2016/12/20(火)「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」

 帝国に対するスパイ行為や暗殺などの汚い仕事をこなしてきた“ならず者”たちが、主人公ジン・アーソ(フェリシティ・ジョーンズ)の言葉に賛同してデス・スターの設計図を盗む作戦に参加する。こういうプロットであるなら、エクスペンダブルのような扱いを受けてきたならず者チーム(ローグ・ワン)の悲哀を描くのが冒険小説や映画の常道だ。ところが、この映画にはそういう部分がほとんどない。「スター・ウォーズ」のスピンオフという性格上、本編とあまりにかけ離れた描き方をするわけにもいかないのだろうが、主人公とならず者たちのドラマがもっと欲しくなってくる。ギャレス・エドワーズ監督は「GODZILLA ゴジラ」もそうだったが、VFXの使い方など見せる技術は水準以上にあっても、ドラマを盛り上げる力には欠けている。ローグ・ワンたちの運命は悲劇的なのに、それが十分に機能していないのが残念だ。

「ローグ・ワン スター・ウォーズ・ストーリー」パンフレット

 それでも終盤、「エピソード4 新たなる希望」(1977年)につながる話になってくると、こちらの気分は高まってくる。なにしろ「新たなる希望」の冒頭、レイアの乗った宇宙船がダース・ベイダーの乗るスター・デストロイヤーに捕捉される場面の直前までを描いているのだ。2つの月が昇る惑星タトゥイーンの場面で終わる「エピソード3 シスの復讐」(2005年)を見た時、「(スター・ウォーズは)28年かかって見事に円環を閉じた」と感じた。この映画にも同じような感慨を持った。いつものジョン・ウィリアムズではなくマイケル・ジアッキーノが担当した音楽は「スター・ウォーズ」のテーマとは少し異なるメロディーで始まり、エンドクレジットで「スター・ウォーズ」そのものになる。「スター・ウォーズ」の正史から弾かれた外伝として始まった物語はここでプリクエルに昇格するのだ。

 ジンの父ゲイレン(マッツ・ミケルセン)は優秀な科学者で、デス・スターを完成させるために帝国に連れ去られる。母ライラ(ヴァレン・ケイン)はこの時、殺された。ジンは反乱軍の過激派ソウ・ゲレラ(フォレスト・ウィテカー)に助けられる。数年後、成長したジンは反乱軍から、父親がデス・スター建造の中心人物であると知らされる。ジンは父の汚名を晴らすため情報将校のキャシアン・アンドー(ディエゴ・ルナ)、盲目の僧侶チアルート・イムウェ(ドニー・イェン)、その親友のベイズ・マルバス(チアン・ウェン)、ロボットのK-2SOらとともにデス・スターの設計図がある惑星スカリフに向かう。

 驚いたのはモフ・ターキンが出てくること。「新たなる希望」でデス・スターとともに死んだターキンを演じたのは1994年に亡くなった名優ピーター・カッシング。この映画に出てくるターキンを演じたのはガイ・ヘンリーという俳優だが、カッシングにそっくり、というよりカッシングそのものだ。イングヴィルド・デイラというノルウェーの女優が演じるあのキャラクターもそっくり。どちらもメイクアップだけではなく、CG処理を加えているのだろう。

 ダース・ベイダーももちろん登場して反乱軍の兵士をライトセイバーとフォースでバタバタと倒し、圧倒的な強さを見せつける。声は以前と同じくジェームズ・アール・ジョーンズだが、少しニュアンスが異なっている感じ。動きも若々しい。やはり「スター・ウォーズ」にはダース・ベイダーが出てこないと話にならないなと思う。

2016/12/04(日)「永い言い訳」

 突然のバス転落事故で妻を亡くして泣く男と泣かない男。いや、泣けなかった男、それが主人公の衣笠幸夫(本木雅弘)だ。プロ野球広島カープの元選手・衣笠祥雄と同じ読みの名前を持つ主人公はそのために小さい頃から、からかわれてきた。津村啓というペンネームを持つ作家になったのは自分の名前を気に入っていなかったことが理由の一つだろう。

「永い言い訳」パンフレット

 映画は泣けない男がさまざまな出来事を経て本当の涙を流すまでを描く。それだけなら、話は単純だが、その後にもう一つの場面がある。主人公に作家という職業を設定した以上、これはあって当然の場面だ。事故のテレビ番組に主人公が出演する場面も含めて本物と偽物、真実と嘘という前々作の「ディア・ドクター」から連なるテーマが深化して受け継がれている。

 妻が事故に遭っている時に幸夫は愛人の福永智尋(黒木華)を自宅に招いていた。観客の共感を得にくい主人公と一筋縄ではいかないテーマを西川美和監督は描写の説得力でねじ伏せる。それが発揮されるのは泣く男、トラック運転手の大宮陽一(竹原ピストル)が登場してからだ。バス会社の事故説明会で陽一は「妻を返してくれよ」と直情型の叫びをあげる。幸夫とは対照的に妻の死に打ちのめされていて、事故直前に妻から携帯に入った留守電の録音を聞き返しながら、トラックの中でカップラーメンをすする姿が悲しい。

 陽一には小学6年生の真平(藤田健心)と保育園児の灯(あかり=白鳥玉季)という2人の子どもがいる。母親を亡くし、仕事で不在がちな父親の家で、喧嘩しながらも助け合い、けなげに生きる子ども2人の姿を見るだけで観客は映画の味方になるだろう。普通の監督なら、こっちをメインに描いたはずで、それはそれで感動的な映画に仕上がったかもしれない。

 幸夫の妻(深津絵里)と陽一の妻(堀内敬子)は親友で、一緒に旅行に行く途中、事故に遭った。陽一親子と食事を共にしたことから、幸夫は陽一の不在時に子どもの面倒を見ることを買って出る。「自分のようなつまらない、空っぽの男の遺伝子が受け継がれるなんて」と考えて幸夫は子どもを作らなかった。子どもたちと過ごすうちに、その考えが変わっていく。ただし、そんなに簡単に人の本質は変わらない。涙の後の場面はそれを示してもいる。

 監督は主人公に「『物語を作る者』という私の自己像にも似たモチーフ」を込めたという。子どもが絡む場面は観客を大いに引きつけるが、幸夫自身の話に関しては必ずしも成功しているとは言えない。それでも映画は直木賞候補になった監督自身の原作よりもはるかに充実している。細部の描写が西川美和のこれまでの作品よりも一段と優れているのだ。パンフレットによれば、原作は映画のためのウォーミングアップだったそうだ。原作に心を動かされなかった人も映画には納得するだろう。

 主演の本木雅弘はもちろん良いが、出番の少ない深津絵里と黒木華も好演している。黒木華がこんなに色っぽく撮られたのは初めてだ。西川美和の描写力は大したものだと思う。同時に残酷な人でもある。「バカな顔」「もう愛してない。ひとかけらも」などという毒のあるセリフは男の脚本家だったら、書かないのではないか。

2016/11/23(水)松山ケンイチがすごい「聖の青春」

 村山聖が初めて羽織袴で対局に臨んだのは谷川浩司との王将戦のはずで、4連敗して汗と涙でボロボロになった村山の姿をテレビ中継で見たのを覚えている。映画では羽生善治との対局に変えてある。同世代のライバルだった村山と羽生を中心に据えて話を構成するために映画にはいくらかのフィクションが交えてあって、エンドクレジットにもそう断り書きが出る。

「聖の青春」パンフレット

 中盤、対局後に村山が羽生を誘って大衆食堂に飲みに行くシーンもフィクションだ。クライマックスの対局につながる重要な場面だが、困ったことにここでの2人のセリフに説得力がない。趣味での共通点がない2人は将棋の勝負に関しては共通の思いを持っており、心を通わせることになるのだが、「羽生さんは僕らとは違った海を見ている」「一度でいいから女の人を抱いてみたい」というセリフなど、いかにも作り物なのだ。向井康介の脚本は健闘しているのだけれど、映画が松山ケンイチの大変な好演をもってしても、胸を張って傑作と言えるまでになっていないのは脚本に説得力を欠く部分があるからだ。

 「体調悪いんか?」と荒崎学(柄本時生)に聞かれた村山は「体調いい時なんかないんですよ」と答える。村山は幼い頃から腎ネフローゼと闘ってきた。念願のプロ棋士になっても、フラフラになりながら将棋会館に向かい、将棋を指すことになる。役のために体重を20キロ増やした松山ケンイチはそんな村山をリアルに演じきっている。風貌を似せるだけでなく、たたずまいだけで村山そのものになっているのは精神的なアプローチが成功しているからだろう。憑依型、なりきり型の演技であり、村山の将棋への思いと「僕には時間がないんや」という切実な生き方まで取り込んで、キャラクターに厚みを持たせている。羽生を演じる東出昌大が羽生の外見と仕草をいくら似せても、表面だけの薄っぺらな感じにしかならず、生きたキャラクターになっていないのとは対照的だ。松山ケンイチ、凄すぎる。

 この2人の演技を見ていると、モデルの人物に外見を似せることが演技の決定的な要素ではないことがよく分かる。観客にモデルとなった人物との違和感を持たせないために、そして役者自身がモデルの人物にアプローチするために外見を似せることはある程度必要ではあるのだろうが、本当に求められるのはそこから先の部分だ。東出昌大を擁護しておくと、この映画の羽生の役柄には演技のしどころがない。名人を含めて7冠を達成し、女優の奥さんと結婚までしている羽生は何も持たない村山にとって完璧な人物だ。普通の映画であれば、こうした完璧な人物の性格的な欠点であるとか、主人公に対するなんらかの負の部分を設定するところだが、実在の人物なのでそれができない。だからここでの羽生は完璧という記号の存在でしかない。

 師匠の森信雄(リリー・フランキー)との強い絆を中心に据えた大崎善生の原作とは変えて、村山と羽生の2人を中心に描く構成が成功しているとは言えないのだが、それでも村山聖の描き方に不満はない。「終盤は村山に聞け」と言われた村山を象徴するエピソードがある。控え室で対局の検討をしている棋士たちが村山に「どうやったら詰むの?」と聞いたのに対して村山は「どうやったら詰まないの」と返すのだ(原作にあったのかどうか忘れたが、村山の答えは「どうやったら詰まないんですかっ」だったと思う)。

 病気がなかったら、村山は「名人になりたい」という願いを達成したかもしれない。しかし病気がなければ、入院中に将棋に出合うこともなかった。こうしたジレンマよくあるし、深刻なものでなくても人は何らかのハンディやコンプレックスを抱えているものだ。志半ばで29歳で亡くなった村山に強い共感の念を覚えるのは村山がそうした弱さを抱えているからであり、「敗れざる者たち」というフレーズを思い浮かべずにはいられない。

 WOWOWの「映画工房」にゲスト出演した森義隆監督によると、クライマックスの対局で村山が締めているネクタイと羽生が掛けている眼鏡はどちらも本物だそうだ。この場面、2人に全部の棋譜を覚えてもらい、2時間半かけて実際に指して対局を再現したのだという。

 原作の感想は1999年にReading Diary, Maybeに書いた。

2016/11/20(日)「白鯨との闘い」の本筋

 なぜ今ごろ、「白鯨」のような話を映画化するのか疑問で、劇場公開時には見逃した。Netflixで見て後半の展開に驚いた。なるほど、こちらが本筋なのか。

 ナサニエル・フィルブリックのノンフィクション「復讐する海 捕鯨船エセックス号の悲劇」をロン・ハワード監督が映画化。2003年に邦訳された原作は映画公開に合わせて昨年、「白鯨との闘い」のタイトルで集英社文庫に入った。映画はハーマン・メルヴィルが新作を書くためにかつての捕鯨船乗組員に話を聞くという設定で始まる。新作とはもちろん「白鯨」のことだが、フィルブリックの原作はマッコウクジラによって船を壊された乗組員の漂流がメインのようで、白いクジラを出したのは映画の脚色らしい。原題はIn the Heart of The Sea。

 前半は邦題通りに、“海の悪魔”と言われる白鯨との闘いが描かれるが、後半は一転、乗組員たちの過酷な漂流の話になる。「ライフ・オブ・パイ トラと漂流した227日」が比喩的に描いたカニバリズムの話も出てくる。飢えと渇きと疲労で衰弱しきった乗組員たちがくじ引きで誰を食料にするかを決める場面があるのだ。しかし、さすがロン・ハワード、キワモノにはしていない。ハワードは古き良きハリウッド映画の伝統を守り抜いている監督なので、感動的な決着を用意している。夫の悲惨な漂流の実際を初めて知った妻が「それを知っていても私はあなたのそばにいたわ」と話す場面など、ハワードらしい在り方だ。

 僕はハワードの直球ど真ん中という演出が好きなのだが、この映画、アメリカでは評価が高くない。ロッテン・トマトで肯定的評価は43%、IMDbの採点は6.9。後半のダークな部分が受けなかったのかもしれない。主演はハワードの前作「ラッシュ プライドと友情」に続いてクリス・ヘムズワース。

2016/11/13(日)「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」 主張備えたエンタテインメント

 ダルトン・トランボの名前を知ったのは監督作の「ジョニーは戦場へ行った」(1971年)が公開された時。当時はドルトン・トランボという表記だった。赤狩りによって投獄された“ハリウッド・テン”の一人であり、「ローマの休日」を匿名で書いた脚本家であることはその頃、既に知られていた。終戦後、脚本家として活躍していたトランボ(ブライアン・クランストン)は非米活動委員会に召還され、証言を拒否したために投獄される。映画はそこから復権までの道のりを仲間や家族の描写を織り込みながら描いていく。監督のジェイ・ローチはこれまでコメディの多かった人。それが功を奏したのか、ガチガチの社会派映画にはせず、きっちりと主張を備えたエンタテインメントに仕上げた。

「トランボ ハリウッドに最も嫌われた男」パンフレット

 刑務所から出たものの、トランボに以前のような仕事はない。「ローマの休日」は友人のイアン・マクラレン・ハンター(アラン・テュディック)の名義で映画会社に売り込み、アカデミー原案賞を受賞するが、当然のことながら仕事の依頼が来るわけではなかった。トランボはB級映画を量産しているフランク・キング(ジョン・グッドマン)の会社から安いギャラで仕事を請け負う。偽名で脚本を書いたほか、請け負った仕事は脚本家仲間に回し、それをキングが気に入らなかった場合はトランボが書き直す契約。トランボが優れた脚本を書けた理由は映画からは分からないのだが、仕事に追いまくられてバスタブにタイプライターを持ち込み、3日で1本の脚本を仕上げる姿からは一流の職人のような人だったのだなとうかがえる。そうやって書いたロバート・リッチ名義の「黒い牡牛」(1956年)もアカデミー原案賞を得た。

 映画が唾棄すべき人物として描いているのは元女優でコラムニストのヘッダ・ホッパー(ヘレン・ミレン)。ホッパーは非米活動委員会の手先のような言動と振る舞いをしてトランボたちを苦しめる。一方でトランボの実力を認めて「スパルタカス」の仕事を依頼するカーク・ダグラス(ディーン・オゴーマン)や「栄光への脱出」監督のオットー・プレミンジャー(クリスチャン・ベルケル)がいるし、ラジオからは非米活動委員会の活動に疑問を呈するグレゴリー・ペックやルシル・ボールの声も聞こえてくる。「アメリカの理想を守るための映画同盟」に所属していたジョン・ウェイン(デヴィッド・ジェームズ・エリオット)もホッパーに比べれば悪い男としては描かれていない。

 トランボたちを支援していた俳優のエドワード・G・ロビンソン(マイケル・スタールバーグ)は仕事を干され、非米活動委員会で証言してしまう。かつて支援してもらった金を返しに来たトランボとロビンソンが対峙する場面が印象的だ。匿名でも仕事ができる脚本家と違って、俳優は顔を隠して仕事はできない。ロビンソンは苦渋に満ちた表情でそう話すのだ。

 見ていて思うのは寛容と非寛容ということだ。自分とは異なる他人の思想・信条を全面否定し、平気で踏みにじる。赤狩りで行われたのはそういうことだった。一方的な攻撃・弾圧がまかり通る社会は間違っている。トランボは確かに共産党に所属していたが、重視したのは言論の自由を守ることであり、合衆国憲法修正第一条に明記されている言論の自由が封殺される状況に強く反発していた。映画が描いたことはハリウッドの異常な一時期、過去の話に終わるものではなく、今に通じる。

 トランボを支える妻クレオ役をダイアン・レイン、長女のニコラをエル・ファニングが好演している。ニコラが公民権運動に参加する描写などはしっかり父親の血を受け継いでいるのだなと思わずにはいられない。庭に池がある大きな家を売って、小さな家に引っ越す一家のホームドラマとしての側面が映画の幅を広げている。