2004/12/08(水)「スカイキャプテン ワールド・オブ・トゥモロー」
クラシックなスタイルの巨大ロボットがニューヨークの街中を地響きを立てながら行進する。そういうビジュアルな面では申し分ない。いや、良くできていると思う。羽ばたきながら飛ぶ飛行機とか、空中に浮かぶ巨大基地とか、後半に登場する恐竜のいる島の描写も優れている(キングコングが出てくれば、もっと良かった)。監督デビューのケリー・コンラン、かつてのSF映画や1930年代から40年代の映画に強く影響を受けているという。その通り、これはマニアが作ったことが一目で分かるビジュアルである。紗のかかった映像がレトロ感を煽るし、主演のジュード・ロウ、グウィネス・パルトロウのファッションもキャラクターも設定した時代によく合っている。しかし、話もクラシックにすることはなかった。古いSF映画そのままのストーリーでは、最新のVFXを使っているのにもったいない。こういう描写の映画として当然行き着くところの話に終わっていて、よくまとまっているけれども、新鮮さや驚きがなく、物足りないのである。ビジュアルが満点とすれば、話の方は60点程度。外見だけでなく中身にも凝ってほしかったところだ。
1939年のニューヨークが舞台。突然、巨大なロボットが多数、飛来してくる。科学者失踪事件の取材をしていたクロニクル紙の記者ポリー・パーキンス(グウィネス・パルトロウ)はロボットに遭遇し、必死に写真を撮る。空軍はエースパイロットであるスカイキャプテンことジョー・サリバンに助けを求める。現場に急行したジョーは巧みな操縦技術でロボットを食い止め、街の危機を救う。科学者失踪事件と巨大ロボットの間には関連があるらしい。かつて恋人だったジョーとポリーは事件を捜査し、背後にドイツ人の科学者トーテンコフ博士がいることが分かってくる。ロボットによって空軍基地が襲われ、ジョーの助手で天才技師のデックス(ジョヴァンニ・リビシ)が連れ去られる。デックスの残した地図からトーテンコフ博士がネパールにいることが分かり、ジョーとポリーはネパールに向かう。そしてトーテンコフ博士が「明日の世界計画」と呼ばれるプロジェクトを進行させていることを知る。
ジュード・ロウはハンサムなのでこうした冒険活劇にぴったりのように思えるのだが、この人、陰を引きずった部分があるので、ユーモアの部分が弾けにくい。グウィネス・パルトロウは活発な美人記者役に徹していて悪くない。ゲスト出演的なアンジェリーナ・ジョリーも空の要塞を指揮する隻眼の女艦長を好演。監督も出演者も映画を楽しんで作った感じがあり、それが好感度につながっている。
映画の元になったのはコンランが1人で4年かけてパソコンで作った6分間の短編という。コンラン、オタクな人なのだと思う。そうしたオタクがまず外観を真似ることから始めるように、この映画の外観もかつての映画のイメージで組み立てられている。急いで付け加えると、外観は似ていても、そのアレンジはオリジナリティにあふれており、コンランが作るイメージには一見の価値がある。コンランの次作はエドガー・ライス・バロウズの「火星のプリンセス」。これまたコンランにぴったりのクラシックな題材に思えるが、脚本まで1人で担当するのではなく、強力な助っ人を頼んだ方がいいのではないかと思う。
2004/12/03(金)「モンスター」
酒場で意気投合したセルビー(クリスティーナ・リッチ)に「一緒に逃げて」と言うアイリーン(シャーリーズ・セロン)の寂寥感が胸を打つ。いや、セルビーにしか希望を見いだせなかった孤独が可哀想すぎる。父親の親友に8歳でレイプされ、弟と妹のために13歳から客を取り始めたアイリーンはそれを家族の前で公にされ、家族から家を追い出されてしまう。金が必要だったから取った選択だが、家族はそんなことを考慮しなかった。アイリーンはヒッチハイクしながら売春するようになり、男から虐げられる毎日を送ることになる。
本当にこの映画に出てくるのはカスのような男ばかりである。だからレズビアンのセルビーとの出会いはアイリーンにとってかけがえのないものになる。「男も嫌い、女も嫌い。あんただけが好き」。自身はレズビアンでもないのに、暗がりで激しく求め合うのはアイリーンにとって、セルビーが初めて心が触れあえた(と思えた)相手だったからだ。しかし、セルビーと暮らす金のために取った客がひどい男で、森の中でアイリーンは殴られ、あわや殺されそうになる。やむなく男を銃で撃ったアイリーンは約束の時間に待ち合わせ場所に行くことはできず、待ちきれずに帰ったセルビーの部屋の窓をたたく。そして「一緒に逃げて」と懇願し、悲惨な生活の中で初めて(一時的に)ハッピーな逃避行が始まるのだ。
7人の男を殺した実在の連続殺人犯アイリーン・ウォーノスを監督デビューのパティ・ジェンキンスが映画化。連続殺人といっても、よくあるサイコキラーではなく、アイリーンの場合には単純に金を得るための殺しだった。ジェンキンスがイメージしたのは「『タクシードライバー』や『地獄の逃避行』のような70年代型のキャラクター映画」だったという。「『モンスター』と『レイジング・ブル』が比べられるのは、私にとっては最大級の賛辞よ」。映画は女性の連続殺人犯=モンスターが生まれた理由をこれでもかと見せつける。精神に異常を来した連続殺人犯ではなく、社会から受け入れられず、追いつめられた結果、生まれた殺人者。アイリーンの存在が重いのは特殊な事例として遠ざけることができないからだ。弟や妹のために始めた売春のように、アイリーンはセルビーとの生活を守るために殺人を続けねばならなくなる。アイリーンにとって、自分を買うような男は殺されて当然の存在だったのだろう。裁判でセルビーからも見捨てられ、死刑判決を受けたアイリーンの最後のセリフは「勝手にほざけ」。アイリーンの孤独と絶望感はあまりにも深い。
セロンが目を大きく見開いて顔が引きつったような表情をたびたび見せるのはメイクのせいもあるだろう。僕はアカデミー主演女優賞を取ったセロンの演技を必ずしもうまいとは思わない。13キロ体重を増やし、美形を跡形もなく消し去った(パンフレットにある実際のアイリーンよりも美しくない)女優根性には頭が下がるけれども、やはり美人女優は美人のままで女優賞を取ってほしいと思う。しかし、この映画のいくつかの場面でセロンが絶望的な寂寥感を体現していることは否定しようがない。そして、セロンが美しい外見のままでは演技が評価されなかったことと、アイリーンが娼婦になったこととの間にはそんなに大きな隔たりはないように思える。
2004/11/27(土)「Mr.インクレディブル」
スーパー・パワーが社会の迷惑になるとして引退させられ、政府の保護下に置かれたスーパー・ヒーローとその家族が難事件に出会ったことで復活する姿を描くピクサーの3DCGアニメ。おもちゃや魚やお化けを描いてきたピクサーとしては珍しく人間(スーパー・ヒーローだが)が主役の映画で、これは監督のブラッド・バードが加わったことによるものだろう。「アイアン・ジャイアント」の監督であるバードは今回も伏線を張ってしっかりとした物語を組み立て、大人が見ても楽しめるアニメに仕上げている。音楽や悪役の描き方は007調、構成は「スパイキッズ」を思わせるけれど、家族が絆を深める姿やスーパー・パワーを持つ子どもの自己実現の姿をじっくりと描いており、その両者よりは良い出来である。主人公の家族の絆や愛情は普通の家族にも当てはまることで、そうした普遍性を備えているのが強いところか。エモーショナルなものを根底に置くのはピクサー映画の特徴だが、この映画もその例に漏れない。少し長い(上映時間は2時間)ので、小さな子どもにはつらい部分もあるけれど、バードの映画としては、個人的に違和感がつきまとった「アイアン・ジャイアント」よりはるかに優れていると思う。
主人公のインクレディブルはスーパー・ヒーローとして街を守っていたが、ビルから落ちた男を助けたために訴訟を起こされる。男は自殺しようとしたのであって、助けてもらおうとは思っていなかった。助けられた時のけがで不自由な体になったという理由。同時にスーパー・ヒーローたちの強すぎるパワーは社会問題となり、ヒーローたちは活動を禁じられる。15年後。インクレディブルことボブ・パーは保険会社に勤めてさえない毎日を送っている。妻は元スーパー・レディのイラスティガールことヘレン。消える能力を持つヴァイオレット、超人的な走りの能力を持つダッシュ、赤ん坊のジャック・ジャックの3人の子どもがいる。会社で困っている人に保険金が出るよう手を回したボブは社長から責められ、ふとした弾みで社長に重傷を負わせて会社をクビになる。そこへスーパー・ヒーローの能力を使う依頼が来る。暴走したロボット兵器を止めてほしいというものだった。しかし、その依頼には陰謀があり、ボブは捕らわれの身となる。ヘレンとヴァイオレット、ダッシュは力を合わせて父親を救出しようとする。
一般市民としての生活を守るため、インクレディブルの家では子供たちにスーパー・パワーの使用を禁じている。その力を思い切り使う場面を用意することで、映画は子どもの自己実現の重要さを訴えているし、同時に父親を助けようとする家族、家族を思う父親の姿を描いて、脚本には隙がない。ユーモラスな描写に絡めてそうした部分をしっかりと描いているのがいい。3DCGの技術はピクサー独自のものではなくなったし、今さら珍しくはないけれど、脚本を大事にする姿勢はピクサー映画のブランド化に大きく貢献していると思う。
吹き替えは主人公をクレイグ・T・ネルソン、ヘレンをホリー・ハンターが担当。日本語吹き替え版は三浦友和、黒木瞳がそれそれ演じている。どうでもいいが、手足がグイーンと伸びるインクレディブル夫人の能力は「ワンピース」のゴム人間ルフィを参考にしたのではないか。バードはパンフレットで「日本人はそのアニメのポテンシャルに気づいて、アニメの可能性をどんどん切り開いていると思う。世界のアニメは今、日本に追いつこうとしているんだよ」と語っており、日本のアニメはよく研究しているはずである。
2004/11/22(月)「ハウルの動く城」
前作「千と千尋の神隠し」は2度行って満員で入れず、公開後1カ月にして3度目でようやく見ることができた。今回は平日の朝一番に見に行って、楽々座れた。2館で上映しているためもあるのだろうが、公開が夏休みに重ならなかったことが大きい。大人が見るためにも宮崎駿作品は子どもの休みと重ならない時期の公開が好ましいとつくづく思う。
さて、今回は一筋縄ではいかない作りである。呪いによって90歳のおばあさんに変えられた少女ソフィーがハウルとその仲間たちと擬似的な家族を築いていく、という表面的な物語自体は簡単なだけに、宮崎駿が込めたテーマが見えにくくなっている。終盤の展開を見れば、宮崎駿が「ハートを取り戻せ」「人間らしく生きろ」と言っているのは明確なのだが、原因と結果の描写を微妙にずらしている(あるいは単純な因果関係にない)ので解釈しにくいのである。これを子どもと一緒に見た親は子どもから「なぜ」を連発されることになるだろう。しかし、そうした描写の仕方によってこれは奥行きの深い物語になった。単純な比喩による一意的な解釈を許さない物語というのは確かにあって、そういう作品は時代によって受け取られ方が異なるものだが、イラク戦争が泥沼化した今の状況を考えれば、これは反戦が大きなテーマと受け取っていいだろう。今さら言うまでもなく、宮崎駿は硬派な人なのである。その意味でこれは「未来少年コナン」「風の谷のナウシカ」「天空の城ラピュタ」という初期作品の延長線上にある作品と言える。
人の心臓を食べると言われるハウルという魔法使いに街で偶然会った18歳のソフィーが荒れ地の魔女に呪いをかけられ、90歳のおばあさんになる。このままでは家にいられない。家を出たソフィーは荒れ地で、かかしのカブを助けた後、ハウルの動く城にたどりつき、掃除係として一緒に暮らし始める。ハウルの城にはハウルと契約を結んで暖炉に縛り付けられている火の悪魔カルシファーと弟子のマルクルという少年が住んでいる。ハウルは夜になると、どこかへ出かけていく。この4人プラス魔力を失った荒れ地の魔女が次第に家族みたいになっていくと同時にソフィーはハウルに惹かれるようになるというのがメインプロット。併せてこの国で起きている戦争の描写もインサートされる。国王のそばにはハウルの師匠に当たる魔法使いのサリマンがいて、ハウルを戦争に協力させようとしている。このサリマンが一般的に言えば、悪役になるのだが、ここでも宮崎駿は一意的な描き方はしていない。敵を倒して終わらせる物語ではないのである。
呪いをかける方法は知っていても解く方法を知らないとか、カルシファーの「火薬の炎は嫌いだ。あいつらは作法を知らない」というセリフとか、ハウルが戦争で魔法を使いすぎて魔物になっていく描写(これはフォースのダークサイドに落ちるイメージを思い起こさせる)とか、戦争や愚かな人間を暗示した描写は至る所にある。終盤、ハウルが心臓を取り戻すシーンから一気に戦争の終息を示す描写など見ると、心臓=ハート=人間性を取り戻せば、争いごとはなくなるという主張がくっきりと浮き上がってくる。
心臓を取り戻したハウルは「体が重くなった」と言う。それに対してソフィーは「心は重いものなのよ」と答える。目に見える敵ではなく、自分の心の中にいる敵。人間の心次第で状況は悪化もすれば、好転もする。映画に戦争はあってもその具体的な理由や戦場の悲惨さはない。戦争を悪いこととして抽象化することで、映画は分かりにくくなっているし、大衆性も伴ってはいないけれど、それによって右翼左翼や宗教上のイデオロギーから独立した普遍的な作品になり得ていると思う。
2004/11/15(月)「コラテラル」
12年間タクシーの運転手をしているマックス(ジェイミー・フォックス)には夢がある。リムジンの会社を持つこと。タクシー運転手は本人にしてみれば、仮の仕事である。そんなマックスを見透かしたように殺し屋のヴィンセント(トム・クルーズ)が言う。「みんないつかは自分の夢が実現すると思ってる。しかし、何もしない。夢をどこかに置いて、テレビをボーっと見ている。そしてある日、鏡を見て自分が年を取ったことに気づくのさ」。
これと対をなすのが序盤にある女性検事アニー(ジェイダ・ピンケット=スミス)との会話で、翌日の公判を控えてナーバスになっているアニーにマックスは休養を取るよう勧める。自分は仕事中でもボラボラ島の写真を5分間見ることで休息していると言い、「これが必要なのはあんただ」と写真を渡す。そしてアニーは自分の名刺を渡すのだ(2人に交流が芽生えるこのシーンを見れば、クライマックスの予想は付く)。事件の巻き添え(コラテラル)になったタクシー運転手という本筋の話よりも印象に残るのはそんなセリフで、脚本のスチュアート・ビーティー、サスペンスとは別の意味でなかなかうまいと思う。マイケル・マン監督の映画としては特に出来がいいわけではないが、演出は的確であり、ひと味違ったサスペンス映画になっている。
マックスはアニーを降ろした後、同じビルの前でヴィンセントを乗せる。予測した通りの時間でヴィンセントを目的地まで送り届けると、マックスの腕を見込んだのか、ヴィンセントは600ドルで今夜行く数カ所への運転を依頼する。マックスが一休みしていたところ、ビルの窓から車の屋根に死体が落ちてくる。死体はヴィンセントが殺した男。ヴィンセントは殺し屋で今夜5人を始末するという。脅されたマックスは男の死体をトランクに入れ、次の目的地に向かう。死んだ男は麻薬組織の一員で、裁判の証人だった。男が消えたことで麻薬捜査官のファニング(マーク・ラファロ)など警察も捜査を開始する。ヴィンセントが3人目を殺したところで、マックスはヴィンセントの鞄を奪い、道路に投げ捨てる。中には標的の資料が入っていた。ヴィンセントは組織のボス、フェリックスに会い、標的の資料をもらうよう強要する。
タクシー運転手が主人公の映画と言えば、マーティン・スコセッシ「タクシー・ドライバー」がある。あの映画がニューヨークの風俗をつぶさに映し出したほど、ロサンゼルスの街がよく描かれているとはいえないのがちょっと不満な点。これは狙いが違うのだから仕方ないが、平凡な運転手だったマックスの変化も明確には描かれないのが弱いところか。クライマックスは5人目の殺しを阻止しようとするマックスとヴィンセントの対決になる。いくらヴィンセントがけがをしていたとはいっても、マックスに勝てる理由は見あたらないのも弱い。しかし、ジェームス・ニュートン・ハワードの音楽とディオン・ビーブの撮影はともにレベルが高く、映画に貢献している。
凄腕のタフな殺し屋を演じるトム・クルーズは、白髪交じりの髪に無精ひげのメイクでうまく役にはまっている。美男俳優が殺し屋を演じるのはアラン・ドロンを持ち出すまでもなく、かつては普通のことだった。冒頭、ヴィンセントが降り立つ空港の場面に「スナッチ」「ザ・ワン」のジェイソン・ステイサムが出てくる。ヴィンセントにぶつかって鞄を渡す男の役でパンフレットには名前が記載されていない(この映画のパンフはまったく詳しくない)。ゲスト出演か。