2004/02/02(月)「太陽を盗んだ男」

 25年ぶりに見る。いやテレビ放映時には見ているが、完全版じゃないでしょ。

 公開当時、井上尭之の音楽にしびれてサントラを買った。池上季実子は記憶よりもきれいで、セリフのしゃべり方がいかにも70年代風。などなど懐かしさに浸りながら見ることになったが、面白さは変わらない。

 今、こういう映画を作ると、テロ対国家という視点になるかもしれない。長谷川和彦監督は全共闘世代だから、テロリスト(しかし、思想的背景はない)の側に立って映画を組み立てている。70年代を引きずりつつ、エンタテインメントにした手腕は今も新しいと思う。

 助監督に相米慎二、製作進行に黒沢清がクレジットされている。キネ旬2位。当時買っていた「ロードショー」では読者の投票で1位になった(故大黒東洋士が「1位になるほどの作品か」と噛みついた)。ちなみにこの時のキネ旬1位は「復讐するは我にあり」。

 DVDは「コンポーネント・デジタル・ニューマスター使用の究極の高画質を実現したプレミアム版」とされているが、画質はそれほどでもなく、音が割れる場面もあった。

2004/01/27(火)「半落ち」

 原作に忠実な作りで前半はあまり感心する部分もないなと思いながら見ていた。原作は取り調べに当たる刑事・志木や検事・佐瀬のハードなキャラクターに面白さがあったが、柴田恭平、伊原剛志ではやや軟弱な感じがあるのだ。しかし、クライマックスで佐々部清得意の演出が炸裂する。梶総一郎(寺尾聰)が妻を殺すに至った経緯と殺してからの2日間の秘密が法廷で明らかになる場面。それまでの抑えた演出とは打って変わって佐々部清はここを情感たっぷりに演出するのだ。アルツハイマーの妻役・原田美枝子の自然な演技と樹木希林の熱演が加わって胸を打つ場面になっている。こういう大衆性が佐々部清の利点と言えるだろう。このあたりからおじさん、おばさんが詰めかけた場内はすすり泣きである。

 ただ、クライマックスの人を動かす演出に感心しながらも、全体としては凡庸な部分も目に付く。映画にゲスト出演している原作者の横山秀夫は「映画『半落ち』はですから、佐々部監督率いる『佐々部組』の『読み方』であり『感じ方』であるということができます」と書いている。その通りで、これは佐々部清の解釈なのであり、題材を自分に引き寄せた映画化なのである。佐々部清はミステリーよりも人情の方に重点を置いた。というか、これまでの2作「陽はまた昇る」と「チルソクの夏」を見ても、そこに重点を置くしかなかったのだと思う。それが悪いとは思わないし、大衆性を備えたことによってこの映画はヒットしているのだから、勝てば官軍ではあるのだが、割り切れない部分も残る。佐々部清は自分流の演出で映画を成功させたけれど、同時に一通りの演出法しか持っていないという限界も見せてしまったようだ。

 原作は6人の視点から語られる。映画は一番最後の刑務官を登場させず、裁判の場面にクライマックスを持ってきた。上映時間が限られる以上、この脚本(田部俊行、佐々部清)の処理は悪くないが、残念なのは警察と検察の裏取引や記者と警察の取引が通り一遍の描写になってしまったことと、弁護士や裁判官のキャラクターの掘り下げが(國村隼、吉岡秀隆の好演を持ってしても)足りないことだ。十分に描く時間がないなら、もう少しスッキリとまとめた方が良かっただろう。

 映画の本筋は骨髄移植とアルツハイマーを通した命の絆や「誰のために生きるのか」という問いかけ、魂を失った人間は生きているのか死んでいるのかという設問にあるのだから、こうした部分をもっと前面に持ってきた方が良かった。同時に梶が妻を殺さなければならなかった苦悩も描き込む必要があった。深刻な顔をし続ける寺尾聰だけでは弱いのである。

 僕は佐々部清の演出が嫌いではない。1、2作目を手堅くこなした後の3作目の今回はホップ・ステップ・ジャンプになるはずが、ホップ・ステップ・ステップにとどまったなという印象がある。次作では本当のジャンプになることを期待したい。

2004/01/03(土)「大日本帝国」

 1982年の作品で第1部「シンガポールへの道」、第2部「愛は波濤をこえて」の計3時間。昨日、第1部を見て、きょう第2部を見た。

 笠原和夫脚本、舛田利雄監督作品で、公開当時、僕はこのとんでもないタイトルから「ケッ、右翼映画め」と思って見のがしたのだった。「昭和の劇」を読んで無性に見たくなったが、ビデオ店にもなかったので購入した(DVD発売は昨年12月21日。これから入るかもしれないし、大きなビデオ店にはあるだろう)。

 東映ビデオ「夏目雅子メモリアル」の1本となっている(収益の一部を骨髄移植財団と夏目雅子ひまわり基金に寄贈するそうだ)。なるほど、でなければ、DVD化されなかったのかもしれない。夏目雅子は確かにこの映画でもきれいだが、それよりも関根恵子(当時)の印象が強烈。したたかな下町女性を演じて説得力があるし、悲劇的で凄惨な場面が多いこの作品の締めくくりを晴れやかなものにしている。いつの時代も強い女性は素晴らしい。

 しかし、とりあえず、こちらの興味は笠原和夫脚本にある。「二百三高地」のヒットに気をよくしたプロデューサーが太平洋戦争の勝ったところばかりピックアップしてつなぐという企画を出したのに対して、笠原和夫は逆にシンガポール、サイパン、フィリピンと激戦地ばかりをつないで脚本を書いた。根底に流れるのは天皇の兵士として召集され、死んでいった兵士たちの恨みつらみである。といっても、兵士たちは天皇非難の言葉を直接吐くわけではない。フィリピンでB・C級戦犯として裁判にかけられた西郷輝彦は絞り出すような声でこう言う。

 「大元帥陛下が我々を見殺しにするはずはなかでしょ。我々は天皇陛下の御楯になれと言われてきたとです。そう命じられた方がアメリカと手を結んで我々を見捨てるなんちゅう事は絶対にありません。日本政府はポツダム宣言を受諾したとしても、天皇陛下はたとえお一人になられたとしても、必ずわたしらを助けにきてくださるはずです。こげな、いかさまみたいな裁判で死刑にされて浮かばれますか」。

 笠原和夫が偉いのはこういうセリフを用意する一方で、戦友を殺した米軍に対する憎しみを所々に描いていることだ。単純な正義感でもなく、理想主義でもなく、戦争の現実を描写し、上が始めた戦争によって苦しめられる庶民の姿を浮き彫りにしていく。

 年末に放送されたNHK「映像の世紀」(これは8年前のものだった。もうそんなになるのか)を再見して改めて面白いと思ったが、こうしたニュース映像、記録映画から抜け落ちるのは庶民の思いなのだろう。太平洋戦争の始まりから終わりまでを描く「大日本帝国」にあるのはそうした庶民から見た戦争である。監督が舛田利雄なので必ずしもすべてが成功したわけではない(舛田利雄はサイパンの玉砕シーンをどう撮れば良いか分からないと笠原和夫に相談したそうだ)けれど、焦点深度の深い笠原脚本を堪能できた。

2004/01/02(金)「ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS」

 一部マニアには評価の高い手塚昌明監督の3作目のゴジラ。手塚監督の1作目「ゴジラ×メガギラス G消滅作戦」は設定の斬新さに感心したが、ドラマ的には弱かった。2作目の「ゴジラ×メカゴジラ」もドラマの弱さがVFXの良さを減殺していた。今回も同じようなことになっている。しかも3作目となって、いささかマンネリじみた感じもある。ストーリーは前作からそのままつながっており(前作の主人公釈由美子が冒頭に出てくる)、これに43年前の「モスラ」の設定を加えてある。しかし、話が簡単すぎる。新機軸よりは安全パイを選んだ姿勢が垣間見えるのだ。金子修介「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」がなぜ面白かったのか、手塚監督はよく考えてみる必要があるだろう。

 今回はメカゴジラ(機龍)の整備士・中條義人(金子昇)が主人公である。機龍は前作でのゴジラとの死闘で壊れ、修復作業中。中條の叔父(小泉博)は43年前、インファント島で小美人(ザ・ピーナッツですね)とモスラに遭遇した。その叔父の別荘に小美人(今回は長澤まさみと大塚ちひろ)が訪ねてくる。「人間がゴジラの骨から戦いの道具を作ったのは大きな間違いです。人間は神ではありません」と機龍の使用を止めるよう求め、機龍の代わりにモスラが戦うというのだ。やがてゴジラが海中から姿を現す。そして約束通りモスラも出現し、ゴジラと戦うが、圧倒的な強さのゴジラに歯が立たない。首相(中尾彬)は機龍の出動を命じ、東京でゴジラ、モスラ、機龍の死闘が始まる。

 ゴジラのDNAから作られた機龍は前作でゴジラに共鳴し、暴走してしまった経緯がある。DNAから兵器を作ることの是非、その技術そのものの是非が前半には基調としてあるが、怪獣バトルが始まると、そんなテーマは消えてしまう。脚本の詰めが相変わらず甘いと思えるのはこういう部分。機龍の存在は核兵器と重なるし、自衛隊の在り方も現在のイラク情勢を思わせもする。こういう話を突き詰めていけば、なにもモスラを登場させなくても良かったのではないか。ゴジラとメカゴジラだけでは前作と同じになり、興行上の配慮として人気のあるモスラを登場させたのであろうことが見え見えだ。

 VFXは着ぐるみ怪獣ものとしては水準的で、取り立てて見るべきところはない。僕はゴジラ映画にVFXを期待して見に行くわけではないからこれは構わない。要は話なのである。話の面白さがなければ、着ぐるみ怪獣映画は成立しない。話の面白さで着ぐるみが気にならないようなゴジラ映画を作ることに手塚昌明はもっと心を砕いた方がいい。

 ゴジラ生誕50年の次作は「怪獣総進撃」みたいな映画になるらしい。明らかにこれも興行上の考えが先行した企画と言わねばなるまい。制約が多い中でそれをどう成立させるのか、どう面白い映画を作るのか、今回のような安易な発想ではダメだと思う。こちらの予想を裏切る映画になることを切に望む。

2003/11/28(金)「阿修羅のごとく」

 「人生は、時々晴れ」のマイク・リー監督が一直線に厳しい現実を見つめる手法であるなら、この映画はカリカチュアライズしたドラマの中に真実を込める。こちらの方が従来の映画の手法だろう。森田芳光監督は小手先の技術に走らずに手堅くまとめている。4姉妹のうち3女・滝子(深津絵里)の前半のエピソードのみ、相手役の中村獅童も含めて演技がオーバーすぎる感じだが、この部分は森田調を貫いたということか(中村獅童は「ピンポン」とはまったく異なるコミカルな面を見せておかしいけれど、僕は作りすぎの演技と思う。普通、ああいうタイプと結婚を考えるか?)。

 クスクス笑わせるエピソードの中に重たいセリフがあってとても面白く見たが、次から次にもめ事が起こる作りはいかにも毎週クライマックスを用意しなくてはいけないテレビドラマが基になっているなという感じがする。エピソードの羅列に終わった観もあって、全体として深い味わいを出すまでには至っていない。難しいところだが、エピソードのどれかを端折って、もっとメリハリを付けた方が良かったと思う。どのエピソードも等価な感じなのである。

 時代は昭和54年。老いた父(仲代達矢)に愛人がいることが分かる、というのが騒動の発端で、久しぶりに集まった4姉妹は母(八千草薫)の耳には入れないようにしようと話し合う。映画はここから4姉妹のさまざまな事情を描き出す。長女綱子(大竹しのぶ)は料亭の主人(坂東三津五郎)と不倫中。次女巻子(黒木瞳)の夫(小林薫)は会社の部下(木村佳乃)と浮気中。潔癖性の3女滝子(深津絵里)は父の浮気調査を頼んだ興信所の勝又(中村獅童)とつきあい始めたところ。奔放な4女咲子(深田恭子)は新進のプロボクサー陣内(RIKIYA)と同棲している。これに滝子と咲子の子供時代からの確執が絡み、父の浮気にまったく気づかない様子の母の描写があり、父とその愛人(紺野美沙子)の描写もあって映画はホントに盛り沢山である。

 エピソードのほとんどが男女関係を描いているにもかかわらず、まったく生臭さを感じさせない作りもまた、基がテレビドラマであることを痛感させる。どろどろした部分を封じ込めて、あるいはチラリと覗かせるだけで、性を描くのはテクニックとしては高等なものだと思う。

 冒頭の鏡開きのシーンから食事の場面がこれほど多い映画も珍しいが、ホームドラマなのだから当然か。向田邦子脚本のドラマではよく食事のシーンが出てきた。「寺内貫太郎一家」などは毎回、卓袱台をひっくり返すシーンがあったような印象がある。小津安二郎の映画を見れば分かるように、家族のドラマは冠婚葬祭のどれかに収斂させていくのが普通である。この映画も終盤に葬儀の場面があるので、ここで終わりかと思ったら、その後に咲子が万引をして店員から脅迫を受けるシーンが描かれる。

 これは滝子との和解に至るエピソードなので、必要なのは分かるのだが、葬儀の場面にまとめた方がスッキリしただろう。

 出演者はそれぞれにうまい。大竹しのぶと不倫相手の妻桃井かおりの対決などは火花が散るようだし、小林薫は相変わらず飄々としていておかしい。4姉妹の中では夫の浮気を疑いながらも、信じたくない妻の揺れ動く気持ちをうまく表現した黒木瞳が良かった。実質的な主人公であり、単にきれいなだけの女優ではないことをこれで示したと思う。黒木瞳の娘役の長澤まさみにはあまり出番がなく残念。

 時代設定は今から25年前だが、もっと前の昭和30年代のような雰囲気がある。恐らく日本のホームドラマは昭和30年代の家族の姿に原型があるのだろう。