2004/10/17(日)「インファナル・アフェア 無間序曲」
昨年公開された「インファナル・アフェア」の続編。といっても、第1作より前の時代、1991年から97年の香港返還当日までを描く。潜入捜査官のヤンと警察に潜入した香港マフィアのラウを演じるのは前作の序盤でトニー・レオンとアンディ・ラウの若いころを演じたショーン・ユーとエディソン・チャン。この2人も好演しているが、映画を支えるのは警部役のアンソニー・ウォン、フー・ジュン、マフィアのボス役のフランシス・ン、エリック・ツァン、そして情婦役のカリーナ・ラウのベテラン俳優たちである。複雑な人間関係であるにもかかわらず、脚本が巧みなので話がすっきりしている。ラスト、ヤンがエリック・ツァンの配下に入るのは物語の流れから言っておかしいとかの傷はあるが、全体的に見てこの脚本はご都合主義が目についた前作より密度が濃い。敵と味方が入り乱れる構図はキネマ旬報で指摘されていたように「仁義なき戦い」を思わせる。違うのは「仁義なき戦い」が重喜劇的側面を持っていたのに対して、あくまでシリアスなこと。エリック・ツァンはそのキャラクターから、山守のおやっさん(金子信雄)のような役回りになれるはずだが、喜劇的演技は抑えている。笠原和夫脚本に比べてそのあたりが惜しいところ。しかし、時代背景を取り入れた作劇はうまく、十分に面白い仕上がりだ。第3作「終極無間」は来年GWに公開という。
尖沙咀(チムサアチョイ)に君臨する香港マフィアのボス、クワンが殺された。殺したのは配下のボス、サム(エリック・ツァン)の手下ラウ(エディソン・チャン)。ラウはサムの情婦マリー(カリーナ・ラウ)に命じられて暗殺を実行したのだった。大ボスが殺されたことで配下のサムを含む5人のボスたちは反逆しようとするが、クワンの跡を継いだ次男のハウ(フランシス・ン)は逆にボスたちの弱みを楯に地位を固める。クワンの私生児でハウと異母兄弟のヤン(ショーン・ユー)は警察学校に入校していたが、その血筋が発覚し、退校処分となる。それを救ったのは警部ウォン(アンソニー・ウォン)。ウォンはヤンにマフィアに潜入するよう命じる。一方、ラウはサムの命令で警察官となる。ここから裏切りに次ぐ裏切りのドラマが展開し、隠された人間関係が徐々に明らかになっていく。ハウは5人のボスを葬ろうと画策、4人は殺される。コカインの密輸を進めるためハウに命じられてタイに行ったサムも銃弾に倒れる。マフィア内部の抗争は警察をも巻き込み、ウォンの同僚で警視に昇進したルク(フー・ジュン)はウォンの身代わりに犠牲になる。一度は絶望的になったウォンはハウを逮捕するため反撃の機会をうかがう。
ショーン・ユーとエディソン・チャンの若手2人では弱いと思えたためか、監督・脚本のアラン・マック、アンドリュー・ラウはフランシス・ンとアンソニー・ウォンの対立軸を中心に物語を進める。フランシス・ンは知的で非情なマフィアでありながら、家族を大事にする男でその描写は「ゴッドファーザー」を参考にしたようだ。アンソニー・ウォンはマフィアへの憎しみを持つ警部で渋い男の魅力を見せる。この2人の存在が大きいため、本来なら敵対組織に潜入してアイデンティティーを失う若い2人の無間地獄の苦しみを描いた映画になるはずが、ギャング映画、ヤクザ映画として単純に面白い作品になった。そしてカリーナ・ラウ。どちらかと言えば、ダメ男のサムを愛し、ラウが自分に思いを寄せていることを利用してサムのために尽くす。思いを打ち明けたラウをきっぱりと拒絶する場面など、ヤクザ映画の姐さん的役回りをこれまた見事に演じている。第1作、第2作に比較すると、3作目はあまり評価は高くないらしいが、とりあえず結末を見たい気にさせる。
2004/10/11(月)「オーシャン・オブ・ファイヤー」
しっかり作られた佳作。1890年、アラビア砂漠の過酷なレースに挑む西部男の話。「ロード・オブ・ザ・リング」のアラゴルンことヴィゴ・モーテンセン主演で、監督は「遠い空の向こうに」「ジュラシック・パークIII」のジョー・ジョンストン。
主人公のフランク・ホプキンスは実在の人物とのことだが、映画の方はレースに絡む陰謀などフィクションだろう。それでも由緒正しい冒険活劇の趣で、2時間余り十分楽しめる。一番いいのは主人公の愛馬(ヒダルゴ)がよく描けていることで、レースをあきらめかけた主人公をよそにさっさとスタート地点にいるところなど微笑ましかった。主人公は先住民と白人の間に生まれたという設定で、星条旗を背負っていないところにも好感が持てる。
アラブの族長を演じる俳優は、以前ならオマー・シャリフが演じるところだよなあ、と思ったら、終盤に至ってオマー・シャリフその人だと気づいた。
2004/10/11(月)「殺人の追憶」
1986年から1991年にかけて韓国の農村で起きた猟奇的な連続殺人事件を描いたミステリー。今年4月に出張先で見ようと思って見られなかった。評判の高さは聞いていたが、これは凄い傑作だと思う。10人の若い女性が殺されたにもかかわらず、未解決のままになっている事件で、それはとりもなおさず当時の警察の無能さを象徴しているわけでもあるが(なにせDNA鑑定さえアメリカに頼まなければならなかったのだ)、これは警察批判などの社会派の視点に立った作品ではまったくない。いや、冤罪を生む田舎警察の捜査のデタラメぶりなど批判も込められてはいるけれど、それ以上に監督のポン・ジュノが目指したのはエンタテインメントとしての完成度だったのだと思う。そして突き詰めたエンタテインメントは芸術の域にまで高まるものなのである。
主演のソン・ガンホ、キム・サンギョンら刑事たちの人間臭くてユーモラスな描写と、後半グイグイ高まっていく強烈なサスペンスが一体となって迫ってくる。懸命な捜査にもかかわらず、連続する殺人を防げず、クライマックスには知り合いの少女まで犠牲にしてしまう刑事たち。その無念さと無力感は観客にもひしひしと伝わる。韓国人なら民主化が始まったころの時代風俗の描写にもグッと来るものがあるのではないか。細部にまで心を配ったドラマ作りであり、その見事さには感心せざるを得ない。
予告編とチラシに阪本順治が黒沢明を引き合いに出した賛辞を寄せているけれど、その通りで「野良犬」や「天国と地獄」に匹敵する描写がこの映画にはある。ここぞという場面で鳴り響かせる岩代太郎の音楽も素晴らしい。
2004/10/09(土)「デビルマン」
ブライアン・デ・パルマ「ミッドナイトクロス」の冒頭で、シャワー室で襲われる女の叫び声を録音していた録音技師のジョン・トラボルタが、女優のあまりの下手さ加減に匙を投げるシーンがある。「デビルマン」を見ていてそれを思い出した。中盤、主人公の不動明(伊崎央登)がデーモンであることを養父の牧村(宇崎竜童)に知られて上げる叫び声がなんとも迫力のないものなのである。終盤にもう一度、叫び声を上げるシーンがあるが、そこも同じ。これほど真に迫らない叫び声は初めて聞いた。この程度の叫び声でなぜ那須博之監督がOKを出したのか理解に苦しむ。感覚が狂っているのか、現場をコントロールできなかったのか、時間が足りなかったのか。いろいろあるだろうが、こういうところでOKする姿勢が映画全体に波及してしまっている。主人公だけでなく、他の出演者の演技にもまるでリアリティがない。6月公開予定を延期してCGをやり直したそうだが、出演者の演技も最初からやり直した方が良かった。いや、その前に脚本を作る段階からやり直した方が良かっただろう。永井豪の最高傑作とも言えるあの原作がなぜ、こんなレベルの映画になってしまうのか。「スクール・ウォーズ HERO」とは違って、「デビルマン」の物語を本当に理解しているスタッフはいなかったのではないか。
「外道! きさまらこそ悪魔だ」と、原作の不動明は叫ぶ。悪魔特捜隊本部で悪魔に仕立てられて惨殺された牧村夫妻を発見し、そばにいた人間たちに怒りの声を上げるのだ。「おれのからだは悪魔になった…。だが、人間の心は失わなかった! きさまらは人間のからだを持ちながら悪魔に! 悪魔になったんだぞ。これが! これが! おれが身をすててまもろうとした人間の正体か!」。
映画にも「悪魔はお前ら人間だ!」というセリフはあるが、それを叫ぶのは不動明ではない。デーモンに合体された少女ミーコ(渋谷飛鳥)である。なぜ、こういう改変を行うのか。主人公にこのセリフを叫ばせなければ、その後の展開がおかしくなってしまう。原作の不動明は愛する美樹を殺した人間たちを一掃し、同時に怒りの矛先を人間たちの心理を利用して自滅させようとした飛鳥了に向ける。映画の明は人間は殺さず、了との対決に臨む。これでは愛する者たちを殺された主人公の怒りが伝わってこない。だからドラマとして貧弱になってしまうのだ。
脚本は那須真知子。2時間足らずの上映時間に全5巻の原作を詰め込むのは所詮無理な話ではある。しかし、無理は無理なりに何らかの工夫が必要だろう。単に原作をダイジェストにしただけで脚本家が務まるのなら、脚本家はなんと気楽な商売かと思う。那須真知子、監督と同じくSFに理解があるとは思えない。ならば、そういう仕事は引き受けるべきではなかっただろう。原作の飛鳥了は終盤まで自分の正体を知らない。映画では早々に正体をばらしてしまう。原作を思い切り簡略化した話で、それを見るに堪えない演出で語ろうというのだから、つまらなくなるのは目に見えている。
このほか、不動明とデビルマンの中間みたいなメイクアップがまるで意味をなさないとか、妖鳥シレーヌ(富永愛)の扱いが彩り程度のものであるとか、原作のラストの後に余計なメッセージを付け加えているとか、やり直したCGの場面が少ないとか、ボブ・サップやKONISIKIを使う意味が分からないとか、冒頭にある少年2人のシーンがお粗末すぎるとか、さまざまな不満な点がある。ついでに言うと、こんな雑な映画を作って公開する意味も分からない。こんなことなら、アニメでリメイクした方が良かったのではないか。
2004/10/08(金)「テイキング・ライブス」
マイケル・パイの原作にアンジェリーナ・ジョリーの役柄は登場しないそうだ。この映画、中盤まではサイコスリラーとしてまずまずの出来なのだが、終盤の展開がメタメタである。脚本家(ジョン・ボーケンキャンプ)がジョリー主演にするために書いたと思われる部分が物語の完成度を著しく落としているのだ。途中で(といっても終盤に近い)犯人が分かる構成はヒッチコックあたりを参考にしたのかと思ったが、その後の展開に今ひとつ工夫がない。ヒッチコックと言えば、音楽もバーナード・ハーマン風で、ジョリーが死体発見現場に横たわるシーンに流れる音楽は「めまい」を参考にしたかのよう。映画自体の完成度は決して褒められたものではないにもかかわらず、そこそこ楽しめた気になるのは一重にFBI捜査官役をカッコよく演じるアンジェリーナ・ジョリーのお陰だろう。ジョリーの場合、「トゥームレイダー」などでもそうだが、本人は好演し、好感が持てるのに映画としてはパッとしない出来の作品が多い。監督に恵まれていないのだ。
カナダのモントリオールが舞台。工事現場で絞殺され、両手を切断された死体が見つかる。モントリオール警察のレクレア(「キス・オブ・ザ・ドラゴン」のチェッキー・カリョ。パンフレットの表記ではチェッキー・ケイリオ)はFBIに捜査協力を要請。単身乗り込んできたイリアナ・スコット(アンジェリーナ・ジョリー)はプロファイリングに天才的なサエを見せる。イリアナはモントリオール警察のパーケット(オリビエ・マルティネス)、デュバル(ジャン=ユーグ・アングラード)とともに捜査を進め、事件の目撃者コスタ(イーサン・ホーク)を追及する。その頃、ある老婦人が警察に「死んだはずの息子を見た」と届け出る。その老婦人、アッシャー夫人(ジーナ・ローランズ)の息子マーティンは1983年、家出した後に事故死していた。気になったイリアナはアッシャー夫人を訪ね、マーティンが双子の兄のリースが死んだ後に家出したことを聞かされる。墓を掘り返した結果、埋葬された死体はマーティンではなかった。マーティンは20年間にわたって、次々に殺人を犯し、その人間になりすまして(人生を乗っ取って=テイキング・ライブス)生きてきたらしい。警察はコスタを囮にしてマーティンをおびき出す作戦を取る。コスタの周辺には謎の男(キーファー・サザーランド)がいた。
捜査を進めていくうちにイリアナはコスタに惹かれていく。一応の事件が解決した(と思われた)後、ホテルを訪ねたマーティンを迎え入れるイリアナの表情がいい。その後にある激しいラブシーンを予感し受け入れているようなアンジェリーナ・ジョリーのたたずまいは大人の女を感じさせる。アンジェリーナ・ジョリーに関しては十分に満足のいく作品なのだが、それだけに前半と後半とで別の映画のようになる腰砕けの脚本が残念すぎる。監督はD・J・カルーソー。劇場用映画は2作目らしいが、豪華キャストを生かし切れていない恨みが残る。アップを多用した撮り方だけは映画的だった。
アッシャー夫人が最初に出てきた時、そのファッションからしてジーナ・ローランズかと思い、いや、こんなにおばあさんのはずはないと思い返したのだが、やはりジーナ・ローランズだった。うーん、随分おばあさんになったものだ。