2013/06/24(月)「ヘルプ 心がつなぐストーリー」
黒人メイドたちへの人種差別を描いた映画だが、出てくる女優がいずれも好演していて女性映画の趣がある。主演のエマ・ストーンは相変わらず良く、ジェシカ・チャステインのうまさも光る。憎まれ役のブライス・ダラス・ハワードも褒めるべきかも。
2013/06/24(月)「きっと、うまくいく」
原題の“3 Idiots”は「3人のバカ」という意味で、インドで歴代興収ナンバーワンになったコメディだ。細部にさまざまな粗が目立ち、僕には普通のコメディに思えた。
パンフレットには「学歴競争が過熱する現代のインドが抱える教育問題に一石を投じ」とあるが、主人公のランチョー(アーミル・カーン)は大学でトップの成績を残す。親友のファルハーン(R・マーダヴァン)とラージュー(シャルマン・ジョーシー)は最下位と下から2番目だが、名門工科大学ICEの中での順位だから世間的には全然バカじゃないエリートだ。
卒業後、1番のランチョーが2番のチャトゥル(オーミ・ヴァイディヤ)に勝つという展開になると、なんだ学歴社会を否定してるわけじゃなくて、成績は大事ですよという当たり前の結論になってしまうじゃないか。観客をなめてるんじゃないのか、この脚本。
この3人、バカなことはするけれども、バカじゃない。愛すべき善良な3人だ。友情を大事にする善良な人間が、成績は良いけれどもイヤな人間に勝つというのはエンタテインメント映画の王道の作りと言える。この王道に沿うのなら、三流大学の学生、あるいは大学に行っていない人間が一流大学の学生に勝つという展開にした方がテーマはより明確になったし、好ましかったのではないかと思う。
最近のインド映画は以前より上映時間が短くなったらしいが、これは170分。はっきり言って、この内容なら2時間程度にまとめてほしいところだ。コメディとしての新機軸はないし、いくつかある下ネタで僕は頬が引きつったが、映画は上映時間の長さも含めて十分な大衆性を持っている。この大衆性は美点なので、ラージクマール・ヒラニ監督、次はもっと脚本を練り、高いところを目指して欲しいと思う。
2013/06/09(日)「はじまりのみち」
疎開のために病気の母親(田中裕子)を乗せたリヤカーを17時間も引いて山道を歩き、旅館に着いた木下恵介こと正吉(加瀬亮)は旅館に入る前に手ぬぐいをしめらせ、母親の顔を拭き、髪に櫛を通す。雨に降られた道中、母親の顔には泥が跳ねていたのだ。身だしなみを整えさせる正吉の仕草とキリッとした母親の姿を見て強烈に心を動かされた。親子の情愛とか思いやりとか、そういうことを頭で理解する前にそうした行為自体に心を動かされるのだ。これが実写映画初めてとは思えない原恵一監督の描写の力をまざまざと見せつけるシーンだ。
結論から言ってしまえば、再び監督になることを決意して浜松に帰る正吉が暗いトンネルの中に入っていくシーンまでは今年のベストテン上位間違いなしの傑作、と確信していた。しかし、その後に木下恵介の戦後のフィルムが流れる場面で感動がすっかり冷めてしまった。映画の中で描かれたさまざまなエピソードが木下恵介の映画にどれほど生かされているのかはよく分かるし、ああなるほどと納得するのだけれど、これ、全部なくてもかまわないと思う。納得と感動とは違うのだ。
もちろん、「木下恵介生誕100周年」というパッケージのもとに作られた映画なので、こうしたシーンがあるのは仕方がないのだが、僕には余りにも余計と思えるシーンだった。この映画を見て、木下恵介に興味を持った観客が自分でDVDなりブルーレイなりで過去の作品を見ればいいだけのことで、このシーンはお節介にしか思えないのである。
映画の中で教師に扮した宮崎あおいに子どもたちが駆け寄るところを遠くから見る正吉のシーンは言うまでもなく、「二十四の瞳」だ。僕は「破れ太鼓」を見ていないのでカレーライスから連想することはできなかったし、「楢山節考」を見ていても母親を背負うシーンで連想することもできなかった。そんな観客はたぶん多いのだろうが、だからと言って、説明過多になる必要はまったくなかった。
急いで付け加えておけば、このシーン以外は素晴らしいとしか言いようがないのだ。正吉の兄(ユースケ・サンタマリア)は「自分の両親ほど正直な人を見たことがない」と旅館で便利屋の濱田岳に話す。働きづめに働いて大きな商店を構えるようになったが、それでも両親は使用人より早起きして仕事をしていたという。あるいは、正吉たちが着いた時、夫婦げんかをしていた旅館「沢田屋」の夫婦(光石研、濱田マリ)は正吉たちが17時間も歩いてきたことを知ると、「それはえらいことで」と、病人が一緒であっても温かく正吉たちを迎え入れる。そんな一つひとつの描写がことごとく良いのだ。
だからパッケージングに収斂されていくのがもったいないし、残念でならない。こうした細部の描写と魅力的なエピソードを作れるのであれば、実写映画監督としての原恵一はかなり期待できる。次回作では余計なパッケージングのない原恵一独自の映画を撮ってほしいものだと切に思う。
2013/06/03(月)「リアル 完全なる首長竜の日」
序盤の描写は佐藤健と綾瀬はるかの甘いラブロマンス映画を予想して見に来た観客に豪快な背負い投げを食らわせる。デートムービーに選ぼうものなら、彼女から恨まれること必定。しかし、素晴らしい。黒沢清監督の過去の某作品を思わせる描写の在り方だ。黒沢清の描写力は一流だなと思う。
中盤は、これは原作の力なのだろうが、「ほーっ」と感心させられる。こういう展開、過去の映画にもあるんですけどね、それでもこれは感心せざるを得ない。ところが、残念ながら終盤の展開が序盤、中盤のかなりの出来の良さに比べれば極めて普通だった。首長竜のCGの良さを考慮しても、もっとエモーションをかき立てるような展開にした方が良かったと思う。でも、見て損はない映画であり、一切の予備知識なしに見るべき映画だと思う。
この映画のパンフレットは「映画鑑賞後にお読みください」と中ほどに封印がある。その封印の中にある塩田明彦監督の批評が的確。そうそう、そうだと納得させられる。しかし納得はしても、やはり終盤が惜しいという気持ちに変わりはない。これ、ミステリとしての解決ではなく、SFとして終わった方が良かったのだ。ああそういうわけですか、と理に落ちてしまうと、面白くない。黒沢清監督は首長竜を実際に出すことで、それに抵抗しようとしているが、広がった話が縮小してしまう感じは拭いきれていない。以下、ネタバレはしませんが、内容に触れるので「映画鑑賞後にお読みください」。
「どうしてかな……生まれたときからずっとこうやって一緒にくらしているみたいな気がする」
「これからだってずっとそうだよ」
映画は藤田浩市(佐藤健)と和淳美(かず・あつみ=綾瀬はるか)の幸福な場面で幕を開ける。1年後、淳美は自殺未遂で昏睡状態になっていた。浩市は自殺未遂の真相を探るため、先端医療センターでセンシングという技術を使い、淳美の意識の中に入っていく。というのが予告編で描かれた内容だ。
センシングは脳波を増幅して相互に伝え合い、仮想現実の中でコミュニケーションを図る技術。センシングを行った後、浩市の周辺には仮想現実に出てきたものが現れてくる。現実を仮想現実が侵蝕してくるわけだ。ここで思い出さずにはいられないのが、幽霊が侵蝕してきて現実世界が崩壊していく黒沢清の「回路」(2001年)。あの傑作ホラーSF、破滅SFのような展開を期待してしまうのも仕方がない。
映画に登場するフィロソフィカル・ゾンビは表面だけの記号のような存在として乾緑郎の原作では描かれているそうだが、黒沢清はこれをかなり不気味に描いている。これについて黒沢清はパンフレットのインタビューでこう語っている。
「ゾンビ」という名称に引きずられて、知らず知らず「よみがえった死体」、つまりリビング・デッドを出してしまいました。それに、死体がよみがえって動き出すという描写は一度やってみたかったし(笑)。これは、「ゾンビ」という言葉に反応した僕の、一種でたらめな暴走です(笑)。
こういう暴走は大好きだ。原作の70%ぐらいは脚色で変更が加えられているらしい。スタニワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」も意識したというこの脚色は成功している。中盤の大きな仕掛けまでは傑作、という思いは揺らがない。だから、かえすがえすも終盤の展開が惜しい。ここも徹底的に改変してしまえば良かったのにと思わざるを得ない。
「贖罪」の小泉今日子が主人公の母親役でゲスト出演的な登場をしている。オダギリジョーや染谷将太、中谷美紀らの助演陣も良かった。
2013/05/26(日)「セデック・バレ」
長いけど平凡。いや、長くて平凡か。「第1部 太陽旗」2時間23分、「第2部 虹の橋」2時間11分。合わせて4時間34分もある。平凡に感じるのは語り方が単調なためで、「霧社事件」という題材はとても良かったのに惜しい。3時間ぐらいにぎゅっと凝縮した方が良かったと思う。
霧社事件は1930年、日本統治下の台湾で起きた抗日暴動事件。原住民族であるセデック族の戦士300人が駐在所を襲撃し、運動会に参加していた134人の日本人を殺害した。セデック族は敵を殺し、首を刈ると勇者として認められる。だから霧社事件も血を捧げる儀式としてとらえている。問題は事件に至るセデック族側の気持ちが十分に描かれないこと。安い賃金でこき使われ、馬鹿にされ、差別されていた様子は一応描かれるが、具体的に耐えがたきを耐え、爆発せざるを得なかった内容をもっと詳細に描いた方が良かっただろう。そうしないと、女子供まで殺したことに説得力がない。
霧社事件後の日本軍によるセデック族制圧を描く描く第2部はほとんど戦争アクションの趣。映画を観ながら「ラスト・オブ・モヒカン」を思い浮かべたが、当然のことながら、ウェイ・ダーションはマイケル・マンの演出力には及んでいない。
もしかしたら、興行上の配慮をした結果なのではないか、と勘ぐりたくなるぐらい日本人が極悪非道には描かれていない。だから、第1部のクライマックス、セデック族の300人の戦士が駐在所と運動会を襲うシーンに説得力がない。安い賃金でこき使われ、馬鹿にされ、差別されていた様子は描かれるが、それが女子供を含む134人を殺す理由としては機能していないのだ。1部、2部合わせて4時間半余りの映画の根幹を成す部分だから、これはきちんと描くべきだった。もちろん、他の国の領土を勝手に支配し、「理蕃政策」などと称して文明化を進めることは大きなお節介であり、原住民に反感が高まっていたであろうことは容易に推測できるが、それを通り一遍ではなく、観客に十分に共感を持たせる形で描くべきだった。
セデック族が女子供まで殺したのはなぜか。映画はセデック族に「通報させないために皆殺しにする」と理由を言わせている。脚本家が頭で考えた幼稚な理由づけと言うほかない。日本人が大量に虐殺されて、それがセデック族の住む地域であったら、誰の犯行か分からないなんてことがあるわけがない。女子供まで殺したのは日本人が排除すべき、憎むべき敵であったからにほかならないだろう。だから憎しみが爆発する過程を丁寧に描くべきだったのだ。日本軍による制圧作戦が展開される第2部は特に戦争アクションと言って良いぐらいに殺戮シーンに終始する。どんなにアクションをうまく撮ろうが、そのアクションを引き起こす要因を描かなくては空しいだけだ。
「霧社事件」について僕は何も知らなかったし、ウェイ・ダーション監督がこの題材を取り上げたことは称賛に値する。だが、それだけで終わってしまった。日本人を徹底的に悪く描いていて、そのことでもし、日本での興行成績が振るわなかったにしても、それは映画の本質的な価値を少しも貶めるものではない。セデック族がなぜ蜂起しなければならなかったのかを詳細に描くことこそが亡くなった蜂起して死んだセデック族ばかりでなく、殺された日本人にも報いることになったはずだと思う。
ある文化が別の文化に接触する時、そこには必ず摩擦が起きる。霧社事件の本質的な原因はそこにあると僕は思う。