2002/11/18(月)「ショウタイム」

 「シャンハイ・ヌーン」のトム・デイ監督の第2作。というよりも、ロバート・デ・ニーロとエディ・マーフィーの初の共演作と言った方が通りがいいだろう。デ・ニーロは最近、コメディにも数多く出演しているが、その中では良い方の出来になる(それほどつまらない作品が多いのだ、デ・ニーロのコメディは)。かといってこの映画の出来が良いわけでは決してない。原因はまるでリアリティを欠いた脚本にあるのだが、デ・ニーロのうんざりしたような表情とアメリカでは復活を遂げたというエディ・マーフィーのかつてのような面白さの一端を見るだけでもいいか、と思う。

 ただ、この2人の相手をするレネ・ルッソ(個人的には好きなんですがね)や前半に自分自身の役でちょっとだけ出てくるウィリアム・シャトナーも含めて、どうも盛りをすぎたスターたちの共演作という印象は拭いきれない。いや、デ・ニーロはまだまだスターで名優ではあるのだが、いい加減、こういうB級作品ばかりに出ているのはまずいんじゃないか、と言いたくなる。「初の共演作」というのが少しも売りにならないのがつらいところだ。

 ロス市警のベテラン刑事ミッチ・プレストン(ロバート・デ・ニーロ)が事件現場に来たテレビ局のカメラを撃ったことから、上司に強要されてテレビシリーズに出演する羽目になる。俳優志望で落ちこぼれ警官のトレイ・セラーズ(エディ・マーフィー)はプロデューサーのチェイス・レンジー(レネ・ルッソ)に売り込みをかけ、ミッチとコンビを組んでテレビ出演を果たす。ミッチはマスコミ嫌いで、映画やテレビの刑事ドラマのような演技をするのもまっぴらという設定。2人の刑事は対立しながら、強力なマシンガンを作る組織を追い詰めていく。

 典型的なバディ・ムービーの展開でテレビ局が絡むところなど昨年のデ・ニーロ主演「15ミニッツ」を思わせる。デ・ニーロとマーフィーが頑張っているので「15ミニッツ」ほどつまらなくはならなかったが、アクション映画としてはあまり見るべき部分もない。いくらコメディだからといっても、話の設定にまったくリアリティがないのは困ったものだ。3人クレジットされている脚本家のうち、アルフレッド・ガフとマイルズ・ミラーは現在「スパイダーマン」の続編を書いているという。大丈夫か、「スパイダーマン」。

 エディ・マーフィーは少しスリムになってかつてのマシンガンのようなしゃべりを復活させ、悪くない。しかし、かつての強烈なイメージを復活させるのはもはや無理だろう。常識人になってしまったのだなと思う。デ・ニーロは近年、キャリアのプラスにならないような作品ばかりに出ているような印象。アル・パチーノの作品を厳選して出演する姿勢を、見習った方がいいのではないかと思う。

2002/11/11(月)「チェンジング・レーン」

 無理な車線変更をした白人ヤッピーが黒人ブルーカラーの男の車と接触、示談の話もせず、白紙の小切手を押しつけて早々に現場を立ち去る。ヤッピーは弁護士で裁判所に遅れてはと思ったのだ。焦っていたヤッピーは裁判所に提出するはずの重要な書類を現場に落とす。黒人の方も裁判所に行く用事があった。事故のせいで20分遅れ、妻に親権を取られてしまう。黒人は書類を拾っていたが、ヤッピーの仕打ちに腹を立て、返そうとしない。怒ったヤッピーは脅迫のため黒人をコンピューター操作で破産させてしまう。

 という予告編以上のものがあるかどうかあまり期待せずに見たら、面白かった。この脚本はよく考えてある。「チェンジング・レーン」というタイトルは単なる車線変更ではなく、間違った人生の変更も意味しているのだった。

 弁護士が落とした書類はある財団の運営を弁護士の事務所に委託することを証明するものだった。弁護士自身が死にかけた老人にサインさせたものだが、振り返ってみれば老人がサインの意味を理解していたかどうか、疑わしい。そして事務所の経営者2人が財団から300万ドルを横領していたことが分かる。弁護士は経営者の娘と結婚しており、そうした不正を暴けば、自分の首を絞めることになる。それは安楽な生活を捨てることを意味する。妻はすべての事情を知った上で、偽の書類を裁判所に提出するよう頼む。

 なかなか考えてあるシチュエーションなのである。そしてこれはアメリカ映画であるから、当然、弁護士は今まで歩んできたレーンを変更しようとするのだ。弁護士を演じるのはベン・アフレック、黒人ブルーカラーはサミュエル・L・ジャクソン。事務所の経営者をシドニー・ポラックが演じる。アフレックは登場したときには嫌な男なのだが、その後の変化をうまく演じたと思う。

 脚本が優れているのは、安っぽい正義感を否定した上でやはり理想的な結末に至らせていること。ポラックはアフレックに対して、自分は(不正もしているが)トータルでは公益のある仕事をしていると話す。人生はトータルで評価される、善と悪を差し引けば、自分は善だというのが実に偽善者らしい言い分である。普通なら主人公はこうした偽善的な世界からドロップアウトするのかと思うが、これもよく考えた結末となっている。脚本は主人公の心変わりの契機として、車線変更による事故のほかに、事務所に面接に来た青年の理想的な言葉も用意している。ある1日の体験が弁護士をかつて志した道へと戻すわけだ。

 監督は「ノッティング・ヒルの恋人」のロジャー・ミッチェル。見応えのある作品にまとめた手腕に感心した。

2002/11/08(金)「たそがれ清兵衛」

 意外な気もするが、山田洋次77作目にして初の本格的時代劇。そして山田洋次作品の中でもかなり上位にランクされる傑作だ。食事や内職や畑仕事などなど下級武士の日常の描写がしっかりしており、登場人物の深い描き方だけでも、いつまでもいつまでも見ていたくなる。身の丈に合った生活に不平不満を言わず、清貧に生きる主人公の潔い姿勢には深く共感させられる。山田洋次が時折撮る説教くさい映画が僕は好きではないし、この映画にもそんな部分がかすかに残ってはいるのだが、時代劇であることによってそれは薄められている。貧しいけれども真摯に生きる者たちに注ぐ監督の視線がストレートに伝わってくる。藩の命令に逆らえない主人公の姿は現代のサラリーマンとも重なっており、見事なまでの完成度を持つ作品と思う。

 原作は藤沢周平の短編「たそがれ清兵衛」「竹光始末」「祝い人助八」。山田洋次と朝間義隆はこれを清兵衛の娘の視点から組み立て直した。この脚本も相当うまい。庄内地方にある海坂藩の下級藩士・井口清兵衛(真田広之)は仕事が終わると、同僚の誘いも断ってさっさと家に帰るので、たそがれ清兵衛と呼ばれている。清兵衛は五十石の身分で娘2人とボケ始めた母親と暮らす。妻は長患いの末に労咳で亡くなった。もともと貧しい暮らしだが、妻の病気で借金が重なり、清兵衛は虫かご作りの内職をしている。同僚と飲みに行く金もないのだ。しかし、「二人の娘が日々育っていく様子を見ているのは、草花の成長を眺めるのにも似て、楽しいものでがんす」と話す清兵衛に今の生活への不満はない。映画は前半でこうした境遇にある清兵衛の日常をじっくりと描く。

 清兵衛の生き方はストイックで、ある意味ハードボイルドでもある。幼なじみの朋江(宮沢りえ)に思いを寄せているが、貧しい家に迎えれば、苦労させるのは目に見えている。だから清兵衛は思いを打ち明けられずにいる。それをついに打ち明ける場面が泣かせる。剣の腕を見込まれて、家老から無理矢理上意討ちを命じられた清兵衛は、朋江に身支度を頼む。そしてこう話すのだ。「幼いころから、あなたを嫁に迎えることは私の夢でがんした。これから私は果たし合いに参ります。必ず討ち勝って、この家に戻ってきます。そのとき、私があなたに嫁に来ていただくようお頼みしたら、受けていただけるでがんしょか」。静かな言葉の中に熱い思いがあふれる。真田広之と宮沢りえの演技が素晴らしい。

 これに続く上意討ちの場面(田中泯の凄みのある侍は見事)のリアルな殺陣もこの映画の見どころではあるが、まず、清兵衛の生き方と朋江との関係を描きこんだことが成功の大きな要因だろう。物語を語ることにおいて山田洋次の技術は相当高いとあらためて思う。「ロード・トゥ・パーディション」で感じた技術の高さをこの映画でも感じた。この技術は普遍的なものだから、海外でもきっと通用するだろう。どこかの映画祭に出品してみてほしいものだ。

2002/11/03(日)「ザ・リング」

 ドリームワークスのタイトルにジジジとノイズが入る幕開けがいかにもという感じである。非常に良くできたリメイクと思う。ゴア・ヴァービンスキーは去年のワースト「ザ・メキシカン」の監督で、あの映画で技術的に優れたものは皆無と見たが、それが逆にオリジナルに忠実な作りになった要因かもしれない。アメリカでは字幕を付けて公開する代わりにリメイクしてしまうことが普通に行われる。これは日本版の素直な翻訳映画化と言えるだろう。

 もちろん、舞台をアメリカに移し替えることで話の細部は鈴木光司の原作とも日本版映画とも少し異なるのだが、そのニュアンスは日本版映画の方をそのまま踏襲している。冒頭の女子高生2人の描写からクライマックスのような怖さ。見たら1週間で死ぬというビデオを見たシアトル・ポストの記者レイチェル(ナオミ・ワッツ)が死から逃れるために必死の調査を続ける。元夫のノア(マーティン・ヘンダーソン)にもビデオを見せ、あろうことか自分の子供エイダン(デヴィッド・ドーフマン)までビデオを見てしまう。追い詰められたレイチェルはビデオの裏にサマラ(ダヴェイ・チェイス)という少女の存在を見つけ出す。

 サマラが超自然的な能力の持ち主であることは貞子と共通するのだが、貞子より年齢設定はずっと下である。このサマラの調査の過程で怖さが少し薄れるのは呪いに理屈を付けていく部分だからしょうがない(その代わり日本版にはない馬のシーンが用意されている)。日本版の高橋洋脚本がホラー映画として優れていたのは貞子を問答無用の化け物にしてしまったことで、丁寧に葬ったから成仏したかと思いきや、それをひっくり返す終盤の描写が見事だった。日本の観客は「リング」で問題の驚愕シーンを見ているから驚かないだろうが、アメリカの観客はここで度肝を抜かれたのではないか。その描写は日本版と共通しながら、SFXは当然のことながら上だし、サマラの顔はずっと化け物じみている。いやー、怖い怖い。これが昼間の描写ではなく、夜だったらもっと怖かっただろう。

 ヴァービンスキーの演出は荒野に立つ1本の木やサマラの閉じこめられた部屋、夜のとばりが降りてくる描写(真っ赤な楓が夕陽に照らされて赤く輝き、しだいに黒くなっていく)などに視覚的な冴えを見せる。ショッカー的演出が随所にあるのはずるいぞ、と思うが、まず合格点だろう。超能力の持ち主を日本版の高山(真田広之)=ノアからエイダンに移し替えたのは賢明な選択。「サマラを解放したの?」というエイダンのセリフが効いている(脚本は「スクリーム3」「レインディア・ゲーム」などのアーレン・クルーガー)。

 ハンス・ジマーの音楽も日本的な恐怖を盛り上げている。メイクアップのリック・ベイカーはとても怖い死体を見せてくれる。しかし、一番の魅力は美しくて知的なナオミ・ワッツであり、主演女優は日本版(松島菜々子)を軽々と超えていた。

 ヒットしたから続編も作られるのかな。「らせん」のタイトルは「ザ・スパイラル」になるのだろうか。どうせなら、貞子の容貌を借りてさらに暴力的な怖さに発展させた「呪怨」(来年1月公開)もアメリカでリメイクしてほしいものです。

2002/11/01(金)「Dolls ドールズ」

 いつも行く駐車場に止めてある車がやけに多い。これはもしかしたら、G優勝セールのためか、と思ったら、何のことはない「映画の日」だからか(忘れていた)。あまり見に行く映画もないので懸案だった「Dolls ドールズ」にする。北野武監督の第10作。ベネチア映画祭ではかすりもしなかったという作品である。評判はあまり良くなかったので期待しなかったが、そんなに悪い出来ではない。最初の30分ほどをもう少してきぱきと見せれば、もっと良くなっただろう。

 「つながり乞食」というイメージはパンフレットによると、北野武が大学を辞めて浅草で働いていた頃に見た男女を基にしているという。赤い紐で結ばれた男女が美しい風景の中を歩くイメージにはインパクトがある。インパクトはあるが、話の作りはうまくない。結婚を約束していた佐和子(菅野美穂)を捨てて社長令嬢と結婚式を挙げるところだった松本(西島秀俊)は佐和子が自殺未遂を起こし、精神に異常を来したと知らされる。松本は結婚式を放り出して病院に駆けつけ、佐和子を連れて放浪の旅に出る。車の中で暮らすホームレス同然の生活。2人はやがて車を捨てて歩き出す。赤い紐は佐和子が勝手に歩き回らないようにするためだ。

 最初の30分で映画はこうしたことを説明するのだが、ここの手際が悪い。演出が律儀すぎる感じがある。2人は正体不明のオブジェにしてしまって、他のエピソードを語った方が良かったのではないか。もっとも、他のエピソードといっても2つしかない。一つは松原智恵子演じる初老の女が何十年も2人分の弁当を作って公園で男を待ち続ける姿。男は不況のため務めていた工場を辞め、「立派になって迎えに来る」と言い残して姿を消す。女はそれ以来、毎週土曜日に弁当を持ち、待ち続けているのだった。ヤクザの親分になった男(三橋達也)は数十年後に公園に行き、女の姿を見つける。

 もう一つはアイドル歌手の追っかけの男(武重勉)のエピソード。アイドル(深田恭子)が顔にけがをして引退したのを知り、男は自分の目を潰して会いに行く。「たぶん、見られたくないだろうと思って」と男はアイドルに言うのである。これは北野武が自分で言っているように「春琴抄」そのままの話である。

 赤い紐の男女のエピソードも含めて、3つに共通するのは深すぎる愛、あるいは異形の愛を描いていること。それぞれに悪くはないが、オムニバス形式になるところを無理矢理に話をつないだ感もある。赤い紐の男女を描くのなら、あとの2つのエピソードを大きく扱う必要はないし、愛の深さを描くのなら、赤い紐の男女のエピソードをもう少しうまく演出する必要があっただろう。

 北野武が最初に意図したのは日本の四季の風景を美しく撮ることらしく、その点に関しては桜並木や紅葉の森や雪景色が十分に美しく撮られているので成功はしている。北野武はイメージ先行型の演出家なのだな、と思う。

 菅野美穂を映画で見るのは個人的には「エコエコアザラク」「富江」以来。テレビのバラエティ番組で笑顔を振りまく好感度もいいが、こうした無表情な役柄も似合っていると思う。