はそのままにしておいた方が良かったのではないかと思う。これがないと、ドラマティックなものがなくなってしまうのだ。アニメ版にはミカサのこんな感動的なセリフがある。「勝利しか生きることを許されない残酷な世界。でも私にはこの世界に帰る場所がある。エレン、あなたがいれば、私はなんでもできる」

 陰々滅々の雰囲気に終始するのにもまいった。確かに絶望的状況ではあるのだが、溌剌としているのがハンジ(石原さとみ)だけでは気が滅入ってくる。これは後編で弾けるための計算なのだろう、と好意的に解釈しておきたい。

 軍艦島の廃墟でのロケは立体機動装置を生かす上ではとても良かったが、序盤を除いて、ここ以外の場所が出てこないので、物語に広がりが感じられない。その立体機動装置の描写はうーん、頑張っているけれど、褒めるほどではない。もっとスピード感がほしいところだ。

 役者では本郷奏多と水原希子はほぼ原作のイメージ通り。三浦春馬もそんなに悪くはない。石原さとみは原作以上。原作のリヴァイに当たるシキシマの長谷川博己が1人で足を引っ張っている。リヴァイのセリフはアニメでは違和感がないが、実写で聞かされると、単に気障ったらしい男にしか見えない。これが人類最強の男であるはずはなく、真っ先に食い殺されてほしいぐらいだ。

 諫山創は「フランケンシュタインの怪物 サンダ対ガイラ」に衝撃を受け、トラウマになったという。実写化された「進撃の巨人」はトラウマの要因となった巨人が人を食う描写を徹底してリアルに描き、パワーアップした。この映画がトラウマになる子どもたちも多いだろう。捕食シーンはアニメでもショッキングだったが、実写版はそれをはるかに上回っている。しかし、上回ったのはそこだけだった。諫山創はアニメを「原作の2億倍面白い」と絶賛した。完成度において実写版がアニメに勝てないのはしょうがないことなのか。そんなことはないだろう。後編での捲土重来を強く期待する。

2015/07/26(日)「バケモノの子」

 序盤はそこそこの出来かと思いながら眺めていたら、テーマが浮かび上がる中盤から画面の情報量とスピード感が格段にアップし、スペクタクルなクライマックスまで充実しまくっていた。予想のずっと上を行く展開である。

 これは子どもの成長の物語であるとともに親の成長の物語でもあり、父と息子の絆を描いた映画であり、心に闇を持つことの危険を描いた映画であり、学ぶこと(向上する意思を持つこと)の重要さを伝える映画でもある。

 こうしたいくつものことを描きながら、物語は少しも破綻することなく、見事に着地していく。序盤の何気ないセリフを結末に結びつけてくる真っ当な描き方に感心した。テーマに絡んださまざまなエピソードを入れたことが映画の厚みにつながっている。脚本の底に流れる考え方と物語を作る技術が高いレベルでまとまり、現代の世相までをも取り入れた極めて正攻法の傑作だ。言うまでもなく細田守監督のベスト。

 例えば、こんなエピソードに心惹かれる。9歳でバケモノ界に迷い込んだ九太=蓮(染谷将太)は学校に行かなかったため漢字が読めない。18歳で人間界に戻る道を見つけ、図書館で「白鯨」を読みながら、分からない漢字をそばにいた楓(広瀬すず)に聞く。不良に絡まれた楓を助けたことから、九太は楓の指導で勉強を続け、大学進学を志すようになる。乾いた砂に水が染み込むように九太は勉強に打ち込む。高等学校卒業程度認定試験(高認=かつての大検)の手続きに行った役所で担当者から「学校行ってないんだろ、無理無理」と追い返されるが、それを見ていた女性職員は九太に書類を届ける。

 と、これだけでも1本の映画になる題材だ。世の中には分かっている人と分かってない人、向上心のある人とない人、人を助ける人と貶める人がいるのだ。そして映画は前向きな人の背中を押すような話、闇に流されそうな人の心に剣を持とうと訴える話に仕上がっている。

 ただし、作りはそんなに単純ではない。バケモノ界で九太の親代わりになる熊徹(役所広司)は粗暴でがらっぱちな性格。料理は卵かけご飯だし、掃除をしないので家の中は散らかり放題になっている。熊徹と宗師の座を争う猪王山は熊徹とは対照的に人望があり、武術にも長けている。猪王山の息子・一郎彦も子ども時代は正義感あふれる性格だったが、思春期に至って心に闇を抱えるようになる(なぜそうなったかはクライマックスで明かされる)。

 ダメな親から育った子どもがダメになるわけではないし、立派な親から育った子どもが立派な大人になるわけでもない。ダメと思っていた親が実は子どもに深い愛情を持っていたりする。そしてダメな親は子どもに助けられてダメではないところを見せる。劇場には親子連れが多数来ていたが、これは子どもよりも親の心に強く響く映画ではないか。

 宮崎あおいやリリー・フランキー、大泉洋など豪華な声優陣はやはり役所広司の熊徹がうまい。音楽は「おおかみこどもの雨と雪」に続いて高木正勝が担当。メロディアスなものから雄々しいスコアまでとても良かった。

2015/07/25(土)「アベンジャーズ エイジ・オブ・ウルトロン」

 「キャプテン・アメリカ ウィンター・ソルジャー」のラストに登場した双子の姉弟(エリザベス・オルセン、アーロン・テイラー・ジョンソン)が出てきてアベンジャーズに敵対する。この姉弟(スカーレット・ウィッチとクイックシルバー)はトニー・スタークの会社が作ったミサイルで家族を殺され、スタークに恨みを持っている。高速移動と精神を操る能力を持つ2人が加わると、「X-メン」になんだか似てくるなあと思ったら、その通り、X-メンのメンバーなのだった。この映画ではヒドラによって改造された超能力者だが、X-メンではミュータント。今回の敵ウルトロンがロボットというのも「フューチャー&パスト」のセンチネルに似ている。ただ、どうもロボットが敵だと個人的には盛り上がらない。どうしてもドラマに乏しくなるのだ。

 もっとドラマが欲しいと思う。ブラックウィドウことナターシャ・ロマノフ(スカーレット・ヨハンソン)とハルク(マーク・ラファロ)のロマンスはいいのだけれど、これを前面に押し出すわけにはいかない話なのがつらい。ハルクは今回も大暴れで、マーベルのヒーローの中では最強なんじゃないかと思えてくる。

2015/07/19(日)「ターミネーター 新起動/ジェニシス」

 カール・リース役のジェイ・コートニーに主役を張るだけの力量がない。サラ・コナー役のエミリア・クラークも魅力を発揮しているとは言いがたい。主演の2人に関して言えば、1984年の第1作、マイケル・ビーンとリンダ・ハミルトンに負けている。その上、発想は良かったものの、物語の展開が面白くない。筋を追うのが精いっぱいでエモーションにも欠ける。第1作どころか、2作目にも3作目にも4作目にも負けっ放しなのだ。つまりシリーズ最低の出来である。SF感覚に欠けた脚本(パトリック・ルシエ、レータ・カログリデス)と監督のアラン・テイラーの凡庸な手腕が原因なのだろう。シュワルツェネッガーを再起用してせっかく新起動したのに、このままシャットダウンする可能性が大きい。

 2029年、スカイネットの中枢を破壊したジョン・コナー率いる人類抵抗軍がその直前にターミネーターを1984年に送られたことを知り、サラを守るためカイルに後を追わせる。第1作の描写をなぞって、全裸のターミネーター(T-800)が84年のロサンゼルスに出現し、服を奪おうとしたところで、背後から「お前に着るものは必要ない」と声がして年齢を重ねたターミネーターが登場。新旧というか、老若のターミネーター同士の戦いとなる。面白かったのはここまでだった。いや、実を言えば、その前のシーン、スカイネット中枢の襲撃シーンが間延びしていて嫌な予感はしたのだった。

 カイルは転送装置の中で、ジョン・コナーが襲われるのを見る。どうやら過去に何かが起きて未来が書き換わったらしい。スカイネットが核兵器で30億人を抹殺したジャッジメント・デイは1997年のはずだったが、それが2017年に延びたようだ。サラ・コナーとカイルはスカイネットを阻止するため2017年に向かうことになる。

 時間テーマSFに多元宇宙の概念は付きものだが、処理を誤ると収拾が付かなくなる。第1作にも言えることだが、ターミネーターが84年のロスでサラ・コナー殺害に成功していたら、現在は瞬時に書き換わり、カイルが後を追う展開にはならない。第1作でこれが気にならなかったのはそういう細部に気づく前に描写がとことんうまかったからだ。傷だらけになりながら、ひたすらサラを守るカイル。必死の逃走を続ける2人がうらぶれたモーテルで体を合わせる場面でカイルは「会うずっと前から好きだった」と打ち明ける。ロボット軍団に殲滅させられそうな絶望的な未来社会で、古ぼけた写真に映ったサラの姿はカイルにとって唯一の希望だったのだ。それが今回はT-800から「早く合体しろ」と言われる始末。ロマンティシズムも何もあったものじゃない。

 予告編でイ・ビョンホン演じるT-1000は「T2」のロバート・パトリックと同様の雰囲気を見せて悪くなかったが、本編で出てくるのは84年の場面だけ。2017年に出てくるT-3000は型番は上がってもT-1000よりパワーアップしているとは思えなかった。