2011/04/11(月)「彼岸島」

 吸血鬼に支配された島でのサバイバルアクション。松本光司の原作コミックはあまり評判が良くないらしい。映画は血みどろアクション映画としてみれば、そんなに悪くはない。キム・テギュン監督。水川あさみは良い。

2011/02/11(金)「GANTZ」

足を切断し、肉を切り裂き、頭を握りつぶし踏みつぶし、体が破裂する。ニノとマツケンを目当てに見に来た若い女性客を跳ね返すように、佐藤信介監督は序盤のネギ星人との戦いに血みどろの場面を繰り広げる。この次のいかにもロボットのような田中星人との戦いも重厚な迫力とスピード感たっぷり。VFXは普通の出来なのだが、この映画、描写に力がこもってる。田中星人というふざけたネーミングと外見にもかかわらず、この面白さは大したものだ。

 GANTZとはいったい何なのか、星人たちはなぜ人間を襲うのかなどまったく説明されないけれど、映画には主人公が自分の力と使命を自覚していく(ヒーローとして覚醒していく)という1本の筋が通っており、十分に面白かった。就職が決まらない大学生が自分の居場所を見つける話、と比喩的に受け取ってもかまわないだろう。佐藤監督作品としては釈由美子の悲痛な叫びが胸に残ったあの傑作「修羅雪姫」(2001年)につながる作品と言える。序盤のテンポをもう少し速くすれば、胸を張って傑作と太鼓判を押していたところだ。4月公開のパート2にも大いに期待する。

 ここまで書いたところで30巻まで出ている原作の3巻までを読んだ。ネギ星人の場面は微妙に細部が異なるが、ほぼ原作を踏襲している。玄野計(くろのけい=二宮和也)と加藤勝(松山ケンイチ)は地下鉄のホームから落ちた酔っ払いを助けようとして電車にはねられる。気づくと、2人はマンションの一室にいた。そこにはガンツと呼ばれる黒い球体と同じように送り込まれたらしい数人の姿があった。部屋にいるのはいずれも一度死んだ人間だった。GANTZはネギ星人を倒すように指令を出し、玄野たちはネギ星人のいる街に送り込まれる。「ネギあげます」と震える子供のネギ星人を銃(撃った後、間をおいて相手を爆発させる)で惨殺したところで親の凶暴なネギ星人(フランケンシュタインみたいな外見だ)が現れるのがいかにもな展開。ここで送り込まれた数人が殺されるスプラッターなシーンとなる。辛くもネギ星人を倒した玄野たちは気づくと、自分の部屋にいた。しかし、その夜、またしてもマンションの一室に召還されることになる。玄野たちは否応なく、戦いを強いられていく。

 小学生のころ強かった玄野が加藤を助けたという設定からすれば、二宮和也と松山ケンイチの役柄は体格からいって逆の方が良いような気がするが、原作の2人も映画と同じ体格だ。玄野たちは星人と戦うために黒いGANTZスーツを着る。このスーツ、強化防護服(パワードスーツ)の一種で、身体能力を大幅にパワーアップし、攻撃から身を守る。いわば人を超人にするスーツだ。玄野がスーツの威力をためすため階段を高く高くジャンプするシーンは自分の進む道を自覚する良いシーンだと思う。ちなみにこのスーツを着た岸本恵(夏菜)の姿は綾波レイを思わせた。夏菜は昨年の「君に届け」に続いて魅力を発散している。川井憲次の音楽も相変わらず好調である。

 4月23日に公開されるパート2は「Perfect Answer」というサブタイトルが付いている。個人的には謎に満ちた話の真相よりも主人公がヒーローとしてどう成長していくのかが気になる。くれぐれも「マトリックス」のような路線変更はなしにしてもらいたいものだ。

2010/12/16(木)「SR サイタマノラッパー」

 amazonのレビューでは評判が良いが、僕は普通の青春映画と思った。出てくる俳優にイケメンが1人もいないのが逆にリアルか。等身大の映画と言われるのはそういう部分があるからだろう。埼玉県でラップに燃えるニートやフリーターを描く。冴えない青春を描いた作品で、ラップで成功するのかと思えば、そんなにありきたりではない。主人公が「俺たちの第1ステージが終わったところ。これからセカンドステージさ」とバイト先の食堂で歌うクライマックスがしみじみしていて良い。

 監督の入江悠はこれが3作目。長回しが多く、これは元は演劇かと錯覚するほど。もっとカットを割った方がいいと思う。良かったのはAV出演経験がある店員を演じた実際の元AV女優みひろ。さっそうとしているのがとてもクールでカッコ良い。一般映画で十分通用する女優であることを認識した。ラスト近く、大きなスーツケースを抱えて駅の階段を上るシーンは「結婚しない女」のジル・クレイバーグがラストで大きな絵を抱えてフラフラ歩くシーンを思わせた。前途多難であることを匂わせつつ、それに負けないキャラクターであることを示したシーンだ。

2010/10/02(土)「十三人の刺客」

 脚本を担当した天願大介は永井豪「バイオレンス・ジャック」にインスパイアされたのではないか。両手両足を切断され、舌を抜かれた女が登場する場面を見てそう思った。スラムキングによって人犬にされた男女の姿は少年時代に「バイオレンス・ジャック」を読んだ世代に強烈な印象を残している。僕と同世代の天願大介が少年マガジンで「バイオレンス・ジャック」を読み、同じようにトラウマになるような強い印象を持ったという想像はあながち間違ってはいないだろう。そうでなければ、映画「西太后」の線もあるが、「西太后」では舌は抜かれなかったし、描写の衝撃度から見ても「バイオレンス・ジャック」の方が可能性は高い。こういう感想を持った人は多いらしく、ネットで「十三人の刺客 バイオレンス・ジャック」のキーワードで検索すれば、たくさん出てくる。

 となれば、狂気と凶暴さと知性を兼ね備えた将軍の弟で明石藩主の松平斉韶(なりつぐ=稲垣吾郎)はスラムキングの残虐さをイメージしたものなのかもしれない。ただし、三池崇史が撮ると、悲惨な女の描写はお歯黒と引眉のためもあって悲惨さの前にまず化け物のように感じる。まるでホラーだ。このショッキングな場面を子供が見たら、それこそトラウマになってしまうだろう。この女の姿を見せられて、主人公の幕府御目付役・島田新左衛門(役所広司)は心底怒りに駆られ、老中土井利位(としつら=平幹二朗)から命じられた斉韶暗殺を承諾することになる。もう一つ、主人公は見ていないが、縛った女子供たちを斉韶が至近距離から矢で射殺すという恐ろしく残虐な場面も、斉韶暗殺の正当性に説得力を持たせている。単なる凶暴なサイコ野郎ではなく、静かなたたずまいに狂気を忍ばせた稲垣吾郎、適役と言って良いほどの好演である。

 工藤栄一の集団抗争時代劇を47年ぶりにリメイクしたこの作品、エネルギッシュに2時間半近くを突っ走る。旧作はビデオで見たためもあって、クライマックスの抗争で感心したのは剣の達人を演じた西村晃の鮮烈さ、格好良さだけだった。この新作もはっきり言って後半の50分に及ぶ大がかりなアクションは量が多いだけでやや質を伴っていないきらいはあるのだが、松方弘樹の立ち回りの速さを見せてくれただけでも価値がある。松方弘樹、ほれぼれするほどの殺陣であり、松方弘樹を主役に据えたアクション時代劇を撮ってくれと思えてくる。このほか市村正親、平幹二朗、松本幸四郎、岸部一徳らのベテラン俳優たちが脇を固める、というよりも映画の格を大きく引き上げている。

 ベテラン俳優たちのキャラクターに息を吹き込んだ演技があるから、13人の刺客たちのアクションが生きてくる。松方弘樹は「実は殺陣って“動”ではなく、“静”の場面が大事なんです。…緩急をつけることで、より“動”を強調させるんですよ」と語っているが、それと同じことはこうしたアクション映画全体にも言えることなのだ。

 市村正親はかつて西村晃の付き人だったそうだ。キネマ旬報9月下旬号のインタビューで市村正親は「巡り巡って(13人の刺客に敵対する)鬼頭半兵衛を演じるというのも、何か、この映画に縁を感じますね」と言い、その語りには師匠である西村晃への敬愛があふれている。松方弘樹は「僕は今でも父親が日本一立ち回りがうまいと思っています。僕はその父親へ近づけるように頑張ってきたんですよ」と話し、時代劇と父・近衛十四郎への愛情が満ちている。そうした過去の映画と映画人に対する敬意が、このアクション大作にアクションだけに終わらせない幅を与えている要因ともなっているのだと思う。

2010/09/20(月)「悪人」

「そがん風にして生きていかんば。そがん風に人を笑うて生きていかんば」。

 柄本明演じる佳乃(満島ひかり)の父親が佳乃を山道に置き去りにした増尾(岡田将生)に怒りを込めて言う。薄っぺらで見栄っ張りに生きている佳乃と増尾。それとは対照的な地味で控えめに生きざるを得ない清水祐一(妻夫木聡)と馬込光代(深津絵里)。一つの殺人事件を巡る人々を奥深く描いて、「悪人」は間然するところのない出来である。

 李相日監督は極めて映画的なショット(例えば、病院で柄本明から娘の死を伝えられた宮崎美子演じる妻がくずおれる場面をセリフなしのシルエットで演出する)でシーンを構成し、社会から見れば取るに足りない存在、どこにでもいる取り柄のない男女の逃避行を描いて、痛切な青春映画として結実させた。情感を込めた久石譲の音楽も素晴らしく良い。モントリオール世界映画祭での深津絵里の主演女優賞受賞は作品全体に対して与えられたものなのだろう。さまざまなテーマを盛り込みながら、そのスタンスは一般庶民の立場に立ったものであり、だからこの映画のいろいろなショットは強く胸を打つのだ。この大衆性は李相日の前作「フラガール」とも無縁ではない。

 長崎、佐賀、福岡を舞台にしたこの映画は方言で語られる言葉や描写の一つひとつにとても重みがある。映画を見終わった後に細部を振り返りながら、この重さと切実さは野坂昭如「心中弁天島」を映画化した増村保造「遊び」(1971年)に似ていると思った。関根恵子と大門正明の出会いとその道行きの切実さ。それはやはり若い2人の逃避行を描き、青春映画として帰結した「闇の列車、光の旅」(2009年、キャリー・ジョージ・フクナガ監督)とも通じるものだ。「闇の列車…」を見た時、貧しさが背景にあるこういう切実な青春映画は今の日本映画ではもう撮れないだろうと思わざるを得なかった。「悪人」はその考えを見事に打ち砕いてくれた。貧しさは絶対条件ではない。日常に満たされない思いとやりきれなさを抱いた男女の出会いがあればいいのだ。

 もちろん、主演の2人の境遇が十分に豊かなわけではない。光代は佐賀県内の紳士服のフタタに勤め、妹とアパートで暮らしている。冷たい雨の中、自転車で帰れば、妹は男を引っ張り込んでいて、ドアにはチェーンロックがかかっている。ガタガタと寒さに震える光代の姿は凍えそうに空虚な日常を象徴しているようだ。幼稚園も学校も職場も家も国道のそばにあり、光代の人生はこの狭い範囲から外へ出たことがない。一方、祐一は幼い頃に母親(余貴美子)から捨てられ、長崎県の漁村で祖父母(井川比佐志、樹木希林)に育てられた。病気がちの祖父を病院に連れて行き、建物解体の土木作業員として毎日黙々と働き、家計を支える。唯一の趣味は(恐らく中古の)日産スカイラインGTRだ。「海のそばにある家なんていいわね」と言う光代に対して、祐一は「海が目の前にあると、ここから先にはどこにも行けないような気になる」と答える。

 日常に縛られてどこにも行けない人生。どん詰まりの人生を生きている2人が出会い系サイトで知り合い、深く理解し、求め合う。もっと早く出会っていれば良かったのに、と思う。しかし、その時、既に祐一は悲劇的な殺人を犯しているのだ。自首しようとする祐一を光代は引き留め、灯台に向かう。灯台は祐一と母親の悲しい思い出につながる場所だ。灯台でのひとときはそれが終わりを迎えることが分かっているからこそ痛ましい。いったん警察に保護された光代は隙を見て逃げだし、傷だらけになりながら再び祐一のいる灯台、初めて生きる充実感を与えてくれた祐一のいる灯台を目指す。

 佳乃の父親は久留米の寂れた理容店の店主である。軽薄な娘の父親ではあっても、むしろ祐一の側に立つ人間だ。だから怒りの矛先は増尾に向かうのだろう。映画は善良に生きている庶民の立場に立って組み立てられている。李相日と原作者の吉田修一が書いた脚本にはこの点でまったくブレがない。加えて、マスコミに追いかけられる樹木希林の祖母を通して、君塚良一「誰も守ってくれない」のように犯罪加害者の家族の問題も盛り込んでいる。樹木希林の演技は絶妙と言うほかなく、助演女優賞は決まりではないかと思う。

 増尾が乗る車は原作ではアウディA6となっているが、映画に登場するのはアウディQ5。普通の若者には手に入らない高級車であることに違いはない。目の前で佳乃が増尾のこの高級車に乗るのを見た祐一は一瞬、顔を歪ませて激怒する。妻夫木聡、この表情がとてもうまい。嫌な役柄を嫌なキャラクターとしてだけではない深みを交えて演じた満島ひかりと岡田将生も立派。出演者の演技がこれほど充実しまくった映画も珍しい。