2003/02/20(木)「戦場のピアニスト」

 もちろん、ダビデの星の腕章を着けさせられる差別からゲットー移住、収容所送りへと続くユダヤ人迫害の場面はテレビや映画や書籍で何度も見た(読んだ)ものではあるのだが、それでもやはり胸を締め付けられるような思いがする。気まぐれにユダヤ人を殺すドイツ兵の描写には「シンドラーのリスト」の時と同じように心が冷えてくる。飢えと恐怖と絶望に苦しめられ、人間の本性がむき出しにされるゲットーの生活をロマン・ポランスキーは1人のピアニストの視点から冷徹に描き出す。前半はこういう粛然とせざるを得ないような描写が続く。

 映画は後半、収容所行きの列車から危うく難を逃れた主人公がさまざまな人たちの力を借りて生きのびていく姿を描く。隠れ家を転々とし、物音も立てずにひっそりと生きる主人公の姿は、戦争が終わったことも知らずにジャングルの中で暮らした日本兵を思わせる。主人公は飢えに苦しみ、死にそうになりながらも生き抜いて終戦を迎えることになる。この後半も優れた描写ではあるのだが、主人公が生きるか死ぬかだけに絞られてくるので物足りない思いも残る。実話だから仕方がないし、過酷な生活を送った主人公の生き方にケチを付けるつもりも毛頭ないが、この主人公からは絶対に生き抜くという信念は感じられないし、レジスタンスに参加するわけでもないし、状況を少しでも変えようと努力するわけでもない。単に運が良かっただけのように見えてしまう。

 収容所で殺され、レジスタンスで倒れた多数の人々に比べれば、主人公は生き抜いただけでも恵まれていたと言える。話を運の良い男に収斂させてしまうと、映画としてはちょっと弱い。ユダヤ人迫害を十分に描いているじゃないか、と言われれば、確かにその通りだが、そういう映画はほかにもたくさんあるのだ。良い映画であることを否定はしないけれど、物語を締め括る視点にもう一つ何かのメッセージを込めてもよかったような気がする。

 ポーランド出身で、ゲットーでの生活も体験したロマン・ポランスキーは「シンドラーのリスト」の監督候補に挙がったこともあるそうだ。それを蹴ったのは自分に近すぎる題材だったためとのこと。この映画の後半を主人公の生きのびる姿に絞ったのはポランスキーにとって、まだあの時代が重くのしかかっているからなのかもしれない。

 常に哀しい目をした主演のエイドリアン・ブロディは好演している。昨年のカンヌ映画祭パルムドール。アカデミー賞にもノミネートされている。脚本はチェコのレジスタンスの若者たちを描いた鮮烈な傑作「暁の7人」(1976年、原題はOperation Daybreak)のロナルド・ハーウッド。

2003/02/10(月)「レッド・ドラゴン」

 原作を読んだのは単行本が出た直後だから18年前。細部はすっかり忘れている。覚えているのは“噛みつき魔”ダラハイドと盲目のリーバの描写ぐらいか。小説は面白かったが、その後に読んだ「羊たちの沈黙」で、脇役だったレクター博士に安楽椅子探偵の役目を振ったことの方が驚いた。寝ころんで読んでいて、起きあがりました。やはり、「ブラック・サンデー」のトマス・ハリス作品だけのことはある…。

 「レッド・ドラゴン」はマイケル・マン監督「刑事グラハム 凍りついた欲望」(1986年)に続く2度目の映画化となる。ブレット・ラトナーは「ラッシュアワー」とかの監督だから不安があったが、まずまずの出来に仕上がっている。相変わらずのアンソニー・ホプキンスもエドワード・ノートンもうまく、それ以上にダラハイド役のレイフ・ファインズがうまい。ダラハイドは原作ではもっと醜い顔のはずで、ファインズではハンサムすぎると思うが、中盤の新聞記者(フィリップ・シーモア・ホフマン)をいたぶる場面など狂気の演技がなかなかである。リーバ役のエミリー・ワトソンもいい。

 原作ではレクター博士の登場シーンは少なかった。映画でも多くはないが、もはやレクター博士はスター並みの存在だから、それなりの扱いをしてある。冒頭のエピソードは「ハンニバル」の雰囲気を取り入れたもので、そこに続く逮捕場面も悪くない(ここまでがちょっと長い気はする)。ラトナーの演出は大味なところがあって決して優れているわけではないけれど、そつなくまとめてある。

 残念なのは「羊たちの沈黙」へのリスペクトが大きすぎること。ラトナーはレクターの入った精神病院のセットを「羊たち…」と同じにすることにこだわったという。脚本は「羊たち…」で名を挙げたテッド・タリーだから、映画の雰囲気も「羊たち…」によく似たものになった。ダラハイド捜査のヒントをレクターがグラハムに与える場面などそのままである。要するにオリジナルなものに乏しいのだ。「羊」がなければ、映画の評価は高まったかもしれない。しかし所詮、「羊」がなければ生まれなかった映画なのである。

2003/02/06(木)「ボーン・アイデンティティー」

 ロバート・ラドラム「暗殺者」の映画化。記憶をなくした主人公ジェイソン・ボーン(マット・デイモン)がCIAから命を狙われながら、自分のアイデンティティーを探し求める。何が起こっているのか、なぜ狙われるのかが分からない前半の展開は快調で、デイモンもアクションシーンを難なくこなし、凄腕の男役がピッタリな感じ。ボーンの逃走を助け、事件に巻き込まれるマリー役フランカ・ポテンテも少し疲れた感じがいい。ただ、謎の設定がちょっと浅い。頭を打ったわけでもないのに主人公が記憶をなくすというのも都合がよすぎるのではないか。原作は未読だが、映画化に際してかなり単純化してあるようだ。あと2つぐらいヒネリを加えると良かったと思う。

 地中海で重傷を負って浮かんでいた男が漁船に救出される。男は背中を撃たれており、体内にはチューリヒの銀行の口座番号が埋め込まれていた。しかも記憶がなくなっている。傷をいやした男が銀行に行くと、金庫には大金とジェイソン・ボーンなどと名乗った6枚のパスポート、拳銃があった。銀行を出たところで、ボーンは警官から追われ、アメリカの領事館に逃げ込む。しかし、そこでも警官たちがボーンを狙ってくる。ボーンは金に困っていた女マリー(フランカ・ポテンテ)に謝礼2万ドルの約束で、手がかりを捜すため車で一緒にパリに行く。

 と、ストーリーを書けるのはここまで。ダグ・リーマン監督の演出はスピーディーで次々にアクション場面とサスペンス場面をつないでいく。記憶はなくしていても格闘技の腕は体が覚えており、公園で詰問を受けた主人公が一瞬にして2人の警官を倒す場面など鮮やか。デイモンは映画に備えて体作りをしたようだ。アクションが格闘中心なのもいい。

 やや単調になる中盤で、ボーンとマリーのロマンスを取り入れているのは効果的で、マリーはボーンの要請で容姿を変え、徐々にスパイ映画の女優らしくなってくる。この2人の関係をもっと描いても良かったと思う。

 問題は事件の真相がやや魅力を欠くこと。CIAが主人公を狙うことにどうも切実な理由が見当たらない。ゲームみたいな話なのである。主演の2人の魅力で救われてはいるけれど、もう少し時代に即した脚本にしたいところだった。とはいっても、冷戦時代とは違い、スパイ映画は成立にしくい時代なのだろう。

2003/01/17(金)「アイリス」

 イギリスの作家ジョン・ベイリーが妻のアイリスについて書いた原作をリチャード・エア監督が映画化。現在の(というか年老いた)ベイリーを演じたジム・ブロードベントはアカデミー助演男優賞を受賞した。現在のアイリス役のジュディ・デンチは主演女優賞ノミネート、若い頃のアイリスを演じたケイト・ウィンスレットは助演女優賞にノミネートされた。

 アルツハイマーが進行するアイリスを絶妙に演じるデンチには感心したし、それを温かく見守るブロードベントもうまいのだが、それ以上にウィンスレットが良い。この女優、決してスタイルが良いわけではないが、豊満な感じが奔放なアイリス役にぴったりだ。ウィンスレットが出ていなかったら、映画は輝きを失っていただろう。デンチを見ているよりもウィンスレットを見ている方がもちろん楽しく、若い頃のパートをもっと多くしてほしかったと思う。

 リチャード・エアの母親もアルツハイマーだそうで、映画は43年間に及ぶ夫婦愛とともにアルツハイマーの描写が大きな部分を占める。言葉にこだわりを持っていたアイリスが言葉を失っていく過程は残酷で哀しい。

 この映画が日本初公開作となるエアの演出は輝く過去(それは若さの輝きでもある)と悲惨さを増す現在を描き分けているのだが、話の進め方としてはやや単調になってしまった。役者たちが3人もアカデミー賞にノミネートされながら、作品賞にノミネートされなかったのはそのためだろう。もう少しメリハリを付ける必要があった。

 ウィンスレットが素晴らしすぎたために老年の夫婦の描写と若い頃のラブストーリーが乖離してしまった印象もある。あんな風にして結ばれた夫婦がアルツハイマーに冒されるという風になるはずが、別々の映画を見ているような感じを受ける。ウィンスレットとデンチに落差がありすぎるのである。アルツハイマーはこの映画の重要な主題であり、難しいところなのだが、もっと明確に夫婦愛とアルツハイマーのどちらに重点を置くかを決めた方が良かったのではないか。

2003/01/11(土)「運命の女」

 ダイアン・レインとリチャード・ギアが「コットン・クラブ」以来18年ぶりに共演したサスペンス。クロード・シャブロル「La Femme Infidele」を元に「危険な情事」のエイドリアン・ラインが監督した。

 会社社長の夫エドワード(リチャード・ギア)の妻で何不自由ない生活を送っているコニー(ダイアン・レイン)が強風のニューヨークで若いポール(オリヴィエ・マルティネス)に出会い、情事を重ねるようになる。それはやがて夫に知られ…、という展開。元がフランス映画だけに大人の映画になっており、ラストの処理には味わい深いものがある。「危険な情事」のように安易なホラーになったりはしない。特に後半、危機に陥った夫婦が絆を取り戻していく描写などギアとレインの演技も含めて感心した。しかし、細かいところで微妙に違うなと思わせる部分が残る。

 一番の疑問はなぜコニーはポールに惹かれたのか、という肝心の部分である。もの凄い強風(ホントに何かの冗談じゃないかと思えるぐらいの強風)のソーホーを歩いていたコニーは本を抱えて歩いていたポールとぶつかり、転んで足にけがをする。親切なポールは部屋で手当てをするよう勧める。その時は何のこともなく終わり、続いて2度目にお礼をしにアパートに行った時も何もなく終わる。しかし、コニーは三度、ポールのアパートを訪ね、そこで2人は一線を越えてしまうのである。このコニーの3度目の訪問の気持ちが良く分からない。

 夫に不満があるわけではない。エドワードがかなり高齢でコニーが性生活に不満をもっていたとか、そんなこともない。ポールがコニーに対して特別に積極的だったわけでもない。本で埋まったポールの部屋を見せ、そのユニークさを映画は描こうとしているのだが、コニーとの出会いが運命的なものには感じられないのである。例えば、コニーの役柄が軽薄な女であったなら、こういう展開でも納得できたのかもしれない。でも演じるのがダイアン・レインですからね。軽薄になりようがないのである。

 あるいはエドワードの役がリチャード・ギアではなく、もっと高齢の俳優であったなら、コニーはポールの若さに惹かれたのだという説明もできる(ちなみに元の映画ではこの役はミシェル・ブーケである。やっぱり、という感じがする)。しかし、ギアはいたって若く見えるのである。ならば、なぜコニーはポールに惹かれたのか、そこのところを詳しく描く必要があったように思う。

 恋愛は理屈ではないが、映画は理屈なのだ。理屈ではない部分に説得力を持たせる必要があるだろう。キャストを変えれば、説得力はあったのかもしれないけれど、ミスキャストというにはギアもレインも十分に好演している。だからこれは微妙な齟齬と言うほかない。

 前半のレインはセクシーさも含めて非常に良いのだが、中盤、妻の情事を知ったエドワードが苦悩をにじませてポールのアパートに行く場面のギアの演技がなかなかである。なかなかではあるが、感情を爆発させる部分にこれまた少し説得力が足りない。アルヴィン・サージェントとウィリアム・ブロイルズ・Jrの脚本には詰めの甘さが残る。前半は妻の話なのに後半は夫中心の話で、物語の視点が動くのも気になる。どちらかに(特に夫の視点の方に)統一させた方がすっきりしたのではないか。