2006/05/13(土)「陽気なギャングが地球を回す」

 「陽気なギャングが地球を回す」パンフレット伊坂幸太郎の原作を読んだ時に、映画に向いた題材だなと思った(2004年6月19日の日記に書いている)。話の軽さとキャラクターの面白さが際だっていたからだ。ただ、面白く読めた作品ではあるが、それほど感心する部分はなかった。僕は原作の熱心なファンではない。だから、原作と映画がどう違おうが、気にしない。

 前田哲監督は予算不足が目についた前作「棒たおし!」(2003年)よりは潤沢な予算で軽い映画に仕上げている。オープニングのカット割りや観覧車への驚異的なズームアップなどはなかなかよくできていて、これは面白い作品なのではと思わせるが、その後は軽いなりにやや1本調子になった感がある。1時間32分という上映時間は軽い映画にはぴったりなのだが、それでもこのテンポでは長く感じた。CGを使ったカーチェイスや場面転換の漫画的な感じなど画面としては成功しているのに緩急自在の演出になっていないのは残念。ストーリーもあっさりした感じ。こうしたコンゲーム的なストーリーでは観客をすっかりだますような仕掛けが欲しくなってくるのである。

 それぞれに特殊な能力を持つ4人の男女が銀行強盗の現場で出会う。成瀬(大沢たかお)は人の嘘を見抜き、響野(佐藤浩市)は演説、雪子(鈴木京香)は正確な体内時計、久遠(松田翔太)は天才的なスリの能力を持っていた。4人は3カ月後、自分たちで銀行強盗を計画する。まんまと4000万円をせしめるが、逃げる途中、覆面のグループから盗んだ金を横取りされる。4人の中に裏切り者がいたらしい。と、ミステリなのでこれ以上のストーリーは書けないが、4人は横取りグループを捕まえるためにもう一度、銀行強盗を計画することになる。

 ストーリーは軽くてもキャラクターはそれなりに描き込む必要があるだろう。この映画に不足しているのはそうしたキャラクターの深みで、軽いタッチだからこそ、そういう部分が必要と思う。画面の方に力を入れすぎて、それが疎かになったのかもしれない。人工的な画面の作りもそれに拍車を掛けた感じがある。軽いだけでは満足できないものなのである。「棒たおし!」でも感じたことだけれど、どうも、前田哲監督には意欲を映画化していく段階での技術がやや不足しているように見受けられる。「楽しい映画を作ろう」という意気込みは分かるが、十分な成果につながっていないのだ。見かけだけに終わっている、というのは言い過ぎか。

 出演者はそれぞれに良く、大沢たかおも佐藤浩市も鈴木京香も軽く軽く演じている。佐藤浩市は演技の懐の深い役者だなと思わせるし、鈴木京香の色っぽさも相変わらず良かった。松田翔太は伊坂幸太郎に顔の輪郭が似ていて面白い。

2006/05/07(日)「Limit of Love 海猿」

 「Limit of Love 海猿」チラシ握り合う手と手がモチーフか。冒頭、墜落した飛行機の乗客を救出する場面で、主人公の仙崎(伊藤英明)は一人の手を放してしまう。それが仙崎に心の傷を負わせて、環菜(加藤あい)との結婚も延期してしまうのだが、映画はここを驚くほど簡単に描いている。手を放さなければならなかった理由とか、状況を克明に描く必要があったと思う。例えば、レニー・ハーリン「クリフハンガー」では冒頭にあるシルベスター・スタローンが友人を山で亡くすシーンが主人公のその後の再生に説得力を持たせていたように、こういう描写は冒険小説的な映画では常套的なものなのである。ある事件を通じて主人公がそれを克服していくのが普通なのだ。死地から生還する主人公。監督の羽住英一郎にはそういう視点はなかったようだ。いや、あったのかもしれないが、描写が不足している。

 あるいは仙崎たちがフェリーから脱出するために30メートルを潜水で移動するシーンを描かなかったり、脱出の前に環菜に長々とプロポーズしたり、フェリーが沈没するまでの時間の経過が感じられなかったりするところなどが、映画が傑作にならなかった要因のように思う。全体的に面白い映画と思ったものの、話がプロット以上のものではなく、密度が薄く感じる。沈没するフェリーのVFXなどビジュアル的には文句のない映画になっているのに惜しいと思う。

 鹿児島沖3キロで乗客620人、車両195台を乗せたフェリーが砂利運搬船と衝突、座礁する。フェリーには亀裂が生じ、浸水する。乗客を避難させる時間は4時間。仙崎たち海上保安官は必死で乗客を避難誘導する。避難の途中で船の売店で働く妊婦の本間恵(大塚寧々)が傷を負い、仙崎は手当てをする。恵の案内で脱出しようとした仙崎は車庫で豪華な車に乗っている海老原真一(吹越満)を見つける。海老原を連れて脱出しようとしたところで爆発が起き、バディの吉岡(佐藤隆太)とともに仙崎ら4人は船に閉じこめられてしまう。下の階は浸水、上の階は火災の絶体絶命的な状況。海上保安庁の下川(時任三郎)は30メートル潜水して脱出するよう指示を出す。仙崎たちはそれに成功するが、無線は故障し、船の爆発が相次いだことから、下川は他の海上保安官たちに船からの撤収を命じる。

 「海猿」は1作目をDVDで見た後、テレビドラマも何回か見た。特に思い入れはないけれども、嫌いな話ではない。映画は人間関係を承知のこととしてあまり深く描いていないが、それがキャラクターの深みを減じることにもなっている。この映画を独立して見る観客のためには仙崎のキャラクターをもっと描き込む必要があったように思う。冒頭の飛行機事故の場面の描写の薄さは環菜との結婚を延期する仙崎の心情を分かりにくいものにしている。閉じこめられたのがたったの4人というのは近々リメイクが公開される「ポセイドン・アドベンチャー」などに比べてハンディがあるように思えるが、そこは羽住英一郎、恵と海老原のキャラクターを徐々に描くことで補っている。このあたりはうまいと思うのだけれど、細部にはやはり不十分な描写があることは否めない。乗客の避難完了までに4時間という設定は映画を見る前にはいくらなんでものんびりしていてダメなのではないかと思ったが、画面を見る限りでは違和感はない。ただし、時間の経過が感じられないのは先に述べた通り。東京にいる下川がすぐに鹿児島に駆けつけたりするのも唐突に感じる。東京から鹿児島までどんなに急いでも1時間半、空港から現場までさらに1時間近くはかかるだろう(ヘリを使えば速いか)。

 この映画、全国的に大ヒットしているようだ。大衆性は十分にあり、韓国映画「タイフーン」あたりと比べても画面の迫力は負けていない。それだけに緻密さに欠ける部分があることが惜しまれる。

2006/04/30(日)「小さき勇者たち ガメラ」

 「小さき勇者たち ガメラ」パンフレット逃げまどう群衆に逆らって、子供たちがガメラに渡すための赤い石をリレーしていく。赤い石はガメラの卵の下にあったもので、怪獣ジーダスとの戦いで傷ついたガメラを回復させるために必要だった。ここで赤い石をもらったガメラの劇的な変化の描写が欲しいところなのだが、映画はそれは描かない。このクライマックスが映画の本質を浮かび上がらせている。あくまでも子供が主人公である子供向けの映画であることと、怪獣映画としては描写や設定が不足していることだ。

 伊藤和典脚本、金子修介監督の平成ガメラ3部作は怪獣映画のリアリティを追求することで、怪獣映画の頂点に立った。「“怪獣映画を超えた怪獣映画”という紋切り型の表現がこれほど似合う映画はなく、方法論でこれを上回ることは難しいだろう」と僕は「ガメラ3 邪神覚醒」を見たときに書いているが、「小さき勇者たち ガメラ」の田崎竜太監督はそれを承知しているためか、まったく違うアプローチでガメラを映画化した。ジュブナイルとしては極めて順当な出来だと思う。

 映画は冒頭に多数のギャオスとの死闘の末に自爆する1973年のガメラを描く。それを一人の少年が見つめている。そして現在、少年は成長し、伊勢志摩地方の海辺の町で定食屋を営んでいた。妻は交通事故で死に、一人息子の透との二人暮らし。前半は主人公透(富岡涼)と父親(津田寛司)の生活や隣に住む心臓病の少女・麻衣(夏帆)との交流などがきめ細かく描かれる。母親を亡くして初めての夏休みに透は沖合の島で赤い点滅を見つける。行ってみると、そこには小さな卵があり、透の手のひらで割れて、亀が生まれる。透はこの亀をトトと名付けて育てるが(トトは透の愛称であり、透は母親からそう呼ばれていた)、亀には空中を飛ぶ能力があり、急速に成長していく。そのころ、海では次々に船が消息を絶つ事件が起きていた。それは怪獣ジーダスの仕業だった。透の住む町に上陸したジーダスは人間をむさぼり食う。透たちが襲われそうになったところへ、8メートルに成長した亀が来て、ジーダスを撃退する。亀は33年前に自爆したガメラなのか。政府の巨大生物審議会はジーダスとの戦いで負傷したガメラを回復させ、成長を早めようとする。やがてジーダスは名古屋に上陸する。ここから赤い石をガメラに渡そうとする透たちの姿が描かれることになる。

 前半には文句の付けようがない。怪獣映画も初めてなら映画自体も初めてという龍居由佳里(テレビの「砂の器」「星の金貨」などの脚本家)の脚本は子供を中心にした作劇に徹して揺るぎがない。音楽の上野洋子と合わせて映画には女性的な感じが漂っている。怪獣映画としての不満はジーダスの説明がなにもないところやガメラが人間の味方であると単純化されていること、子供向けの映画であるため、ジーダスの凶暴性が直接的には描かれないことなどだ。パンフレットには、ジーダスはギャオスの肉片を食べた爬虫類が巨大化したものと書いてあるが、映画ではそういう説明はない。恐らく伊藤和典脚本ならば、そういう怪獣の説明は必須ものとして詳細に描いたことだろう。

 怪獣造型は原口智生。ジーダスは悪くはないが、ミニラを思わせるようなガメラの顔つきはいくら子供のガメラとはいっても少し違和感があった。VFXの金子功は樋口真嗣の域には達してはいないが、過不足ない出来。監督の田崎竜太は劇場版の仮面ライダーを3作手がけた(「仮面ライダーアギト PROJECT G4」「仮面ライダー555 パラダイス・ロスト」「仮面ライダー龍騎 EPISODE FINAL」)。そのどれもに感じた細部の大ざっぱさが今回はなかった。龍居由佳里の脚本がしっかりしていたからだろう。

2006/04/23(日)「名探偵コナン 探偵たちの鎮魂歌」

 「名探偵コナン 探偵たちの鎮魂歌」パンフレットコナンのテレビはほとんど見ていないし、映画も第6作「ベイカー街の亡霊」以来4年ぶり。その第6作を見た時にもう見なくていいやと思ったのだが、次女が連れて行けというので泣く泣く連れて行った。やはりというか何というか、「何だこれは」レベルの作品だった。罵詈雑言しか出てこないので感想書くのはやめようかと思ったほど。とりあえず記録のために書く。

 シリーズもこれだけ長くなると、ミステリとして見ている人は少なく、キャラ萌えのファンが多いのではないかと思う。そういう部分に関して僕は何も言うことはない。キャラが好きなら見ればよろしい。ただし、これがミステリとしては最低レベルにあることは認識しておいた方がいいと思う。コナンは設定自体がふるーいミステリの枠組みのパロディみたいなものなので、こうした名探偵が謎を解くという古い設定を引きずっているのだろう。今回の脚本は柏原寛司。「あぶない刑事」などアクション映画の脚本を書いている人だが、謎の提示も解決の仕方もセリフに頼ってまるでビジュアルなものがない。つまらない2時間ドラマのレベル。映画10周年記念作品と銘打つほどのものではなく、面白さで言えば、「クレヨンしんちゃん」に負けている。「クレしん」がテレビとはまったく違ったアプローチで映画を作っているのに対して、コナンは映画としての売りの部分がなく、30分のテレビを引き延ばしただけのように感じる。

 コナンや毛利小五郎、蘭たちが依頼人の指示で総合テーマパーク、ミラクルランドのホテルにやってくる。依頼人の秘書は全員の手首にミラクルランドのフリーパスIDを付けさせる。コナンと小五郎を残して全員、ミラクルランドに遊びに行く。姿を見せない依頼人は午後10時までに事件を解決して欲しいというが、その事件もキーワードだけが与えられただけ。事件を解決しないと、IDに仕掛けられた爆薬が爆発する。コナンと小五郎以外のIDにはミラクルランドの外に出ても爆発する仕掛けがあった。与えられた時間は12時間。2人は必死に事件を捜査することになる。

 この設定はよくあるものとはいえ、悪くはないのだが、ここからの展開がどうでも良いような古くて幼稚なトリックだらけでまったく盛り上がらない。真相が分かった時の驚きなど微塵もなく、ミステリの醍醐味は皆無。元々、映画は原作者の青山剛昌のアイデアに肉付けしていくような形で話を作っているらしい。この段階で、もっとしっかりしたミステリの分かる脚本家に書かせた方がいいのではないかと思う(と思ったが、第6作は今は亡き野沢尚が脚本を書いたのだった。それでもあの程度の出来にしかならないということは何か根本的な問題があるのかもしれない)。キャラ萌えもっこうだが、ミステリの枠組みがある以上ミステリの部分を面白くしないと、ファンはいずれ離れていくだろう。2chのスレッドを見ると、今回の映画はファンも酷評しているのだ(コナンのラブコメ的な部分を好きなファンも多いらしい。今回はそれがない)。どうせ、1年後にはテレビで放映するのだろうし、個人的にはもう映画館で見ることはないだろう(テレビでも見ないけど)。

 ちなみに次女(小3)はけっこう楽しんでいた様子。一緒に行った長男(小5)は途中で飽きた様子だった。

2006/04/22(土)「ニュー・ワールド」

 「ニュー・ワールド」パンフレットテレンス・マリック監督7年ぶりの作品。前作の「シン・レッド・ライン」はビデオで見たので、マリック作品を劇場で見るのは「天国の日々」以来20数年ぶり。アメリカ先住民の少女ポカホンタスとイギリス人入植者ジョン・スミスの愛がいつものように美しい映像で綴られる。映像の美しさなど普段の僕ならあまり気にもとめないところ(映画はスジだと思うのだ)だが、マリック作品の映像は重要なファクターになっている。モノローグと少ないセリフ。それを補うのが雄弁な映像なのである。前半、異文化同士がおずおずと接触し、ファーストコンタクトがワーストコンタクトに発展していく様子はとても面白く、一般的な侵略戦争と共通するものがあるように思う。自然とともに生きる先住民の生活の素晴らしさに対して入植者たちは飢えに苦しむ。マリックの狙いはそんなところを描くことにあったのではないか。だから、後半、ポカホンタスが中心になり、舞台がイギリスに移ると、映画の輝きに陰りが見えてくる。新大陸だけで完結した方が良かった話なのだと思う。

 1607年、北アメリカのヴァージニアに3隻の船でイギリス人入植者たちがやってくる。それを遠巻きに先住民たちが見つめる。反乱罪で監禁されていたジョン・スミス(コリン・ファレル)は処刑されそうになるが、ニューポート船長(クリストファー・プラマー)は罪を許し、先住民との交渉役に任命する。川の上流には強大な王ポウハタン(オーガスト・シェレンバーグ)が治めるコミュニティがあるらしい。先住民の一人に案内させて川をさかのぼったスミスはそこで捕らえられる。ポウハタンが処刑を命じた時、末娘のポカホンタス(クオリアンカ・キルヒャー)が命乞いをする。スミスは先住民たちと暮らすことになり、ポカホンタスと愛が芽生える。夢のような生活。しかし王は娘がよそ者と愛し合うのを快く思わず、スミスは入植地に帰される。そこには砦が築かれていたが、食糧は乏しく、中は惨憺たるありさまだった。やがて入植者と先住民の間で争いが起こる。

 という前半が素晴らしく良い。入植者たちが飢えに苦しむ描写は「北の零年」前半の北海道開拓者たちの苦闘を思わせる。あの映画でアイヌと開拓者の間に戦争はなかったが、入植者は侵略者であり、土地を守ろうとする先住民との間で争いが起きるのは必然だっただろう。自然とともに生きる先住民の様子は川の流れ、風の揺らぎ、柔らかな光を十分に捉えて撮影され、映画の魅力になっている。撮影は実際のヴァージニアにあるチカホミニー川上流で行われた。ここの風景を撮影監督のエマニュエル・ルベツキ(アカデミー撮影賞ノミネート)が余すところなく伝えている。だからポカホンタスが入植地に人質にされ、先住民の衣服から洋服に着替え、レベッカという洗礼名を与えられるに従って映画は失速してくる。マリックの映画には自然が欠かせないようだ。

 ポカホンタスはイギリス国王に謁見した記録が残っている実在の人物だが、アメリカでの物語は伝説であり、映画で描かれたこともフィクションが多いのだろう。16歳のクオリアンカ・キルヒャーの素朴な風貌が映画の内容に実に合っていたと思う。