2001/01/24(水)「ファイナル・デスティネーション」

 搭乗する飛行機が爆発するのを予知夢で知った主人公と友人ら7人が離陸の直前に飛行機を降りて助かる。しかし、その7人は浴槽で滑ったり、交通事故に遭うなどいろいろな事故で一人一人死んでいく。死神が立てた死の筋書きは変えられず、死ぬはずだった7人に順番に死が訪れているらしい。主人公は死の法則を調べ、何とか免れようとするが、その間にも死は次々と訪れる。果たして主人公は…といったストーリー。

 このストーリーだけで映画を作るには少し無理がある。ヒネリようのないアイデアなのである。死神を画面に出せば、陳腐になるだけだし、かといって何も敵の姿が見えないのでは面白くなるはずがない。勝てるはずのない相手に立ち向かっているわけだから、ま、どうしようもありませんね。

 アメリカのティーンエイジャー向けであることがはっきりした作りで、よくあるスラッシャーと同じパターン。出演者もほとんど無名の若者たちである。監督・脚本のジェームズ・ウォンは「Xファイル」などの演出を経て、これが劇場用映画デビューだそうだ。「Xファイル」ぐらいSFしていれば、少しは何とかなったのにね。

 主人公が墓場で会い、「死は避けられない」などと分かった風なことをいう黒人がその後登場しないのは不思議。「また会おう」と言っているのだから、当初はキーパースンの予定だったのではないか。

 この映画のシチュエーション、近く公開されるM・ナイト・シャマラン「アンブレイカブル」に何だか似ている。あちらは毀誉褒貶もあるようだけれど、これよりは、はるかにアイデアを詰め込んでいるだろう。

2001/01/17(水)「レッド プラネット」

 カール・セーガンの火星地球化計画をベースにしたSF映画。地球が汚染され尽くしたため、人類は火星に藻類を送り、酸素を作り出そうとする。その調査に出かけた宇宙船の乗組員が次々に危機にさらされる。昨年の「ミッション・トゥ・マーズ」に続いて火星を舞台にしている。いつものことながら、リアルな宇宙の描写は好ましいのだけれど、SF的アイデアの発展はこれまたいつものことながらない。

 火星軌道上で太陽風の直撃を受けて宇宙船が機能停止、船長(キャリー・アン・モス)を除く乗組員が火星に脱出する。しかし、火星にあるはずの基地は破壊されていた。酸素がなくなる、連れてきたロボットが異常を起こして襲ってくるという危機をどう乗り越えるかが描かれる。あっと驚くような展開をアメリカのSF映画に期待するのはもう無理なのか。リアルの延長で話が地味だ。脚本にアイデアが足りない。

 監督のアントニー・ホフマンはCMディレクター出身。いちおうの絵づくりはできるけれど、それだけのこと。こういう監督を起用するのはちょっと考えものだ。場面自体は良くても演出にメリハリがない。「スペース カウボーイ」のイーストウッド演出を少しは見習ってほしい。

 キャリー・アン・モスは相変わらず美しくて良い。ただし、宇宙船にいたままなので、あまり活躍の場がないのは残念。

2001/01/09(火)「ダンサー・イン・ザ・ダーク」

 ヒロインが空想するミュージカルの場面のみ色鮮やかで、現実はざらざらした(銀残しのような)感触の色合い。過酷な現実を描く部分にまったく共感できない。救いのないストーリーが許せない。ラース・フォン・トリアーはミュージカルを本当に好きなのだろうか。「気持ちが高ぶって歌になり、歌が極まって踊りになる」というミュージカル映画の基本を表していたのは、わずかにビョークが「I've Seen It All」を歌う場面のみだった。

 映画の中で「ミュージカルって、なぜ突然歌ったり、踊り出したりするんだ」と登場人物の1人が話す場面があるけれど、この映画の終幕、裁判所や刑務所でビョークが歌い出す場面はこれに当たる。なぜここで歌い出すのか、失笑するしかないのである。

 この映画で初めてミュージカルに接する人がいたなら、それはとても不幸なことである。最初に経験すべきミュージカルはMGMでアーサー・フリードが制作したものでしょう。

 小林信彦は「ミュージカル映画はなぜつまらなくなったか」という一文でこう書いている。「ミュージカルというのは、社会性もヘタクレもない、歌や踊りを武器にして、現実と別の次元へ飛翔する人間の魂の自由の喜びの表現なのだから、そのような喜びのないミュージカルは、むしろ気の抜けたオペラというべきで、1930年代よりはるかに後退していると言わざるを得ない」。

 ラース・フォン・トリアーはミュージカルを分かっていない。その前に音楽も分かっていないし、映画的な技術も足りないのではないかと思う。でなければ、こんな物語をミュージカル的に作るわけがない。

2000/12/20(水)「シックス・デイ」

 SF的なアイデアはクローンのみで、そこから少しも発展しない。つまりこういう映画はSF的設定映画であって、SFそのものではないのね。監督がロジャー・スポティスウッドなので、それなりに凝った映像(ワイプがいいです)で見せてくれるが、ストーリーの先が読めるため途中で飽きた。昨年の「エンド・オブ・デイズ」よりはまし、といったレベル。

 ハリウッドの娯楽映画には一種の方式があり、それを踏襲している。すなわち、簡単なプロットをアクションでつなぐという方式。シュワルツェネッガーを僕は嫌いではないけれど、いい加減、別のパターンの映画に出た方がいいのではないか。

 「ゴジラ×メガギラス」と比べてうらやましいのは、SF的な小道具がしっかりしていること。ホログラフィーの女性やかっこいいヘリ(これホントにあるのかな)、クローン人間の製造工場(?)とか、良くできている。基本的に日本映画とは金のかけ方が違うんですね。

2000/12/19(火)「オーロラの彼方へ」

 この映画にはタイムトラベルは登場しないが、過去を操作したことによる現在への影響が描かれ、時間テーマSFの一種と言える。ニューヨークにオーロラが現れた日、主人公は30年前の父親と無線通信を果たす。父は翌日、消火活動の途中で死ぬところだったが、息子の忠告によって死を免れる。ところが父を救った代わりに母親が連続殺人犯の犠牲になってしまう。それ助けるため、現代の息子と30年前の父親が無線通信で協力し、犯人を捕まえようとする。後半はこの犯人探しのサスペンスになってしまうのが、SFファンとしてはちょっと残念。

 前半の息子と父親の交流が泣かせる。大林宣彦「異人たちとの夏」を思わせる描写なのである。ここをもっとふくらませていたら、文句なしに傑作の太鼓判を押すところだ。

 過去を変えると、当然のことながら主人公の現在の環境も変わる。本当であれば、記憶もすっかり変わってしまうはずだが、両方の記憶を保持したままというのがポイント。これをご都合主義と言ってしまってはこの映画は成立しない。監督は「真実の行方」「悪魔を憐れむ歌」のグレゴリー・ホブリット。

 過去への通信を扱ったSFとしてはグレゴリー・ベンフォード「タイムスケープ」が有名。これは超高速微粒子タキオンを使って未来から現在へ通信を行い、未来の危機を回避する話だった。「オーロラの彼方へ」は通信の設定をオーロラの影響とだけ説明している。このアイデアだけでストーリーにSF的な発展はない。あまりマニアックにすると、一般受けはしないかもしれない。