2006/11/19(日)「トゥモロー・ワールド」

 「トゥモロー・ワールド」パンフレット英国ミステリの女王P・D・ジェイムズの原作を「天国の口、終りの楽園。」「ハリー・ポッターとアズカバンの囚人」のアルフォンソ・キュアロン監督が映画化。子供が生まれなくなった未来社会を舞台にしているが、SFではなく、作りとしては逃亡劇・脱出劇の趣である。

 テーマははっきりと反戦で、クライマックス、熾烈な市街戦の中で赤ん坊を見た敵味方の兵士たちが争いを中断するシーンにそれが色濃く、感動的に現れる。人類の絶滅が時間の問題と思われたところに出てくる赤ん坊だから、赤ん坊は単純に希望を、救世主の出現を明示しているのだ。人口抑制のために30年間、子供を産むことを禁じられた「赤ちゃんよ永遠に」(1971年)を思い起こさせる設定だが、この映画には当然のことながら、さらに絶望的な雰囲気が漂っている。子供がいないというのは未来がないということと同義であり、これが世界の国々の崩壊をもたらしたのだろう。好みから言えば、SF的な部分を補強し、スケールを感じさせるドラマにした方が映画は面白くなったのではないかと思うけれど、キュアロンの立ち位置が分かる力作である。原題のChildren of Men「人類の子供たち」が子供の重要さを表しているのに、なぜ「トゥモロー・ワールド」などという邦題になるのか理解に苦しむ。

 2027年、地球上で最年少の18歳の少年が死ぬ。人類には18年間子供が生まれず、世界の国々は暴動によって崩壊。不法移民を厳しく制限することでイギリスのみが政府としての機能を果たしていた。しかし、ここも爆弾テロが相次ぎ、全体主義社会を思わせるディストピアだ。主人公のエネルギー省官僚セオ(クライブ・オーウェン)はある日、反政府組織のフィッシュから拉致される。リーダーはかつての妻のジュリアン(ジュリアン・ムーア)。セオ自身、かつては活動家だったが、今は酒に溺れ、体制側の人間になりきっている。ジュリアンはセオに文化大臣のいとこから通行証を都合するよう依頼する。ジュリアンはキー(クレア=ホープ・アシティ)という少女を「ヒューマン・プロジェクト」という世界組織に送り届けようとしていた。通行証は最初の検問までセオの同行が必要で、セオはジュリアン、キーらと、行動をともにする。途中、暴徒から襲撃され、ジュリアンは撃たれて死んでしまう。

 主人公が連れ去られた赤ん坊と母親を探して市街戦の中を走り回るクライマックスの長いワンカットが話題だが、カメラに血糊が飛び散ったままの長回しは普通なら撮り直すところ。それともあれは臨場感を出すためだったのか。この市街戦のシーンは遠景の中で人が簡単に死んでいく。現在の中東情勢を思わせるものであり、キュアロンは未来に託して現在を照射しているのだ。エンドクレジットの最後にShanti Shanti Shanti(サンスクリット語で平和の意味)と出すのも子供のために反戦を訴える作品であることを明確にしている。

 有名女優の使い方としては非常に効果的だとは思うが、ひいきのジュリアン・ムーアがすぐに退場するのは残念。マイケル・ケインの使い方も同じようなもので、この映画のテーマ重視の姿勢が表れている。

2006/11/15(水)「岸辺のふたり」

 2001年のアカデミー短編アニメ賞を受賞した8分間の作品。監督はマイケル・デュドク・ドゥ・ヴィット。

 原題は「Father and Daughter」。父親と小さな娘が自転車で岸辺にやってくる。父親は娘をギュッと抱きしめた後、一人でボートに乗ってどこかへ行く。娘は毎日毎日、何年も何年も自転車で岸辺を訪れ、父親が帰ってくるのを待つ。やがて娘は成長し、結婚し、子どもが生まれ、年老いる。そして、ある日…。

 少女の人生を8分間に凝縮させたモノトーンの詩的な作品。セリフはない。「クレヨンしんちゃん

 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲」で「今日までそして明日から」をバックに描かれる自転車のシーンをなんとなく思い出した。

 この作品だけで感動するというよりも、ここからインスパイアされることで感動する作品なのではないかと思う。

2006/11/14(火)「デスノート The Last Name」

 「デスノート The Last Name」パンフレット先に見た子どもから結末部分をネタバレで聞かされてしまった。最後のトリックを知って見たのだから、僕の感想はそれ以外の部分しかあてにならないことをおことわりしておきます。

 主要登場人物は美男美女ばかり。ライトとLの頭脳戦を描きつつ、これは由緒正しくアイドル映画なのではないかと思う。男性は戸田恵梨香、片瀬那奈、上原さくら、満島ひかりに目を奪われ、女性は正統的な二枚目である藤原竜也と癖のある松山ケンイチに満足するのだろう。金子修介監督、ロマンポルノの時代から女優の趣味が良かった(というかカワイイ系に偏っていた。ガメラシリーズの中山忍もそうだ)が、当然のことながら女性客も意識してサービス精神旺盛だ。前作の瀬戸朝香、香椎由宇も見栄えが良かったけれど、今回もビジュアル面では抜かりがないのである。演技力云々よりも絵として映える女優を選んでいるとしか思えない。だから「デスノート」は前編も後編も結局のところ、気楽に楽しめるアイドル映画なのだろう。アイドル映画としてはストーリーも凝っていて良くできているので、恐らくアイドルを見るために再見する人もいるのではないか。という消極的な評価しか僕にはできない。そんな中、美男の範疇には入らない鹿賀丈史が原作とは違って重要な役回りになっているあたりが面白い。他の若い俳優たちはゲームの駒だが、鹿賀丈史はドラマを背負う役割。ここをもっと強調すると、映画はさらに面白くなっていたのではないかと思う。ドラマが軽く、切実な部分がないのはこうしたゲーム感覚映画の宿命か。

 前編は原作の4巻目あたりまでを映画化したものだが、後編はその後の12巻までをグシャッと縮めて結末を映画独自のトリックに変えてある。原作で最も感心したのは、というか、そこにしか感心しなかったのだが、第7巻の驚愕的な展開。大きなトリックがぴたりと決まって着地する快感があった。ここは重要な部分なのでちゃんと映画でも描かれているが、短いので、衝撃は原作に到底及ばない。最初からライトの策略の一部として描かれるため、原作のように物語をひっくり返す驚きがないのだ。もっとも原作を読んでいる観客には原作通りに描いたにしても、もはや衝撃でもなんでもない。原作を読んだ観客に対するサービスが結末部分の変更で、残念ながら、先に書いたような事情があるので、僕には全然面白くなかった。ただ、小さく感じた原作のトリックよりはよく考えてあると思う。裏の裏の裏をかくだけの原作のトリックを映画でやると、分かりにくく、見ていてバカバカしくなっていただろう。

 というわけで原作を全然知らず、白紙の状態で見た1作目の方が僕には面白かったが、それは当たり前のことなのだろう。それでも言えるのは、今回のラストのトリックはやはり映画独自だった前作のラストのトリックほどうまくできてはいないということ。前作のラストに感心したのはそれが単なるトリックではなく、夜神月という男が悪の主人公であることをはっきりと宣言する場面になっていたからだ。考えてみれば、あれも観客が思いこんでいる物語をひっくり返すトリックだった。今回はよく考えたトリック以上のものではないのである。トリックのためのトリックというレベルでは面白くない。ただ、金子修介の主要キャラを立たせる演出はそれなりに評価されていいと思う。死に神のCGや川井憲次の音楽も相変わらず良かった。

 この日記ではなく、mixiの方の日記を読み返してみたら、原作を9巻まで読み終えた7月1日の日記に僕はこう書いていた。「気になるのは映画の後編がどこまで描くかということ。とても12巻までは無理だろう。第3のキラを出さずに第1、第2のキラ対Lの対決で終わるのではないか。映画の後味を考えれば、キラもLも両方死ぬ結末を僕なら考える」。まあまあの線ではないか。

2006/11/12(日)「手紙」

 「手紙」パンフレット「そんなことしたらあかん、大事なものやんか! そんなことしたらあかん!」。沢尻エリカ扮する白石由美子が兄からの手紙を破り捨てた主人公の武島直樹(山田孝之)に言う。ここで2人の仲が急速に接近してそれで映画は終わりになるのかと思ったら、その後にさらに本当の決着がある。罪を犯した者とその家族、犠牲者の家族の関係。原作は未読だが、そこまで描くのは大したものだと思う。しかし、全体的には主人公が漫才師を夢みることにどうしても違和感があった。山田孝之は本質的に暗いイメージなので、似合っていないのである。非常にうまく演じているのだが、似合っていず、中学の頃から笑いを目指していたとは思えない。とんとん拍子に人気者になることにはもっと違和感があるし、大企業の専務令嬢(吹石一恵)との愛と破局などは破局の場面に一工夫あるとはいえ、吹石一恵が登場した時から先が読める展開。会社の先輩である田中要次の過去と大検を目指す現在の姿などは泣かせるし、杉浦直樹の差別社会の本質を突いたセリフも泣かせる。そうした美点とあまりにもありふれた描写が混在していて、そこが評価をためらわせる。もっともっと脚本を練ることが必要だったのではないかと思う。

 原作が家にあったので、冒頭部分を少し読むと、原作では一人暮らしの老婦人の殺し方に明確な殺意がある。持っていたドライバーを首に刺すのである。映画はもみ合っているうちに老婦人が抵抗するために手にしたハサミが腹に刺さって死んでしまう(これは腹ではなく、首か心臓の方が良かったと思う)。盗み目的で侵入した上での殺人だから強盗殺人罪も仕方ないが、どちらかと言えば、過失致死の線が濃厚である。映画の改変は殺人者の兄に同情を持たせるためだろう。兄が強盗に入ったのは運送会社での激務で腰を痛め、仕事ができなくなったことで弟を大学に行かせられない恐れがあったため。そうした不遇な状況の中で、殺人者の家族に冷たい世間を描いていく。

 「俺みたいなヤツに言われたかねえだろうけどよ、夢があるなら、簡単に諦めんなよ」。リサイクル工場の先輩である倉田(田中要次)が言う。倉田は食堂で働く由美子が直樹にクリスマスプレゼントを贈ったことで、「最近の若いやつはやることは早いんだから」などと嫌がらせをするのだが、実は倉田自身、服役経験があり、直樹の兄の手紙を見てすべてを理解する。そして家族が誇れる父親になりたいと、大検を目指していることを告白するのだ。こういう地道な話で終わっても良かったのではないかと思う。直樹は「夢をあきらめるな」というアドバイスに従って工場をやめ、お笑いの道を友人の寺尾祐輔(尾上寛之)とともに目指すことになる。そこからの描写が安っぽい上にリアリティに欠け、映画はしばらく停滞してしまう。それが復調するのはお笑いをやめ、秋葉原の電気店で働く直樹が埼玉の倉庫へ左遷させられる場面から。倉庫を訪れた会社の会長(杉浦直樹)は「差別があるのは当然だ」と話す。「しかし、君は差別のない場所を探すんじゃない。ここで生きていくんだ」と言う杉浦直樹の言葉は力強く、直樹に言葉をかけた理由が由美子からの手紙だったことが胸を打つ。由美子自身、父親が多額の借金を背負って逃げ回った過去があるが、「私はもう逃げへん」と決意しているのである。その由美子の決意はたった一人の肉親を大事にするべきだという前記のセリフに表れている。

 こうした細部のエピソードは非常にうまい部分もあるのに、ぎくしゃくした感じが映画にはつきまとい、そこがとても残念だ。生野慈朗監督はテレビのベテランディレクターで、映画としては「いこかもどろか」(1988年)「どっちもどっち」(1990年)の2本が既にある(「いこかもどろか」は公開当時、映画評論家の山田宏一が絶賛していたが、見ていない)。描写がテレビドラマ的というのは短絡だけれど、お笑いの場面はテレビドラマを超えるものではなかったと思う。ついでに言えば、沢尻エリカが途中で眼鏡を外すのもよく分からない。最後まで眼鏡の方が良かった。「電車男」でも思ったが、山田孝之は男から見ても好感度がある。玉山鉄二は「逆境ナイン」とは全然違う役柄をうまく演じていて、これまた好感が持てる。

2006/10/30(月)「父親たちの星条旗」

 「父親たちの星条旗」パンフレット一枚の完璧な構図の写真を巡る物語。硫黄島の摺鉢山に星条旗を立てた6人の兵士のうち、生き残った3人が英雄としてもてはやされ、戦時国債を売るための広告塔の役目を強要される。しかし、3人が立てた星条旗は2番目のものであり、6人の中には実際には加わっていない兵士もいた。いわば3人は虚飾のヒーローだったわけである。無名の兵士がばたばたと死んでいく硫黄島の凄惨な激戦と3人の揺れる心情が時間軸を前後して交互に描かれ、「戦争に英雄などいない」「国家は人間を簡単に使い捨てる」というテーマを浮き彫りにしていく。戦場シーンはスケールも悲惨さも際だっており、色彩を落とした映像が効果を上げている。虚飾に耐えきれず、酒に溺れるようになったアメリカ先住民の兵士など「昨日のヒーロー」となった3人のその後も深い余韻を与える。もちろんクリント・イーストウッド監督作品だから水準以上の出来なのだが、個人的にはもう少し上層部への明確な批判があっても良かったような気がする。

 国家が人間を使い捨てるのなら、このテーマの行き着く先は国家そのものの批判だろう。それが鋭くならないのはハリウッド・メジャー作品の限界か。日本やドイツのような敗戦国は終戦時にいったん国家体制がリセットされたために、戦争中の軍国主義やナチズムの批判が当たり前で、戦争映画にはその視点がたいてい出てくる。アメリカの戦争映画に非人間的な軍隊への批判はあっても国家そのものの批判が少ないのはアメリカは第2次大戦後もずっと戦争を続けているからではないかと思う。第2次大戦時も今も基本的には変わらないのである。当時の体制を批判することは今の体制批判にもつながる。この映画を見ている時に感じたもやもや感は批判の矛先があいまいな部分から生じているように思う。

 死んでいく兵士たちは自分たちを戦場に送った国への恨み言も口にしないし、国を論評することもない。それどころか、日本兵を罵ることもない(これは興行上の戦略だろう)。彼らはただただ何も言わずに銃撃され、爆撃で体を無惨に吹き飛ばされて唐突に死んでいく。彼らはいったい何を思って死んでいったのか。そこを映画はすくい上げるべきではなかったか。

 例えば、笠原和夫脚本の「大日本帝国」にはこんなセリフがある。この映画は以前も書いたが、「二百三高地」のヒットに気をよくしたプロデューサーが太平洋戦争の勝ったところばかりピックアップしてつなぐという企画を出したのに対して、笠原和夫は逆にシンガポール、サイパン、フィリピンと激戦地ばかりをつないで脚本を書いたものである。映画の中で終戦後に東南アジアで軍事裁判にかけられた西郷輝彦の腹の底から振り絞るような口調のセリフ。

 「大元帥陛下が我々を見殺しにするはずはなかでしょ。我々は天皇陛下の御楯になれと言われてきたとです。そう命じられた方がアメリカと手を結んで我々を見捨てるなんちゅう事は絶対にありません。日本政府はポツダム宣言を受諾したとしても、天皇陛下はたとえお一人になられたとしても、必ずわたしらを助けにきてくださるはずです。こげな、いかさまみたいな裁判で死刑にされて浮かばれますか」。

 不当に死んでいく者の恨みつらみというのはこういうセリフのことを言う。「父親たちの星条旗」の主人公で衛生兵のジョン・ブラッドリーは戦後、家族に硫黄島のことを何も言わないまま死んでいったという。その無言の姿勢を戦争批判につなげたい意図は分かるのだが、時として具体的なセリフがあった方が映画は効果を上げる。脚本のポール・ハギスは映画の冒頭でブラッドリーに「戦争を知っているというバカ者。戦場の事実を何も知らない」と言わせているけれど、この映画に必要なのはそうした一般論ではない。この映画には死んでいく兵士たちの肉声が欠落しており、それが高い技術に感心させられながらも絶賛できない要因になっている。

 日本側視点で描く「硫黄島からの手紙」には兵士の思いを入れやすいはずだ。捲土重来を期待したい。