2005/07/25(月)「アイランド」
一匹の虫(バグ)が完璧と思えた管理社会のシステム崩壊のきっかけになる。システム自体にもバグ(欠陥)が潜んでいて、主人公は自分が住む社会に疑問を持つようになるのだ。システムの本質を知り、好意を持った女が危険にさらされたために、主人公はこの社会からの脱出を図る。
予告編でも感じたことだが、前半に描かれるこの設定はジョージ・ルーカス「THX 1138」やマイケル・アンダーソン「2300年未来への旅」(Logan's Run)を思わせる。これをじっくり描けば、マイケル・ベイ監督には珍しく本格的なSF映画になるのではと思ったが、やはりというか何というか、後半は得意のアクション映画になってしまう。いや、それでも描かれるアクションの数々は大したもので、見て損はしない映画にはなっている。ベイ作品としては「ザ・ロック」(1996年)以来の面白い映画と思う。ただし、アクションだけで進む話というのは見ていて面白みに欠けてくるのだ。後半にもう一つ大きなストーリー上の転換が欲しかったところ。そうすれば、胸を張って傑作と呼べる映画になっていただろう。そこがそうならないのが雰囲気は大作、実際はB級でしかない映画ばかり撮っているマイケル・ベイの限界なのだと思う。
2019年、人々は大気汚染から隔絶された都市に住んでいる。ここは科学者で管理者のメリック(ショーン・ビーン)以下、多数の人間たちによって完璧に管理された社会なのだ。みな同じ白い洋服。行き届いた健康管理。チューブに液体を入れるだけの単純な仕事。退屈な毎日で、人々は地上最後の楽園アイランドへの抽選に当たることだけを夢見て暮らしている。主人公のリンカーン・6・エコー(ユアン・マクレガー)はここで暮らし始めて3年。アイランドへ行く途中に溺れる悪夢をたびたび見る。この都市の管理側で働くマック(スティーブ・ブシェミ)と親しいリンカーンは時折、都市の裏側を見て、次第にこの都市への疑問を感じるようになる。ある日、リンカーンは排気口から入ってきた虫を見つける。外の世界は汚染されているはずなのに、なぜ虫が生きているのか。そして、リンカーンはアイランドの抽選に当たった黒人(マイケル・クラーク・ダンカン)と妊婦の過酷な運命を見てしまう。この都市には驚愕の秘密があった。好意を持っているジョーダン・2・デルタ(スカーレット・ヨハンソン)が抽選に当たり、リンカーンはジョーダンを助けるために一緒にこの都市を脱出しようとする。
予告編でもパンフレットでもネタを割っている。映画の3分の1あたりで明かされる秘密だが、それでも知らない方が映画を楽しめるだろう。ここを割ってしまう宣伝というのはどうかと思う。もっともマイケル・ベイの演出がさえ渡るのは後半のアクションの方なのも事実。逃げた2人をローラン(ジャイモン・フンスー)率いる組織が執拗に追いつめていく。高速道路でのカーチェイスは凄まじく、「マトリックス リローデッド」並みの迫力。空飛ぶバイクに乗った2人がビルに突っ込み、窓を割って巨大看板とともに落下するシーンまで一気に見せる。そこからもアクションに次ぐアクションの展開となるが、肝心の話の方がやや類型的になり、ストーリー上の緊張感は薄れてきてしまう。無駄に長すぎると思えてくるのだ。ストーリーにも穴は多く、企業ぐるみで違法なことをやっていて、それが外部に漏れないのはおかしいと思う。笑ったのは街頭にあるインフォ・ブースがMSNサーチだったこと。2019年の近未来ならいかにもありそうな設定ではある。半面、未来社会の造型ではそこまで進歩しないだろうと思えるものもある。時代設定を2100年ぐらいにしておけば良かったのではないか。
マクレガー、ヨハンソンともアクション映画を無難にこなしているが、目立つのはショーン・ビーン、スティーブ・ブシェミ、ジャイモン・フンスーの3人の好演。特にフンスーは役柄も含めて印象が強かった。
2005/07/20(水)「姑獲鳥の夏」
やはり榎木津には関口を猿と呼んで欲しいところだ。いや、シリーズ第1作のこの原作を読んだのはもう10年ほど前だから、この中で猿と呼んでいたかどうかはもはや覚えていないのだが、榎木津が関口をいたぶるシーンは入れて欲しかった。映画の榎木津礼二郎はおとなしすぎる(品も良すぎる)。原作ではもっと躁状態の印象が強いのだ。原作のある映画には付きもののこうした不満があることは十分に予想できたから、映画は別物と思って見たが、それでも映画として良い出来とは言えないと思う。劇場用映画は8年ぶりの実相寺昭雄監督は構図を斜めにしたシーンを多用して、不安感を煽る演出を見せているけれども、肝心の憑物落としの場面が長く感じる。憑物落としはいわゆる探偵が真相を話す場面にあたるのだが、この映画、伏線の張り方が不十分なので事件にかかわる重要な人物が唐突に出てくる印象となる。時代設定は昭和27年なのにその風俗があまり描かれないのも残念。木場刑事役の宮迫博之を除けば、キャスティング的には悪くないのだから、ぜひシリーズ第2作「魍魎の匣」(シリーズ唯一のSF)で捲土重来を果たしてほしいと思う。
昭和27年、夏、東京。雑司ヶ谷の産婦人科医院・久遠寺医院の娘・梗子(原田知世)の不思議な噂が広まる。梗子は身ごもって20カ月になるのに一向に出産の気配がないというのだ。しかも梗子の夫は1年半前から行方不明になっている。雑誌記者の中禅寺敦子(田中麗奈)は作家の関口巽(永瀬正敏)に取材協力を頼む。古本屋の京極堂を営む敦子の兄秋彦(堤真一)は関口の親友で、事件を探偵・榎木津礼二郎(阿部寛)に相談するよう勧める。梗子の姉涼子(原田知世二役)が榎木津の事務所を訪れた時、ちょうど居合わせた関口は涼子の美しさに心を奪われ、助けたいと願う。その頃、榎木津の幼なじみの刑事・木場修太郎(宮迫博之)も事件に関わっていた。久遠寺医院の元看護婦が不審な死に方をしていたのだ。そして病院には赤ん坊をさらうという噂も広まっていた。
原作の京極堂シリーズの語り手は関口だが、映画では一歩引いた形になっており、語り方は三人称単数である。関口の過去とも関わりのあるこの事件はシリーズの別の話でも言及されているほどだが、映像化されると、因縁話の側面が強調された感じを受ける。原作にある衒学的な部分を取り払うと、こういう感じになってしまうのだろう。単にストーリーを追うだけでなく、ここは衒学的な魅力の一端でも映像化の工夫が欲しいところ。冒頭にある京極堂の長々としたセリフだけでは物足りないし、映像的にも面白くない。
堤真一の京極堂は口跡が良くて、悪くない。ただし、クライマックスには黒装束を決めてほしかった。映画で着る衣装は紫色がかっていて、憑物落としの場面にふさわしくない。関口巽役の永瀬正敏は気弱そうな部分のみ共通点がある。一番違和感があったのは木場刑事役の宮迫博之で、原作のイメージではもっと中年のいかつい感じのタイプだと思う。この映画にも出ていた寺島進なら良かったか。宮迫博之はイメージに合うとか合わないとかいう以前に演技に問題がある。京極堂シリーズは巻を重ねるごとにキャラクター小説の様相も帯びてきたから、こうしたキャスティングは大事だと思う。
2005/07/17(日)「逆境ナイン」
公式戦で勝ったことがない弱小野球部が廃部を免れるために甲子園出場を目指す熱血コメディ。島本和彦原作のコミックを「海猿」の羽住英一郎が監督した。落ちこぼれ集団が奮起するという「少林サッカー」パターンの映画で、逆境に次ぐ逆境をはねのけていく主人公・不屈闘志の姿がおかしい。惜しいのは「少林サッカー」ほど笑いが弾けていかないこと。笑いのパターンがやや画一化していて、一発ギャグみたいな笑いが多いのだ。「自業自得」や「それはそれ これはこれ」などの巨大石板(モノリス)が登場する不条理なシーンのおかしさは最初はいいのだが、こうしたギャグのパターンはだんだん新鮮さがなくなる。VFXの方も今ひとつな出来である。ただ、主演の玉山鉄二(「天国の本屋 恋火」」)の熱血・勘違いキャラクターには大いに好感度があり、映画を憎めないものにしている。クライマックス、9回裏112対0からの逆転劇などにもう少しアイデアを詰め込み、ドラマティックな展開を入れ、主人公以外のキャラクターも描き込んでくれれば、もっと面白くなったと思う。
全力学園の野球部キャプテン不屈闘志(玉山鉄二)は校長(藤岡弘、)から突然、廃部を言い渡される。全国レベルの力を持つサッカー部と違って野球部は連戦連敗。「全力でないものは死すべし!」という考えの校長はグラウンドをサッカー部に明け渡すよう命じる。不屈は春のセンバツ優勝校日の出商業に練習試合で勝つことを条件に廃部を免れるが、ナインには次々に逆境が訪れる。赤点を取って試合当日に追試があったり、チワワに噛まれて出場不能になったり、試合の日にバイトが入ったり。不屈自身も利き腕の右腕を骨折してしまう。幸いなことに試合当日が雨だったため、日の出商業は試合を中止して、全力学園の不戦勝となるが、校長はこれを認めない。不屈は甲子園出場を校長に約束。監督にセパタクロー以外知らない榊原剛(田中直樹)が就任し、甲子園への県予選を戦うことになる。
こういう話は大好きなのだが、羽住英一郎、まだまだ甘いなと思う。こういうリアリティゼロの話にどう説得力を持たせるかが問題なのである。決勝戦にコールドゲームはないので112対0というシチュエーションも可能性ゼロではないが、そこからの逆転劇の在り方はありえない。この映画での人を食った展開には唖然とするが、ありえないシチュエーションなので主人公の頑張りが感動に高まっていかないのがもどかしい。原作がこの通りであるかどうかはそれはそれとして、映画ならではの逆転劇を考えても良かったのではないか。
対戦校の名前が中々学園とか手抜学園とか聞くだけでおかしくなるけれど、その他の展開も含めてバカバカしさだけで1時間55分持たせるのはつらいものがある。バカバカしいギャグを入れつつ物語の骨格を一応まともなものにしていくと、こういう映画は最強になると思う。バカバカしさを愛してはいても、それだけでは映画としては物足りないものなのである。藤岡弘、の素のキャラクターのままの校長先生は悪くないが、この校長にももっとドラマの見せ所が欲しいところ。田中直樹の使い方とか、ナインの一員を演じる坂本真の使い方にしても「フライ,ダディ,フライ」と比べてみれば、おかしさがもっと弾けていいのではないかと思える。演出の善し悪しというのはそういう部分に出てくるものなのだろう。マネジャー役の堀北真希はかわいかった。
2005/07/13(水)「フライ,ダディ,フライ」
さえない男がある事件をきっかけに闘争本能に火を付けるというのは冒険小説(ロバート・B・パーカー「銃撃の森」など)でたびたび描かれてきた設定である。この映画もそれを踏襲しているけれど、うまいのはあくまでも日常の範囲内で描いていることだ。普通のサラリーマンが家族を痛めつけた相手に血で血を洗うような復讐をする話にはせず、相手とは大勢が見守る中での対決になる。そして相手を倒すことよりもそれに至る訓練の場面がメインになっているところがいい。満員電車に揺られてマンネリ気味の会社勤めをしている男が、けんかの強い高校生の指導を受けて体を鍛えるうちに変わっていく。この変化を再生というのは大げさだが、出世を棒に振って長い休みを取り、ひたすら訓練に打ち込んだことが男のその後の人生に影響を及ぼさないわけはない。そして変化は周囲にも及ぶ。壊れかけた娘との関係を取り戻し、同じバスで帰るさえない中年男たちも主人公の懸命な姿を見て応援していく。もちろん、観客も主人公に共感を持つことになる。原作・脚本の金城一紀はよくある設定を借りて、独自のアイデアを盛り込み、細部のリアリティとキャラクターを大事にした話を作った。アップを多用した成島出監督の映画的な演出と堤真一、岡田准一の好演が加わって、映画はきっちりとまとまった情感豊かな佳作になった。大きな話にしなかったことが成功につながったのだと思う。見終わった後、思い切り体を動かしたい気分にさせる映画である。
主人公の鈴木一(堤真一)はひとり娘の遙(星井七瀬)が病院に運ばれたと聞いて病院に駆けつける。遙はカラオケボックスでインターハイのボクシングチャンピオン石原(須藤元気)にボコボコに殴られたのだ。石原の父親は将来の総理になると見られている衆院議員。石原の通う高校の教頭(塩見三省)はことを穏便に済ませようと、金を渡す。少しも反省していない石原の態度に怒った鈴木は石原に詰め寄るが、そばにいた教師に倒される。娘を傷つけられた上に自尊心まで傷つけられた鈴木は翌日、包丁を持って石原の通う高校へ乗り込む。ところが、そこは石原の高校から200メートル離れた別の高校で、落ちこぼれ集団のゾンビーズの一員、朴舜臣(パク・シュンシン=岡田准一)から簡単に伸されてしまう。石原を倒し、娘の信頼を取り戻すために鈴木はけんかの強い舜臣の指導を受けて体を鍛えることになる。
映画はモノクロームの画面で鈴木のさえない日常と事件を描いた後、校舎の屋上で両手を広げて舞う舜臣の登場シーンからカラーに変わる。手法として珍しくはないが、映画の内容にはぴったり合っている。クライマックスの対決シーンは強い風が吹いて砂ぼこりが舞う西部劇のような演出。タンブルウィードまで転がってくるのがおかしいが、これはそばにいた生徒が転がしている場面が映される。成島出の演出はオーソドックスな手法から、それを逆手に取ったシーンまでさまざまに変化を付けている。一直線と変化球が微妙に混ざったうまい演出だと思う。しかし何よりもキャラクターが素晴らしい。在日朝鮮人で母子家庭の舜臣は訓練をしていくうちに鈴木と心を通わせるようになる。木の上で自分の過去を話し、ふと弱さを漏らすシーンなどにキャラクターの奥行きを感じさせる。高校生が中年男を指導するというシチュエーションは他の脚本家でも思いつくアイデアだろうが、金城一紀の脚本はこうしたキャラクター作りがとてもうまい。設定だけでなく、細部にも独自のアイデアがあるのである。細部をないがしろにしていないからこそ、話に説得力が生まれるのだろう。
岡田准一は1年かけて体を作ったそうで、その成果は両手の力だけでロープをささっと登るシーンなどに現れている。堤真一にはややオーバーアクトな部分があるが、それもユーモアに結びついているところなので気にならない。このほか、ゾンビーズの面々やさえない中年男たちの演技にユーモアとリアリティが同居しており、満足感の高い映画だと思う。
2005/07/06(水)「ベルヴィル・ランデブー」
昨年のアカデミー賞歌曲賞と長編アニメーション賞にノミネートされたフランス、カナダ、ベルギー合作映画。歌曲賞のパフォーマンスで歌があまりにも良かったので、「ロード・オブ・ザ・リング 王の帰還」もこの部門だけは取れないかと思ったら、取ってしまった。まあ、それが勢いというものなのだろう。普通に考えれば、歌に関しては「ベルヴィル・ランデブー」の方がいいはず。見ていたアカデミー会員が少なかったのかもしれない。歌のイメージが強かったので、映画も歌の場面が多いのかと思ったら、全然違う内容だった。少しがっかりしたが、よくできたアニメーションとは思う。
そのベルヴィルの三姉妹(トリプレット=三つ子)の歌で幕を開ける。戦後間もないフランス。孫のシャンピオンと、犬のブルーノとともに暮らすおばあちゃんが孫に三輪車を買い与える。三輪車に夢中になったシャンピオンは大人になって、おばあちゃんと自転車のトレーニングに励み、ツール・ド・フランスに出場するが、レースの途中で何者かに誘拐される。おばあちゃんはその後を追って、足こぎボートで大西洋を横断。明らかにニューヨークがモデル(港に太った自由の女神像がある)のベルヴィルという都市にたどり着く。シャンピオンを誘拐したのはマフィアで、シャンピオンは賭博レースに参加させられることになった。そのころ、おばあちゃんはベルヴィルの奇妙な三姉妹と出会い、一緒にシャンピオンの救出に向かう。
物語はシンプルだが、味わいは変わっており、デフォルメされたキャラクターとデザインがおとぎ話のような雰囲気を与えている。列車に向かって吠えるブルーノとか、カエルを食べる三姉妹とか、独特のタッチがあると思う。ユーモアとブラックさが混在したタッチだ。セリフは極端に少なく、動きで見せるアニメーションであるところもいい。日本のアニメとは発想が根本的に違うのだろう。
監督は短編アニメを撮った後、初の長編アニメとなったシルヴァン・ショメ。演出のほか、脚本、絵コンテ、グラフィック・デザインを担当している。