2006/11/25(土)「ヨコハマメリー」

 「ヨコハマメリー」パンフレット上映終了後のトークショーが終わった後、ロビーでパンフレットへのサイン会があったので中村高寛監督に気になっていたことを聞いてみた。

 「監督はハードボイルドが好きなんじゃないですか?」

 そんなことを聞いたのはもちろん、この映画がハードボイルドの手法で構成されているからだ。いなくなった人物のことを周辺の人物に聞いてまわることで人物の肖像を浮かび上がらせるという手法。この映画の場合、探偵役は中村監督なのだが、ハードボイルド・ミステリと異なるのは監督がメリーさんの消息だけに関心があって聞いているわけではないところにある。それがなぜなのかはラストで分かる。このラストもこの手法からすれば、必然的なものだったと思うし、予想もついた。この手法は意図的なものなのか、偶然なのか。そこが気になった。

 監督は「好きですよ。なぜですか」と答えた。

 「映画の手法が似ていると思いました」

 「次(の作品)はもっとハードボイルドな実録的なやつです」

 僕はよく映画の感想の中に「ハードボイルドタッチに似ている」と書くけれど、ハードボイルド・ミステリを読んだことがない人にはまず誤解されているだろうなと思う。トレンチコートに帽子をかぶった探偵が出てきたりとかハードなアクションがある映画を想像しているのではないか、と心配になるのだ。僕がハードボイルドタッチと書くときは常に前述したような手法を指している。間接的な描写を積み重ねて焦点の人物像を描く手法を用いた映画のこと。監督の最後の答えは意図的なものではないのでは、という疑問を持たせるものだった。

 それに中村監督は上映前のあいさつで「この映画はメリーさんを描いたものではありません」と語った。ならば、この手法は偶然のものなのだろう。いや意図的かどうかは実はあまり重要な問題ではない。この映画がその手法である程度成功していることが重要なのだ。

 「ハマのメリー」と呼ばれる白塗りに白いドレスを着た高齢の娼婦がいた。背中が曲がったその姿は写真だけで十分にインパクトのあるものだ。1995年にメリーさんは伊勢佐木町から姿を消す。街の人々は「メリーさんはもう死んだ」と確信している。というのが映画の出だし。そこから映画はメリーさんにかかわったさまざまな人物にインタビューしていく。メリーさんを世話したゲイのシャンソン歌手・永登元次郎、エイズを気にする客のためにメリーさんの来店を断った美容室、メリーさんがよく行った酒場・根岸家を知る元愚連隊、メリーさんを取り上げた作家の山崎洋子、メリーさんをモデルにした一人芝居「横浜ローザ」で主役を演じた女優の五代路子、芸者、クリーニング店などなどだ。中でも永登元次郎の在り方が胸を打つ。永登は撮影時点で末期ガンにかかっている。それでもステージに立ち続け、カメラに向かってメリーさんとの交流を語る。永登がメリーさんにシンパシーを持っているのはどちらもマイノリティの立場にあるからだろう。

 中村監督がこの映画に取りかかったのは1997年。10年近くメリーさんを追い、計150時間のビデオを撮ったそうだ。メリーさんの消息は映画のラストで分かるのだが、ついに本人へのインタビューはない。ドキュメンタリーで、ある人物のことを描きたいなら、その人物へのインタビューが分かりやすいと思う。ところが、人間はカメラに向かって嘘をつくことも多いのだ。今村昌平の傑作「人間蒸発」は虚実皮膜を意識して構成した映画だったが、それは発言の中に嘘があることを承知した上で取った手法だったのだろうと思う。この映画でも五代路子がメリーさんの格好をして町中を歩く場面があり、そこに「人間蒸発」と同じような虚実皮膜の面白さを感じた。フィクションとノンフィクションが混じった場面なのである。

 パンフレットに監督は「『メリーさん』を通した、『ヨコハマ』の一時代と、そこに生きた人たちを、ただひとつの現象として撮っただけ」と書いている。だから「ヨコハマメリー」というタイトルであっても監督が描きたかったのは横浜の街と時代とそこに住む人々だったのだろう。ただ、見ているうちにもっとメリーさんについて知りたくなってくる。初めて撮ったドキュメンタリーでこれほどの作品ができれば大したものだが、この手法をもっと焦点の人物を浮かび上がらせる方向で徹底すれば、さらに映画は面白くなると思う。根岸家に集っていた愚連隊たちを取り上げるという第2作に期待したい。

 トークショーで監督が話したことを付け加えておくと、ラストの場面は2003年1月に撮影したものであり、監督はその3年前からこの場所に通っていたそうだ。パンフレットによれば、2004年に永登は死に、メリーさんは2005年1月に亡くなった。

2006/11/14(火)「デスノート The Last Name」

 「デスノート The Last Name」パンフレット先に見た子どもから結末部分をネタバレで聞かされてしまった。最後のトリックを知って見たのだから、僕の感想はそれ以外の部分しかあてにならないことをおことわりしておきます。

 主要登場人物は美男美女ばかり。ライトとLの頭脳戦を描きつつ、これは由緒正しくアイドル映画なのではないかと思う。男性は戸田恵梨香、片瀬那奈、上原さくら、満島ひかりに目を奪われ、女性は正統的な二枚目である藤原竜也と癖のある松山ケンイチに満足するのだろう。金子修介監督、ロマンポルノの時代から女優の趣味が良かった(というかカワイイ系に偏っていた。ガメラシリーズの中山忍もそうだ)が、当然のことながら女性客も意識してサービス精神旺盛だ。前作の瀬戸朝香、香椎由宇も見栄えが良かったけれど、今回もビジュアル面では抜かりがないのである。演技力云々よりも絵として映える女優を選んでいるとしか思えない。だから「デスノート」は前編も後編も結局のところ、気楽に楽しめるアイドル映画なのだろう。アイドル映画としてはストーリーも凝っていて良くできているので、恐らくアイドルを見るために再見する人もいるのではないか。という消極的な評価しか僕にはできない。そんな中、美男の範疇には入らない鹿賀丈史が原作とは違って重要な役回りになっているあたりが面白い。他の若い俳優たちはゲームの駒だが、鹿賀丈史はドラマを背負う役割。ここをもっと強調すると、映画はさらに面白くなっていたのではないかと思う。ドラマが軽く、切実な部分がないのはこうしたゲーム感覚映画の宿命か。

 前編は原作の4巻目あたりまでを映画化したものだが、後編はその後の12巻までをグシャッと縮めて結末を映画独自のトリックに変えてある。原作で最も感心したのは、というか、そこにしか感心しなかったのだが、第7巻の驚愕的な展開。大きなトリックがぴたりと決まって着地する快感があった。ここは重要な部分なのでちゃんと映画でも描かれているが、短いので、衝撃は原作に到底及ばない。最初からライトの策略の一部として描かれるため、原作のように物語をひっくり返す驚きがないのだ。もっとも原作を読んでいる観客には原作通りに描いたにしても、もはや衝撃でもなんでもない。原作を読んだ観客に対するサービスが結末部分の変更で、残念ながら、先に書いたような事情があるので、僕には全然面白くなかった。ただ、小さく感じた原作のトリックよりはよく考えてあると思う。裏の裏の裏をかくだけの原作のトリックを映画でやると、分かりにくく、見ていてバカバカしくなっていただろう。

 というわけで原作を全然知らず、白紙の状態で見た1作目の方が僕には面白かったが、それは当たり前のことなのだろう。それでも言えるのは、今回のラストのトリックはやはり映画独自だった前作のラストのトリックほどうまくできてはいないということ。前作のラストに感心したのはそれが単なるトリックではなく、夜神月という男が悪の主人公であることをはっきりと宣言する場面になっていたからだ。考えてみれば、あれも観客が思いこんでいる物語をひっくり返すトリックだった。今回はよく考えたトリック以上のものではないのである。トリックのためのトリックというレベルでは面白くない。ただ、金子修介の主要キャラを立たせる演出はそれなりに評価されていいと思う。死に神のCGや川井憲次の音楽も相変わらず良かった。

 この日記ではなく、mixiの方の日記を読み返してみたら、原作を9巻まで読み終えた7月1日の日記に僕はこう書いていた。「気になるのは映画の後編がどこまで描くかということ。とても12巻までは無理だろう。第3のキラを出さずに第1、第2のキラ対Lの対決で終わるのではないか。映画の後味を考えれば、キラもLも両方死ぬ結末を僕なら考える」。まあまあの線ではないか。

2006/11/12(日)「手紙」

 「手紙」パンフレット「そんなことしたらあかん、大事なものやんか! そんなことしたらあかん!」。沢尻エリカ扮する白石由美子が兄からの手紙を破り捨てた主人公の武島直樹(山田孝之)に言う。ここで2人の仲が急速に接近してそれで映画は終わりになるのかと思ったら、その後にさらに本当の決着がある。罪を犯した者とその家族、犠牲者の家族の関係。原作は未読だが、そこまで描くのは大したものだと思う。しかし、全体的には主人公が漫才師を夢みることにどうしても違和感があった。山田孝之は本質的に暗いイメージなので、似合っていないのである。非常にうまく演じているのだが、似合っていず、中学の頃から笑いを目指していたとは思えない。とんとん拍子に人気者になることにはもっと違和感があるし、大企業の専務令嬢(吹石一恵)との愛と破局などは破局の場面に一工夫あるとはいえ、吹石一恵が登場した時から先が読める展開。会社の先輩である田中要次の過去と大検を目指す現在の姿などは泣かせるし、杉浦直樹の差別社会の本質を突いたセリフも泣かせる。そうした美点とあまりにもありふれた描写が混在していて、そこが評価をためらわせる。もっともっと脚本を練ることが必要だったのではないかと思う。

 原作が家にあったので、冒頭部分を少し読むと、原作では一人暮らしの老婦人の殺し方に明確な殺意がある。持っていたドライバーを首に刺すのである。映画はもみ合っているうちに老婦人が抵抗するために手にしたハサミが腹に刺さって死んでしまう(これは腹ではなく、首か心臓の方が良かったと思う)。盗み目的で侵入した上での殺人だから強盗殺人罪も仕方ないが、どちらかと言えば、過失致死の線が濃厚である。映画の改変は殺人者の兄に同情を持たせるためだろう。兄が強盗に入ったのは運送会社での激務で腰を痛め、仕事ができなくなったことで弟を大学に行かせられない恐れがあったため。そうした不遇な状況の中で、殺人者の家族に冷たい世間を描いていく。

 「俺みたいなヤツに言われたかねえだろうけどよ、夢があるなら、簡単に諦めんなよ」。リサイクル工場の先輩である倉田(田中要次)が言う。倉田は食堂で働く由美子が直樹にクリスマスプレゼントを贈ったことで、「最近の若いやつはやることは早いんだから」などと嫌がらせをするのだが、実は倉田自身、服役経験があり、直樹の兄の手紙を見てすべてを理解する。そして家族が誇れる父親になりたいと、大検を目指していることを告白するのだ。こういう地道な話で終わっても良かったのではないかと思う。直樹は「夢をあきらめるな」というアドバイスに従って工場をやめ、お笑いの道を友人の寺尾祐輔(尾上寛之)とともに目指すことになる。そこからの描写が安っぽい上にリアリティに欠け、映画はしばらく停滞してしまう。それが復調するのはお笑いをやめ、秋葉原の電気店で働く直樹が埼玉の倉庫へ左遷させられる場面から。倉庫を訪れた会社の会長(杉浦直樹)は「差別があるのは当然だ」と話す。「しかし、君は差別のない場所を探すんじゃない。ここで生きていくんだ」と言う杉浦直樹の言葉は力強く、直樹に言葉をかけた理由が由美子からの手紙だったことが胸を打つ。由美子自身、父親が多額の借金を背負って逃げ回った過去があるが、「私はもう逃げへん」と決意しているのである。その由美子の決意はたった一人の肉親を大事にするべきだという前記のセリフに表れている。

 こうした細部のエピソードは非常にうまい部分もあるのに、ぎくしゃくした感じが映画にはつきまとい、そこがとても残念だ。生野慈朗監督はテレビのベテランディレクターで、映画としては「いこかもどろか」(1988年)「どっちもどっち」(1990年)の2本が既にある(「いこかもどろか」は公開当時、映画評論家の山田宏一が絶賛していたが、見ていない)。描写がテレビドラマ的というのは短絡だけれど、お笑いの場面はテレビドラマを超えるものではなかったと思う。ついでに言えば、沢尻エリカが途中で眼鏡を外すのもよく分からない。最後まで眼鏡の方が良かった。「電車男」でも思ったが、山田孝之は男から見ても好感度がある。玉山鉄二は「逆境ナイン」とは全然違う役柄をうまく演じていて、これまた好感が持てる。

2006/10/07(土)「フラガール」

 「フラガール」チラシ昭和40年、福島県の常磐炭坑でハワイアンセンター開業のためにフラダンスに打ち込む少女たちを描いた李相日(リ・サンイル)監督作品。チームには長年続いてきた炭坑生活から抜け出したい少女と夫が炭坑を解雇され、生活のためにフラダンスの道を選ぶ主婦とが混在する。いずれも後がない状況の中だけに登場人物のそれぞれの行動には胸を打たれる。炭坑の男たち女たちの古い価値観とフラダンスを選んだ人々との新しい価値観の対立は視点としては前例がいくらでもある平凡なものだが、李監督は細部のエピソードで話に説得力を持たせている。お決まりのストーリーにどう工夫を凝らすかについては文句はないし、蒼井優、松雪泰子のダンスも素晴らしい。しかし、どこか突き抜けた部分がない。大衆性を備えており、全体的によくまとまったウェルメイドな作品であることは認めるが、どうも手放しで絶賛しにくい部分が残った。寺島進演じるやくざっぽい人物の描き方が不十分とかそういう些末な問題を越えて、この映画には脚本の構成上のちょっとした計算違いがあるように思う。

 落盤の危険を意識しながら死と隣り合わせで炭坑に潜る炭坑夫たちにとって、フラガールたちが客の前で踊って媚びを売って金をもらう存在としか思えないのは当然のことだろう。そのフラガールたちがどう古い価値観の人たちの理解を得ていくかが大きな見どころ。それは蒼井優が練習の末に身につけたダンスを母親(富司純子)に見せるシーンであったり、寒さで枯れそうになった椰子の木を助けるために組合幹部に土下座してストーブを貸してくれるよう頼む男の姿であったりする。ふわふわした気持ちで取り組んでいるわけではない。自分たちも必死なのだという姿勢があるので、観客の心をしっかりとつかむ展開になっている。そしてフラダンスに反対していた富司純子が「木枯らしぐれえであの子らの夢を潰したくねえ。ストーブ貸してくんちぇ」とリヤカーを引くようになる場面が個人的には最も感動的な場面だった。

 この価値観の対立が解消してしまうと、あとは付け足しのように思える。だからハワイアンセンターがオープンし、そのステージで踊るフラダンスの高揚感が今ひとつ効果的にはなっていない。付け足しだから仕方がないのだ。このステージを見た母親が心変わりするという展開の方がクライマックスの感動は大きくなったのではないか。いや、母親でなくてもいい。組合幹部にハワイアンセンターに強硬に反対する人物を設定しておいて、その人物の心変わりを描いても良かったと思う。クライマックスの蒼井優のフラダンスはそのうまさには感心するが、心に響かないのは既に母親の前で素晴らしいダンスを見せているからだ。そして残念ながら、クライマックスを意識したためか、母親の前でのダンスは短く、十分に堪能させてくれた「花とアリス」のクライマックスのバレエシーンには及ばない。あのストーリーの流れから生じた情感とバレエの技術が一体となったような在り方がこの映画のクライマックスにも必要だったのだと思う。

 このクライマックスにはフラダンスと並行して相変わらず炭坑に向かうトロッコに乗る豊川悦司たちの姿が描かれる。ここをもっと強調したいところではある。例えば、同じく炭坑の町を舞台にした「遠い空の向こうに」(ジョー・ジョンストン監督)では古い価値観を持つ父親(クリス・クーパー)をもまた肯定的に描いていた。あるいは「リトル・ダンサー」(スティーブン・ダルドリー監督)でも頑固な父親の存在が大きかった。この映画はこうした前例を参考にしているだろうから、もっと新旧の価値観の対立と和解に工夫があっても良かったのではないかと思えてくるのだ。そのあたりのオリジナリティーの欠如が惜しいところで、手放しの絶賛をしにくい理由になっている。

 ビールを片手に登場し、たばこをスパスパ吸う松雪泰子の役柄は過去に問題があったことをうかがわせる。それを具体的に描写しないのはハードボイルドな在り方で悪くはない。蒼井優ら生徒たちに見せるダンスは彼女たちにダンスの魅力を伝えるのに十分な出来で、キャラクターに深みを与える演技も含めて松雪泰子がここまでうまいとは思わなかった。豊川悦司や岸部一徳らの演技もいい。

2006/09/23(土)「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」

 「ウルトラマンメビウス&ウルトラ兄弟」パンフレットウルトラマンシリーズ生誕40周年記念作品。出てくるのは初代ウルトラマン、ウルトラセブン、帰ってきたウルトラマン(今はウルトラマンジャックと呼ばれる)、ウルトラマンエース。どれもリアルタイムに見ていたので、黒部進、森次晃嗣、団時朗、高峰圭二が出てくると、懐かしさがこみ上げてくる。そういうノスタルジックというか40年の歴史の重みを一番感じさせるのはエンドロールで、桜井浩子やひし美ゆり子、星光子まで顔を出すのが何というか感涙ものである。桜井浩子はウルトラマンの後、実相寺昭雄の映画に出ていたし、ひし美ゆり子も東映映画などに出ていた(というか桜井浩子はウルトラマン以前からかなりの映画出演歴がある)。

 メビウスの物語にウルトラ兄弟の面々を絡ませた展開は悪くないのだが、怪獣に襲われて心を閉ざした少年のエピソードに魅力を感じない。作劇としてうまくないのだ。加えて、GUYSの戦闘機のいかにもオモチャ然とした造型および質感は僕には見ていく上での障害でしかなかった。板野サーカスと言われるCG監督板野一郎のCGも取り立てて騒ぐ出来ではない。小中和哉監督作品としては大人の観賞を意識して作った前作「ULTRAMAN」(2004年)の方が面白く、今回の映画は子供向けストーリーの域を出ていないのが惜しい。マニアは喜ぶだろうが、ウルトラマン世代向けなのは懐かしさだけなのである。

 20年前、異次元超人ヤプールの怨念で生まれた究極超獣Uキラーザウルスをウルトラ兄弟は協力して神戸沖に封印する。パワーを使い切ってしまったために4兄弟は変身能力を失い、以後は市井の民間人として暮らしていた。そして現在、GUYSのヒビノミライ(五十嵐隼士)は神戸に異変を感じて一人出動する。テンペラー星人、ガッツ星人、ナックル星人、ザラブ星人の宇宙人連合がUキラーザウルスを復活させようとしていたのだ。ミライは現れたテンペラー星人をメビウスに変身して倒すが、その戦いで宇宙人連合に能力を知られ、倒されて十字架に架けられてしまう。ウルトラ兄弟はメビウスを救うために死を覚悟して変身する。しかし、宇宙人連合の狙いは4兄弟の方にあった。兄弟のエネルギーでUキラーザウルスを復活させたのだ。

 これが本筋でサイドストーリーとして描かれるのが、天才科学者ジングウジアヤ(いとうあいこ)の弟で怪獣に襲われて心を閉ざしたタカト(田中碧海)の話。タカトはGUYSとウルトラマンメビウスにあこがれていたが、一緒にいた愛犬を救おうとしなかった自分を責めていた。この話がどうもテレビシリーズレベルの話である。子供を意識したのだろうが、全体の流れから言えば不要としか思えない。クライマックスは巨大化したUキラーザウルスとウルトラ兄弟の戦いをCGを駆使して描く。ここはそれなりに見応えはあるものの、これがこの映画の魅力かと言えば、そうでもないだろう。子供なんか意識しなくていいから、ガチガチの4兄弟の話にした方が良かったように思う。

 気になったのはミニチュアの神戸の街並みに登場する着ぐるみ怪獣たちのリアリティ欠如。平成ガメラシリーズも着ぐるみだったのに、あれはどうしてあんなにリアリティを持ち得たのか。たぶんドラマとエモーションががっちり組み合わさっていたからだろうと思う。ウルトラマンシリーズでも「ウルトラセブン」が名作だったのは脚本家・金城哲夫の存在が大きかった(どうでもいいが、この夏、石垣島に行った際、金城哲夫作品のDVDボックスのテレビCMが盛んに流れていた。沖縄では金城哲夫の名前でDVDが売れるのか)。映画の中にも引用されるキングジョーとの戦いや最終話のドラマティックさがこの映画にも必要なのだろう。小中和哉、次もウルトラマンを作るなら、脚本にもっと力を入れて欲しいと思う。