2010/07/08(木)「ロストクライム -閃光-」
「プライド 運命の瞬間」以来12年ぶりの伊藤俊也監督作品で、3億円事件を題材にしたサスペンス。永瀬隼介の原作「閃光」を長坂秀佳と伊藤監督が脚色している。話自体は悪くないと思うが、至る所に演出の細かい齟齬がある。それが集積して映画全体として面白みに欠ける作品になってしまった。12年間のブランクが悪い方に影響したのか。といっても、僕は伊藤俊也の作品に思い入れはないし、面白いと思った作品も少ない。相性とかそういう問題ではなく、この人、テクニックはあまりないと思う。社会派の監督でもなく、「さそり」のようなシャープなB級作品に本領を発揮するタイプなのだろうと思う。
隅田川で絞殺死体が発見される。定年を2カ月後に控えた刑事滝口(奥田瑛二)は捜査メンバーに名乗りを上げる。コンビを組むのは若手の片桐(渡辺大)。滝口が事件に関心を持ったのは殺された男葛木が3億円事件の重要容疑者の1人だったからだ。1968年12月10日、偽白バイ警官が現金輸送車から3億円を奪った事件。既に公訴時効が成立したが、滝口をはじめ警察関係者は当時、複数の犯人グループを突き止めていた。それなのになぜ、逮捕しなかったのか。映画は事件の真相を徐々に明らかにしながら、現在もなお、3億円事件の深層を隠蔽しようとする警察上層部と事件に絡んだ連続殺人を描いていく。
現在の連続殺人が過去の事件につながっていくというのはミステリでは極めてよくある設定。この映画(原作)も、そのスタイルを踏襲している。事件の真相に驚きはなく、警察の隠蔽の理由も説得力を欠く。そう思えるのは映画に力がないからだろう。ドラマの構築が弱いのだ。
奥田瑛二の演技は僕には全然うまいとは思えない。渡辺謙の息子、渡辺大は色に染まっていないのが良いところだろうが、、主役を張るほどの貫録はない。他のキャストはかたせ梨乃、宅麻伸、中田喜子、烏丸せつ子、夏八木勲ら。これは70年代の映画か、と思えるような布陣だが、68年の事件を題材にしているため、というよりは監督の趣味なのではないかと思う。かたせ、中田にはそれぞれラブシーンがあるが、どちらも不要に思えた。
2010/06/01(火)「パレード」
予告編からはスリラーのような印象を受けた。それが先入観としてあったので、いつまでたってもスリラータッチにならないなと思いながら見ていた。だから、実はこれが行定勲監督作品としては「きょうのできごと」に連なる映画であることに気づくまで1時間近くかかった。「ロックンロールミシン」と合わせてモラトリアム3部作なのだそうだ。しかし、映画はやはりスリラーとして、予告編とは違う意味でのスリラーとして着地する。
映画を見た後に、家にあった吉田修一の原作を読んでみたら、解説で作家の川上弘美が「こわい、こわい」と繰り返していた。監督自身はこの映画について「青春映画のふりをした恐怖の映画」としている。大学生の日常を描いた「きょうのできごと」は最後までほんわかした映画だったが、この映画には正反対の怖さがあるのだ。同じように若者の日常を描きながら、緩やかな人間関係の根底にある不条理な恐怖が浮かび上がるラストが秀逸だ。
2LDKのマンションで男女4人が共同生活をしている。4人の間に恋愛のような濃い関係はない。いつでも出て行けるという安心感のある共同生活であり、それぐらい緩やかなつながりである。当人たちはこの生活の在り方を「インターネットのチャットや掲示板のような」と、たとえる。これは少し分かりにくい表現だが、要するに本音を隠して付き合っているということだろう。マンションには男部屋と女部屋があり、男部屋には伊原直輝(藤原竜也)と杉本良介(小出恵介)、女部屋には大河内琴美(貫地谷しほり)、相馬未来(香里奈)が住む。住人が集う居間がチャットルームのような在り方になるわけだ。そこに「夜のオシゴト」をしてるらしい小窪サトル(林遣都)が転がり込んでくる。マンションの近所では連続暴行事件が発生していた。というシチュエーションの下、物語は5人の視点で描かれていく。
映画は原作に忠実だが、怖さの質は少し異なる。ラストの処理で一歩踏み込んでいるのだ。原作が描いているのは映画のレイプシーンばかりを集めたビデオテープをテレビドラマ(原作では「ピンクパンサー2」のアニメ)を上書き録画するシーンが象徴している。水面下にある醜悪な現実を見ないで付き合う関係の怖さ。登場人物の1人はラストでそれに気づき、慄然とする。映画はそこから踏み込み、そうした表面的な人間関係から逃れられない怖さをラストに持って来た。「行くよね」。無表情に1人がつぶやくセリフが怖い。彼らの関係は非日常的なことが起こっても壊れない。いや壊さない暗黙の了解があるのだ。
個人的にはもっともっと不条理な展開が好きなのだが、日常生活にある不条理さを浮かび上がらせるにはこれぐらいの方がいいのかもしれない。若手俳優5人がそれぞれに好演している。小出恵介と林遣都は昨年の「風が強く吹いている」とは正反対の役柄ながら、逆にそこがいい。「GO」では感心したのに、「北の零年」では才能ゼロとしか思えなかった行定勲は若者を描いた映画に本領を発揮する監督なのだと思う。
2010/05/03(月)「ゼブラーマン ゼブラシティの逆襲」
6年ぶりの続編。前作の感想を読み返してみたら、前作は2010年が舞台だったのだった。今回はそれから15年後、2025年の設定。ゼブラーマンこと市川新市(哀川翔)は記憶を失い、路上で目ざめる。そこから何があるかというと、ゼブラシティと名前を変えた東京での戦い。都知事の娘ゼブラクイーン(仲里依紗)との戦いである。まるで「ストリート・オブ・ファイヤー」のダイアン・レインを思わせるように刺激的な仲里依紗以外に見るべきものがないのが悲しいところだ。
前作はスーパーヒーローもののパロディを思わせる展開ながら「信じれば、夢は叶う」というモチーフを軸に据えて充実した出来だったが、今回は相当に落ちる。宮藤官九郎の脚本が弱い。白ゼブラと黒ゼブラの合体のシーンなど爆笑もので、三池崇史の趣味は全開なのだけれど、細部で笑わせられても、話の本筋がこれでは映画は盛り上がらない。仲里依紗のみを見るべき映画であり、それでも入場料金ぐらいの元は取れるのだけれど、映画としては喜べない出来に終わっている。
2010/05/01(土)「タイタンの戦い」
特撮の巨匠レイ・ハリーハウゼンが担当した1981年の同名作品(デズモンド・デイヴィス監督)のリメイク。旧作は見ていない(公開当時の評判は良くなかった)が、「アルゴ探検隊の大冒険」などハリーハウゼンの一連のダイナメーションにはやっぱり驚いた経験がある。有名な骸骨と人間の戦いなどは作り物であることが見え見えであっても、それを長時間かけて実現した作りの苦労自体が感動の源になっているのだ。今回の新作は出てくる怪獣・怪物たちがCGで描かれているにもかかわらず、巨大サソリと人間の戦いの場面などに不自然さを感じる(わざとそうしたという説もある)。人間の俳優が絡む場面はいくら技術が進歩しても難しい部分があるのだろう。これを回避するにはフルCGで描けばいいが、それではアニメと変わらなくなる。
とはいっても、この映画、VFXは全般的に水準を保っており、特にクライマックスに登場する巨大なクラーケンの造型などは面白く、なかなか全貌を見せない撮り方も良い。蛇女メデューサの動きの速さはダイナメーションでは表現できない部分だろう。「トランスポーター」「インクレディブル・ハルク」のルイ・ルテリエ監督だけにアクション場面にも抜かりはない。だが、平凡な印象が抜けきらない。同じくデミゴッド(半神)が主人公でメデューサが登場した「パーシー・ジャクソンとオリンポスの神々」に比べれば面白く見たが、物語の部分がダイジェストにしか思えないのだ。いくらCGが進歩しようと、ドラマをしっかり組み立てなければ映画は面白くならないというのをあらためて感じさせられる作品と言える。
主人公のペルセウス(サム・ワーシントン)は全能の神ゼウス(リーアム・ニーソン)とアルゴス国の前王妃との間に生まれたデミゴッド。怒った前国王に母親とともに海に流されたところを漁師に助けられて成長する。ゼウスは兄で冥界の神ハデス(レイフ・ファインズ)の提案を受け、神に戦いを挑んだ傲慢な人間たちを懲らしめることを決める。ハデスは現在のアルゴス国王に10日後に海の怪物クラーケンを放ち、国を滅ぼすと宣言。それを回避するには王女アンドロメダ(アレクサ・ダヴァロス)を生け贄に捧げなくてはならない。育ての親をハデスに殺されたペルセウスはアンドロメダを助けようと、クラーケンの退治法を探るため魔女のもとを訪れる。
映画が今ひとつの出来に終わったのは育ての親を殺されたペルセウスの怒りがあまり伝わってこないからか。ルイ・ルテリエの演出はエモーショナルな部分に弱さを感じる。型どおりの演出なので、情感が高まらないのである。主演の「ターミネーター4」「アバター」のサム・ワーシントンはこうしたVFX大作にすっかりなじんできた感がある。特にハンサムとも思えないのに引っ張りだこなのが不思議だが、この映画でも可もなく不可もなしのレベルの演技を披露している。
2010/04/11(日)「第9地区」
主人公ヴィカス・ファン・デ・メルヴェ(シャルト・コプリー)が第9地区でエイリアンの謎の黒い液体を浴び、徐々に肉体がエイリアン化していく過程を見て、まるで塚本晋也「鉄男」のようだと思った。「鉄男」はホラーだったが、「第9地区」は社会派の要素も取り込んだSFエンタテインメント。難民キャンプに押し込められた180万のエイリアンたちは人種差別や難民差別を容易に思い起こさせる。
この構成はエイリアンの科学者への弾圧をユダヤ人迫害に見立てた1980年代のテレビドラマ「V」の例もあるので、目新しいとは言えないし、これがテーマかと言えば、むしろエイリアンと地球人の相互理解と交流の方が中心になっていて、それならば、過去の映画にたくさんの例があるなと思うのだが、過去のSFの模倣に終わらせず、さまざまな要素を独自の物語の中に溶け込ませている点が良く、きっちりと作っている点に好感を持った。枝葉末節にオリジナルな部分は少ないにもかかわらず、全体としてはとてもオリジナリティーを感じる作品だ。
クライマックスに活躍するパワードスーツが超国家機関MNU(マルチ・ナショナル・ユナイテッド社)の傭兵から大量の銃弾を浴びせられて倒れるシーンは「ロボコップ」を思い起こさせ、実写のパワードスーツと言えば、「エイリアン2」のパワーローダーが嚆矢だよなと思っていたら、監督のニール・ブロムカンプはSF映画のファンであり、好きな映画の中にこうした作品も入っているそうだ。ついでに言えば、倒れたパワードスーツがプシューっと開き、中の人間が顔をのぞかせるシーンの呼吸は「パトレイバー」や「攻殻機動隊」など日本製のロボットアニメの数々を参考にしたのに違いない。監督自身は「攻殻機動隊」と「アップルシード」の影響を認めている。
そうした過去の映画のエッセンスを31歳のブロムカンプは血肉にしているのだろう。次作は大量のロボットが登場する映画ということを聞けば、架空のニュース映像で構成される序盤は「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」や「クローバーフィールド HAKAISHA」などPOV(ポイント・オブ・ビュー)の映画ではなく、これまた「ロボコップ」の方が頭にあったのかもしれないなと思う。ヨハネスブルグ上空に浮かぶ巨大な宇宙船の光景はとてもシュールだ。そのシュールさ、日常の中の非日常にリアリティーを持たせるためのニュース映像の手法なのだろう。
エイリアンたちは強力な武器を持っているが、DNAが合致しないと動作しないため人間には操作できない。体の一部がエイリアン化したヴィカスにはそれが可能なため、ヴィカスを巡る争奪戦がメインプロットになる。争奪に加わるのは軍事企業の側面を持つMNUと、第9地区に住むナイジェリア人のギャングたち。恐ろしいことにヴィカス個人の命など何とも思ってない非情な連中である。スラム化した猥雑な第9地区を舞台に中盤からは三つどもえのアクションに次ぐアクションとなる。序盤がやや退屈なのは中盤以降の展開に説得力を持たせるタメの部分だからなのだろう。28年間、静止していた宇宙船がついに動き出すクライマックスとヴィカスの運命。さまざまな問題点を残したまま映画は終わり、続編に期待を抱かせる。
ブロムカンプの本当の評価も次作の出来がカギを握るだろうが、SF好きの監督が出て来たことはSFファンとしてはとても嬉しい。