2002/12/03(火)「es[エス]」
1971年にスタンフォード大学で行われた実験に基づく。24人の被験者を看守役と囚人役に分け、監視カメラ付きの模擬刑務所に入れて、その変化を2週間かけて観察する実験。しかし、わずか7日間で実験は中止され、以来、この実験は禁止されているのだという。ほぼ展開の想像がつく設定だが、クライマックス以降はちょっと想像を超えていた。状況のカタストロフを残酷に描くこの脚本はなかなかうまい。
映画は実際の実験とは異なり、フィクションではあるが、状況によって人間はどう変わるのかを克明に描き出してみせる。この実験は、実験をコントロールする教授らの研究スタッフ、看守役、囚人役という序列(階級)を作る。看守たちが力を笠に着て囚人をいたぶるのは予想内のこと。しかし、看守役を務めるという目的を守るために上の階層である研究スタッフをも排除しようとするのが面白い。目的に固執する硬直した考え方になってしまうのだ。あるいはそれはルールを守るということで自分たちの行為を正当化するものでもあるだろう。そして看守たちの暴走を研究スタッフもコントロールできなくなる。
警棒や手錠を持たされただけで人間は変わる。多くの人間は権力を持つと、弱い階級に対して支配的な態度に出るのだろう。力を持っても変わらない人間は自分たちの階級から追い落としてしまう。このストーリーは容易に戦争の状況を思い起こさせるし、ドイツ映画だけにナチスのユダヤ人迫害をも想起させる。普通の会社や組織や学校の状況にあてはめられることでもあり、普遍的なものを持っていると思う。
人間の心理の邪悪な部分を剥き出しにするので見ていてあまり快くはないけれど、クライマックス以降は模擬刑務所を脱出できるかどうかのサスペンスを伴うエンタテインメント的な演出になっている。監督はこれがデビューのオリバー・ヒルツェヴィゲル。モントリオール国際映画祭で最優秀監督賞を受賞した。主人公の囚人役は「ラン・ローラ・ラン」のローラの恋人役モーリッツ・ブライプトロイが演じている。
2002/11/25(月)「ハリー・ポッターと秘密の部屋」
ホグワーツ魔法学校で2年目に入ったハリー・ポッターとハーマイオニー、ロンの3人が学校にある秘密の部屋を巡って冒険を繰り広げる。キャラクターの紹介は前作で終わっているので、早く本筋を展開させればいいのに、秘密の部屋がメインになるのは中盤以降。それまでは前作の繰り返しみたいな描写が多い。中盤のクモやヘビが出てくるあたりからSFXが多くなり、それなりに見せるが、話自体はなんというか、簡単ですね。このあたり、原作が童話であることの限界のようだ。
よく分からないのはなぜハリーにもっと活躍させないのかということ。いや、もちろん、事件を解決するのはハリーの力なのだが、特に能力的に優れた部分は見当たらないのだ。ヒーローがヒーローたり得ていないところが、大いに不満。なぜ周囲がハリーを英雄視するのかよく伝わってこない。これは端的に脚本のミスではないのか。
目新しさが減った分、前作よりも面白みには欠ける。幼稚で他愛ない話と出来そのものはあまり良くないSFXだけで、どうしてこんなに支持されるのか疑問だ。もう一つ分からないのはハーマイオニーをはじめ数人が○○にされる場面を描いていないこと。この映画のSFXなら難なくできると思うが、一様に終わった後の描写しかない。一つには敵の正体を見せたくなかったからなのだろうけれど、描写はどのようにでも出来ると思う。
監督は前作に続いてクリス・コロンバス。大きく失敗はしてはいないが、成功もしていないといういつも通りの演出である。大人のファンタジーとしてはやはり「ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔」を待つしかないか。ダンブルドア校長役のリチャード・ハリスは先日亡くなった。遺作はこの映画ではなく、来年、もう1本公開予定作品があるようだ。「ジャガーノート」(1974年)のカッコ良さにしびれた者としては、おじいちゃん役はあまり見たくなかった。
2002/11/18(月)「ショウタイム」
「シャンハイ・ヌーン」のトム・デイ監督の第2作。というよりも、ロバート・デ・ニーロとエディ・マーフィーの初の共演作と言った方が通りがいいだろう。デ・ニーロは最近、コメディにも数多く出演しているが、その中では良い方の出来になる(それほどつまらない作品が多いのだ、デ・ニーロのコメディは)。かといってこの映画の出来が良いわけでは決してない。原因はまるでリアリティを欠いた脚本にあるのだが、デ・ニーロのうんざりしたような表情とアメリカでは復活を遂げたというエディ・マーフィーのかつてのような面白さの一端を見るだけでもいいか、と思う。
ただ、この2人の相手をするレネ・ルッソ(個人的には好きなんですがね)や前半に自分自身の役でちょっとだけ出てくるウィリアム・シャトナーも含めて、どうも盛りをすぎたスターたちの共演作という印象は拭いきれない。いや、デ・ニーロはまだまだスターで名優ではあるのだが、いい加減、こういうB級作品ばかりに出ているのはまずいんじゃないか、と言いたくなる。「初の共演作」というのが少しも売りにならないのがつらいところだ。
ロス市警のベテラン刑事ミッチ・プレストン(ロバート・デ・ニーロ)が事件現場に来たテレビ局のカメラを撃ったことから、上司に強要されてテレビシリーズに出演する羽目になる。俳優志望で落ちこぼれ警官のトレイ・セラーズ(エディ・マーフィー)はプロデューサーのチェイス・レンジー(レネ・ルッソ)に売り込みをかけ、ミッチとコンビを組んでテレビ出演を果たす。ミッチはマスコミ嫌いで、映画やテレビの刑事ドラマのような演技をするのもまっぴらという設定。2人の刑事は対立しながら、強力なマシンガンを作る組織を追い詰めていく。
典型的なバディ・ムービーの展開でテレビ局が絡むところなど昨年のデ・ニーロ主演「15ミニッツ」を思わせる。デ・ニーロとマーフィーが頑張っているので「15ミニッツ」ほどつまらなくはならなかったが、アクション映画としてはあまり見るべき部分もない。いくらコメディだからといっても、話の設定にまったくリアリティがないのは困ったものだ。3人クレジットされている脚本家のうち、アルフレッド・ガフとマイルズ・ミラーは現在「スパイダーマン」の続編を書いているという。大丈夫か、「スパイダーマン」。
エディ・マーフィーは少しスリムになってかつてのマシンガンのようなしゃべりを復活させ、悪くない。しかし、かつての強烈なイメージを復活させるのはもはや無理だろう。常識人になってしまったのだなと思う。デ・ニーロは近年、キャリアのプラスにならないような作品ばかりに出ているような印象。アル・パチーノの作品を厳選して出演する姿勢を、見習った方がいいのではないかと思う。
2002/11/11(月)「チェンジング・レーン」
無理な車線変更をした白人ヤッピーが黒人ブルーカラーの男の車と接触、示談の話もせず、白紙の小切手を押しつけて早々に現場を立ち去る。ヤッピーは弁護士で裁判所に遅れてはと思ったのだ。焦っていたヤッピーは裁判所に提出するはずの重要な書類を現場に落とす。黒人の方も裁判所に行く用事があった。事故のせいで20分遅れ、妻に親権を取られてしまう。黒人は書類を拾っていたが、ヤッピーの仕打ちに腹を立て、返そうとしない。怒ったヤッピーは脅迫のため黒人をコンピューター操作で破産させてしまう。
という予告編以上のものがあるかどうかあまり期待せずに見たら、面白かった。この脚本はよく考えてある。「チェンジング・レーン」というタイトルは単なる車線変更ではなく、間違った人生の変更も意味しているのだった。
弁護士が落とした書類はある財団の運営を弁護士の事務所に委託することを証明するものだった。弁護士自身が死にかけた老人にサインさせたものだが、振り返ってみれば老人がサインの意味を理解していたかどうか、疑わしい。そして事務所の経営者2人が財団から300万ドルを横領していたことが分かる。弁護士は経営者の娘と結婚しており、そうした不正を暴けば、自分の首を絞めることになる。それは安楽な生活を捨てることを意味する。妻はすべての事情を知った上で、偽の書類を裁判所に提出するよう頼む。
なかなか考えてあるシチュエーションなのである。そしてこれはアメリカ映画であるから、当然、弁護士は今まで歩んできたレーンを変更しようとするのだ。弁護士を演じるのはベン・アフレック、黒人ブルーカラーはサミュエル・L・ジャクソン。事務所の経営者をシドニー・ポラックが演じる。アフレックは登場したときには嫌な男なのだが、その後の変化をうまく演じたと思う。
脚本が優れているのは、安っぽい正義感を否定した上でやはり理想的な結末に至らせていること。ポラックはアフレックに対して、自分は(不正もしているが)トータルでは公益のある仕事をしていると話す。人生はトータルで評価される、善と悪を差し引けば、自分は善だというのが実に偽善者らしい言い分である。普通なら主人公はこうした偽善的な世界からドロップアウトするのかと思うが、これもよく考えた結末となっている。脚本は主人公の心変わりの契機として、車線変更による事故のほかに、事務所に面接に来た青年の理想的な言葉も用意している。ある1日の体験が弁護士をかつて志した道へと戻すわけだ。
監督は「ノッティング・ヒルの恋人」のロジャー・ミッチェル。見応えのある作品にまとめた手腕に感心した。
2002/11/08(金)「たそがれ清兵衛」
意外な気もするが、山田洋次77作目にして初の本格的時代劇。そして山田洋次作品の中でもかなり上位にランクされる傑作だ。食事や内職や畑仕事などなど下級武士の日常の描写がしっかりしており、登場人物の深い描き方だけでも、いつまでもいつまでも見ていたくなる。身の丈に合った生活に不平不満を言わず、清貧に生きる主人公の潔い姿勢には深く共感させられる。山田洋次が時折撮る説教くさい映画が僕は好きではないし、この映画にもそんな部分がかすかに残ってはいるのだが、時代劇であることによってそれは薄められている。貧しいけれども真摯に生きる者たちに注ぐ監督の視線がストレートに伝わってくる。藩の命令に逆らえない主人公の姿は現代のサラリーマンとも重なっており、見事なまでの完成度を持つ作品と思う。
原作は藤沢周平の短編「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人助八」。山田洋次と朝間義隆はこれを清兵衛の娘の視点から組み立て直した。この脚本も相当うまい。庄内地方にある海坂藩の下級藩士・井口清兵衛(真田広之)は仕事が終わると、同僚の誘いも断ってさっさと家に帰るので、たそがれ清兵衛と呼ばれている。清兵衛は五十石の身分で娘2人とボケ始めた母親と暮らす。妻は長患いの末に労咳で亡くなった。もともと貧しい暮らしだが、妻の病気で借金が重なり、清兵衛は虫かご作りの内職をしている。同僚と飲みに行く金もないのだ。しかし、「二人の娘が日々育っていく様子を見ているのは、草花の成長を眺めるのにも似て、楽しいものでがんす」と話す清兵衛に今の生活への不満はない。映画は前半でこうした境遇にある清兵衛の日常をじっくりと描く。
清兵衛の生き方はストイックで、ある意味ハードボイルドでもある。幼なじみの朋江(宮沢りえ)に思いを寄せているが、貧しい家に迎えれば、苦労させるのは目に見えている。だから清兵衛は思いを打ち明けられずにいる。それをついに打ち明ける場面が泣かせる。剣の腕を見込まれて、家老から無理矢理上意討ちを命じられた清兵衛は、朋江に身支度を頼む。そしてこう話すのだ。「幼いころから、あなたを嫁に迎えることは私の夢でがんした。これから私は果たし合いに参ります。必ず討ち勝って、この家に戻ってきます。そのとき、私があなたに嫁に来ていただくようお頼みしたら、受けていただけるでがんしょか」。静かな言葉の中に熱い思いがあふれる。真田広之と宮沢りえの演技が素晴らしい。
これに続く上意討ちの場面(田中泯の凄みのある侍は見事)のリアルな殺陣もこの映画の見どころではあるが、まず、清兵衛の生き方と朋江との関係を描きこんだことが成功の大きな要因だろう。物語を語ることにおいて山田洋次の技術は相当高いとあらためて思う。「ロード・トゥ・パーディション」で感じた技術の高さをこの映画でも感じた。この技術は普遍的なものだから、海外でもきっと通用するだろう。どこかの映画祭に出品してみてほしいものだ。