2007/09/09(日)「デス・プルーフ in グラインドハウス」
個人的にはアメリカン・ニューシネマの傑作中の傑作と思っている「バニシング・ポイント」(1971年、リチャード・C・サラフィアン監督)がこの映画のモチーフの一つとなっている。クライマックスに「バニシング・ポイント」で主人公が乗ったダッジ・チャレンジャーによるカーチェイスが展開されるのだ。「爆走トラック'76」「ダーティ・メリー、クレイジー・ラリー」「バニシング in 60"」と他のカーアクション映画の名前も出てきて、タランティーノ、こういうカーアクション映画が好きだったのだなとニヤリとさせられる。もともとこの映画、60-70年代のB、C級映画(グラインドハウス映画)を復活させようという計画で作られたもので、確かに前半のわざとフィルムに傷をつけたり、大仰で安っぽい音楽を流したり、下品でエロティックな場面を用意したりの作りはかつてのB、C級映画を思わせて、これはこれで面白い。
この趣向だけで2時間近くは持たないと思ったのかどうかは知らないが、途中に白黒の場面を挟んできれいなカラーへと転換する後半は完璧にカーアクション映画の復活を狙ったものになっている。スティーブ・マックィーン「ブリット」に端を発したカーアクション映画は70年代に最盛期を迎えて、多数の映画が作られた。「フレンチ・コネクション」や「カプリコン1」のようにアクション映画ではない映画にまでカーアクションが登場したほどだった。この映画、前半がグラインドハウス映画の外見を模したものであるのに対して、後半はそうしたカーアクション映画の精神を復活させたものと言えるだろう。しかも、このカーアクション、ボンネットの上にスタントウーマンが乗ったまま展開されるという驚愕の趣向が用意されている。「キル・ビル」でユマ・サーマンのスタントを務めたというゾーイ・ベルのスタントは一見に値する。これがあるから、この映画、ただのグラインドハウス映画のパロディにはならず、見応えのある映画になったのである。
ストーリーは簡単だ。前半に描かれるのは若い女の子たちの他愛ないおしゃべりと彼女たちを狙うシボレーに乗ったスタントマン・マイク(カート・ラッセル)の姿。いかにもな映画の作りにクスクス笑っているうちに、女の子たちの乗った車にマイクが猛スピードで車を正面衝突させ、女の子たちは全員死亡してしまう。マイクの車はデス・プルーフ(耐死仕様)に補強されているため、マイクは重傷を負うが、助かる。マイクのキャラクターはスラッシャー映画の殺人鬼のようなもので、前半にこれを描いていることがクライマックスのアクションに生きてくる。後半は前半から14カ月後の設定。新進女優やスタントウーマンの女の子たちが登場する。スタントウーマンのゾーイは「バニシング・ポイント」のダッジ・チャレンジャーが売りに出されているのを知り、試乗しようと言い出す。そこで、ゾーイは以前やってもう二度としないと誓ったはずのボンネット乗りを行い、マイクに目を付けられることになる。
クライマックスのアクションはマイクに攻撃を仕掛けられた女の子たちが反撃に転じるのだが、マイクが偏執狂的な男であると分かっているので、車がボロボロになるまで行われる反撃の激しいアクションにも納得できる。エモーションを伴わないただのカーチェイス、カーアクションほど空しいものはなく、だから、「バニシング in 60"」のアクションに僕は全然興味を持てなかったのだが、タランティーノはそのあたり、よく分かっていると思う。車の爆音とスピード感は官能的で、女の子たちの反撃も気持ちよく、スパッと終わるのが潔い。ボロボロにしてしまったダッジはどうなるとか、余計なことを描いていないのがいい。惜しいのはこのラストのあり方を全体には適用してないことで、こうした映画なら1時間半程度で収めて欲しかったところだ。短く切り詰めれば、もっと締まった映画になっただろうし、もっとグラインドハウス映画っぽくなっていただろう。
新進女優役のメアリー・エリザベス・ウィンステッドは「ダイ・ハード4.0」でジョン・マクレーンの娘役を演じた女優。登場する多くの女優の中では正統的な美女と言える。「激ヤバ」のセリフに笑った。DJのジャングル・ジュリア役を演じるシドニー・タミーア・ポワチエはシドニー・ポワチエの娘、ジョーダン・ラッドはシェリル・ラッドの娘だそうだ。
2007/08/13(月)「夕凪の街 桜の国」
「夕凪の街 桜の国」は絶賛評が多く、映画生活でも満足度ランキングのトップになっている。被爆者と被爆二世を描いて充実した話だと思うが、映画に関して言えば、僕は佐々部清監督の浪花節的体質が邪魔をしているように思えた。見ていて描写の仕方に引っかかる部分が多すぎるのである。
前半の「夕凪の街」は主人公が「自分だけが生き残って申し訳ない」との思いに責めさいなまれている点で黒木和雄「父と暮せば」を思い起こさせるけれど、演出の差は歴然としている。黒木和雄の端正で静かな描写(にもかかわらず主人公の思いは痛切に伝わる)に比べると、この映画の描写は安っぽい。悲劇を強調した音楽の使い方や俳優の演技に問題があるのだろう。メロドラマと大差ないレベルの演出だ。
もちろん、良い部分もある。「(広島に)原爆は落ちたんじゃなくて、落とされたんよ」「原爆を落とした人は12年たって、また一人殺せたと喜んでいるんかねえ」という主人公の怒りは十分に共感できる。ただ、これは原作の力なのではないかと思う。
舞台が現代に変わる後半の「桜の国」は演出のタッチが違い、コメディ的な部分があるのがまた引っかかる。堺正章はミスキャストに近いと思う。ここで描かれるのは被爆二世への差別などまだ終わっていない原爆の悲劇だ。僕は田中麗奈が好きなので、田中麗奈が悲劇的エピソードの中を飄々と歩いていても別に構わないのだが、本来ならもっとメインに来るはずの弟とその恋人のエピソードの情感が今ひとつになった。
だいたい、映画の最初に「広島のある 日本のある この世界を 愛するすべての人へ」と余計な字幕を出す佐々部清のセンスを僕は疑う。監督自身の思いなど観客にとってはどうでもいいし、それは映画に込めればいいことだ。監督がこうだから余計なセンチメンタリズムが映画に入り込むのだろう。
2007/08/06(月)「トランスフォーマー」
日本製ロボット玩具から始まった日米合作アニメをスティーブン・スピルバーグ製作、マイケル・ベイ監督で映画化。軍とロボットが戦う場面が中心だった予告編はSFアクション映画かと思わせたが、本編は単なる子供向け(あるいはファミリー)映画だった。ロボットの造型はアニメのデザインが基本になっており、元のテレビシリーズを見ていた人にも違和感がないように作ってある。そのロボットのいかにも子供向けな造型が少し不満で、動きは速いのだが、だんだん重量感と質感に乏しいように見えてくる。監督のマイケル・ベイは前作「アイランド」の後半、CGを使いまくったアクションを見せてくれて、これはアクションだけでも凄いと思ったものだが、今回は物語の求心力が弱く、これが決定的な欠点だろう。だからクライマックスのロボット同士の市街戦は技術に感心こそすれ、それほど面白くはない。結局のところ、アメリカ映画もまた大ヒットするのは家族向け映画であり、この映画もそんな中の一本と言える。
カタールのアメリカ軍基地から始まる序盤は快調である。墜落したはずのヘリコプターが基地に近づいたかと思うと、ヘリはロボットに変形(トランスフォーム)し、基地を壊滅させる。ロボットへの変形シーンがこの映画の見どころの一つでこのCGは確かに凄い。舞台はアメリカに移り、主人公のサム・ウィトウィッキー(シャイア・ラブーフ)が中古車を買う場面。父親とともに中古車屋を訪れたサムは他の車がなぜかすべて壊れたことで黄色いカマロを買うことにする。ボロボロのカマロだったが、これが実は金属生命体であることがやがて分かる。サムの曾祖父は南極で何かを発見し、気が触れたことになっている。サムはその遺品をネットオークションに出していたが、実はその遺品を巡って宇宙から来た善と悪の金属生命体が争奪戦を繰り広げていたのだ。カマロはバンブルビーという名前の金属生命体で、サムの護衛の役を与えられていた。こうして善と悪のロボットたちが地球を舞台に戦いを繰り広げることになる。
巨大ロボットアニメはよく「ロボットプロレス」とバカにされることがあるが、それと同じ次元のストーリーではどんなにCG技術が優れていても、引き込まれるはずがない。見ていてガンダムやエヴァンゲリオンのようなストーリー性、物語の奥行きが欲しくなってくる。単純な物語をCGで見せているだけの作品に終わったのはかえすがえすも残念だ。この内容で2時間25分は長すぎると思う。
パンフレットとキネマ旬報8月下旬号でマイケル・ベイはILMの日本人クリエイター、ケイジ・ヤマグチ(山口圭二)を絶賛している。ちょっと引用しておこう。「面白い話がある。オプティマス・プライムのデザインをチェックするミーティングで、隅っこに座っていたILMの日本人クリエイター、ケイジ・ヤマグチが突然立ち上がり『このデザインは日本人への侮辱だ! 僕がオプティマス・プライムを直す!』と叫んだんだ。ケイジはルービック・キューブのような変身シーンを可能にした影の功労者。フレームを止めてみると、パーツがくっついたり変形したりと、その複雑さに驚くばかりだったよ」(キネ旬8月下旬号)。製作が決まった第2作ではこの素晴らしい変形シーンに負けない物語にしてほしいものだ。
主演のシャイア・ラブーフは決してハンサムではなく普通の少年っぽいところがいい。主人公が思いを寄せるミカエラ・ベインズ役のミーガン・フォックスもちょっと色っぽくて良かった。
2007/07/19(木)「涙そうそう」
古いパターン。これは昭和30年代の映画かと思えるような古いパターンにもかかわらず、土井裕泰監督はしっかりした演出で最後まで見せる。
絵に描いたような好青年と血のつながっていない妹の話。兄は妹を大学に行かせるために働きづめに働く。昼間は市場で、夜は居酒屋で。ようやく自分の店を持てたかと思ったら、詐欺に遭っていたことが分かる。舞台が東京だったらパロディにしかならないような古いパターンの話を成立させるために土井監督は沖縄を舞台に選んだのだろう。終盤にある設定もこれまた普通に描かれたら怒るところだが、映画の流れから言えば、こうするしかないだろう。
映画を支えているのが妻夫木聡と長澤まさみの好演であることは言うまでもない。ひたすら明るく人がよい妻夫木もいいのだが、長澤まさみはそれ以上によく、麻生久美子と並ぶ場面では麻生久美子がかわいそうになってくるほどの魅力。だいたい比較するのが間違いで、これは女優とスターの違いと言っていい。
小林信彦は週刊文春のコラムをまとめた「昭和が遠くなって」の「天成のスターは映画の枠を超える」という文章の中でこの映画の長澤まさみについてこう書いている。
「ヒロインとしての長澤まさみも、船の舳先で手をふる陽気な登場シーンから、兄に向かって『本当に好きだよ』と言って去ってゆくシーンまで、みごとである。アップになった時の視線の微妙な動き、抜群の表情に、演技の進歩(というのは失礼だが)が見て取れる。スター映画を観る喜びはそういうものであり、観客は一瞬たりとも気を緩めることができない」
長澤まさみはそういう存在であり、もっともっと映画に出るべきだと僕は思う。
ところで、上の文章に続けて、小林信彦は「そういうスター、少なくともスター候補は、もう一人いる」と書いている。
「昨年、『ALWAYS 三丁目の夕日』の中で、昭和三十年代にはあり得ない広い幅の道を車で通り抜け、戦前の松竹映画のようなゴミゴミした町に入っていった集団就職の少女である」。
つまり、堀北真希のことを小林信彦は長澤まさみに匹敵すると言っているのだ。大淀川さんは反論するでしょうが、これは僕も同感。
2007/07/18(水)「雲のむこう、約束の場所」
端的に言って傑作。「秒速5センチメートル」や「ほしのこえ」に感じた物語の未完成さが微塵もない。立派にSFしているところに好感。「ハウルの動く城」を抑えて2004年の毎日映画コンクールでアニメーション映画賞を受賞したのも当然か。
Wikipediaから引用しつつストーリーを紹介する。津軽海峡で分断された日本が舞台。北海道は「ユニオン」に占領され、「蝦夷」(えぞ)と名前を変えていた。ユニオンは蝦夷に天空高く聳え立つ謎の「塔」を建設しており、その存在はアメリカと「ユニオン」の間に軍事的緊張をもたらしていた。青森に住む中学3年生の藤沢浩紀(吉岡秀隆)と白川拓也(萩原聖人)は、海の向こうの「塔」にあこがれ、ヴェラシーラ(白い翼の意)と名づけた真っ白い飛行機を自力で組立て、いつか「塔」へ飛ぶことを夢見ていた。
2人は、同級生の沢渡佐由理(南里侑香)にヴェラシーラを見せ、いつか一緒に「塔」まで飛ぶことを約束する。しかし、佐由理は何の連絡も無いまま2人の前から姿を消す。ショックで2人は飛行機作りを止めてしまう。喪失感を埋め合わせるように浩紀は東京の高校へ進学し、拓也は地元の高校へ進学して勉学に打ち込むことになる。
3年後、「ユニオン」とアメリカの緊張は高まり、戦争が現実になりそうな気配の中、「塔」の秘密が明かになる。それは近接する平行宇宙との間で空間を交換し、世界を裏返して書き換えてしまう超兵器であった。
一方、佐由理の行方も明らかになる。彼女は中学三年の夏から三年間もの間、原因不明のまま眠りつづけており、東京の病院へ入院していたのだ。やがて「塔」と佐由理の関係が明らかになると、この事実を知った浩紀と拓也はヴェラシーラを塔まで飛ばす決意をする。宣戦布告後の戦闘のさなか、ヴェラシーラは津軽海峡を越えて北海道の「塔」へ飛ぶ。佐由理と世界を救うために。
最初の30分近くはいつもの新海誠の映画のタッチで中学生3人の交流が描かれる。ああ、またこういうパターンかい、と思って見ていたら、いきなりハードなSFの設定に移行した。この世界に住む科学者は平行世界の存在に気づいており、平行世界とこの世界で「砂粒程度」の空間の置換に成功している。塔はそれをより大きなレベルで実現する兵器だったのだ。世界は平行世界を夢見ている、という設定は大変魅力的だ。
少女を救うことが世界を救うという展開はいわゆる「セカイ系」といわれるパターンに属する。だからというわけではないが、ハードな設定が姿を現した時の驚きに比べると、その後の展開はまあ予測できる程度のものである。
しかし、いつもの新海誠の絵のタッチの良さにきちんとした物語が組み合わさっていることで、これは大変まとまりのある作品になった。新海誠だけで作ったわけではなく、他のスタッフがかかわったからこそ完成度の高い作品になったのだろう。新海誠自身は共同作業があまり好きではないのかもしれないが、このレベルの作品を生み出すには協力するスタッフが必要だ。こういう製作方法で新作を撮ってほしいと思う。