2000/08/16(水)「さくや 妖怪伝」
1707年、江戸・宝暦時代。富士山の噴火で妖怪が溢れ、公儀妖怪討伐士の榊咲夜(さかき・さくや=安藤希)が父親の跡を継いで、妖怪退治に乗り出す。ガメラシリーズの樋口真嗣がSFXを担当しているが、怪猫や河童など作り物がありありの着ぐるみが多い。これはかつての妖怪映画の伝統を守ったのかもしれない。子泣き爺とか一つ目の唐傘とか別にストーリーに絡まない妖怪もゲスト的に出てくる。クライマックスは見応えあり。話も「ジュブナイル」や「パーフェクト・ストーム」など今夏のSFX大作よりまとまっており、手堅い。一番いいのは主演の安藤希で、清潔感とかっこよさがあり、十分主役を張れる演技でした。妖怪のボス土蜘蛛を演じるのは松坂慶子。こちらも感心するぐらいに真剣に演じている。手を抜かないのはさすが。
監督・原案の原口智生は特殊メイクアップ・アーチスト。SFオンラインによると、「妖怪映画・怪談映画の愛好家であり、そういった映画の再評価やビデオ化企画で積極的に活動をしている人物でもある」という。こういう話が真剣に好きだからこそ、面白い映画になったのだと思う。
2000/08/05(土)「デジモン・アドベンチャー02」
アメリカ人の少年が飼っていたデジモンのチョコモンがなぜか姿を消し、数年後、なぜか巨大化した姿で少年の前に現れる。チョコモンはなぜか、人間たちをデジタルワールドに幽閉。前シリーズの主人公太一たちが幽閉されたのを知った今シリーズの主人公大輔たちはアメリカに渡り、チョコモンとの闘いを始める。この“なぜか”の部分を映画はほとんど説明しない。途中で列車の多数の乗客が消える場面があるのだが、それがどうなったのかも分からない。説明不足、描写不足が多すぎて、もう最低の脚本である。パンフレットを読むと、チョコモンはデジタルワールドに吸い込まれ、そこで孤独のために心を失って凶暴化したらしい。そのあたりをもっとしっかり描く必要がある。
デジモンはテレビでまったく見たことがなく、今放送されているのが第2シリーズに当たる「02」であることも初めて知った。映画の内容はテレビシリーズとはまったく関係なく、独立した内容なのだが、作画のレベルはまあまあであるものの、この脚本ではどうしようもないだろう。
巨大なチョコモンの造型は「エヴァンゲリオン」の影響がありあり。こういう造型ができるのだから、もっと製作に時間をかけるべきと思う。ま、東映の番組の都合で仕方なかったのだろうが、こんなレベルの作品を公開してはマイナスにしかなりませんね。
2000/05/18(木)「どら平太」
悪役の設定が弱いと思う。すごい悪役が登場しない。いや、ホントはいるのだが、極悪非道の悪役には見えない。ワルぶりが描かれず、ホントに困っている人が描かれないからだ。娯楽痛快時代劇と言って良い映画で、確かに主人公(役所広司)は豪快である。でも主人公が強すぎて、すべては予定調和の世界に見えてしまう。
驚いたことに死人は1人だけ。しかも切腹だ。主人公は凄腕の剣の持ち主だが、すべて峰打ちで1人も斬らない。3人の親分たちもユーモラス(菅原文太も含めて)。この親分たちの行為を黙認し、裏でつるんでいる家老たちもユーモラス。主人公もユーモラス。脚本のテンポもゆったりしている。例えば、黒沢明「用心棒」と比べれば、この映画の弱さははっきりするだろう。あの中で桑畑三十郎(三船敏郎)は瀕死の重傷を負わされた。町人たちも2人の親分に苦しんでいる。そうした怒りがクライマックスに爆発し、圧倒的なアクション(チャンバラ)につながった。エモーショナルな高まりがこの映画には不足している。いわゆるロウ・ポイント(主人公が苦況に陥る場面)がないので、悪を倒してもカタルシスが少ないのである。
だがしかし、僕はこの映画好きである。冒頭の“銀残し”から始まって、市川崑おなじみの明朝体のタイトル。そして主人公とその友人が語り合う場面で一瞬挿入されるコマ落とし。細かいカット割り。市川崑の技術は少しも衰えてはいない。それがうれしい。四騎の会で残っているのはもはや市川崑だけ。この映画にかける意気込みには相当なものがあったはずである。それが画面の端々に感じられる。
昨年秋のあのしょうもない「梟の城」から始まった時代劇復活は少なくとも大島渚「御法度」とこの「どら平太」という見どころのある作品を残した。それだけでも価値があったと思う。