2011/11/05(土)「Space Battleship ヤマト」
あまりの酷評で劇場公開時に積極的にスルーし、今回、WOWOWで観賞。なんだ、そんなに悪くないじゃん、というのが第一感で、たとえば原作アニメにあるイスカンダルとガミラスが姉妹星であるという設定は重力的にあんなに近い場所に2つの惑星が存在できるはずがないと当時思ったのがちゃんと修正されてるし、個と全体が同一の結晶生命体という変更はSF的には悪くありません。
ただ、宇宙でのドッグファイトシーンはアメリカ映画より10年以上遅れているなあと感じざるを得なかったのが残念至極。山崎貴が監督とVFXを担当しながら、こうなのだから、彼我の差は予想以上に離れていて、下手すると、もう30年以上前の「スター・ウォーズ」にさえも全然かなわず、事態は相当に深刻。宇宙SFをほとんど撮らない日本映画界と予算をかけられない台所事情に根本的な要因があるのでしょう。
「武士の一分」の時にも思ったのですが、木村拓哉の演技はバラエティを引きずった部分があって、とても残念。キムタク、恐らく二枚目に徹することをどこか恥ずかしいと思ってるんじゃないのかな。悲壮感たっぷりの主人公にはしたくないという思いがあるんでしょう。その思いをバラエティ演技で何とかしようと思うのは大きな勘違いなわけで、この勘違いを誰か早急にアドバイスしてあげた方が良いです。「スター・トレック」のクリス・パインのようなあり方が理想的なんでしょうけどねえ。
あと、ワープできるんなら、さっさとイスカンダルまでワープすればいいのに、ということは原作アニメでも感じておりました。これ、何か制限の設定があったんでしたっけ?
2011/11/04(金)「リアル・スティール」
リチャード・マシスンの原作「四角い墓場」を基にしたSF。ロボットボクシングという設定だけを借りてVFXで見せる映画にしている。監督は「ナイト・ミュージアム」のショーン・レヴィ。危惧していた通り、凡庸な映画になっている。子供が主人公のファミリー映画だから、ヒットはするだろうが、どうも物足りない思いが残る。
2011/11/03(木)「アリス・クリードの失踪」
主要登場人物は3人、全登場人物も3人といういかにもインディーズ映画らしい作り。脚本は凝っているが、内田けんじの映画のように「騙してくれてありがとう」という感じにはならない。見ていて気分が良くならないのはこれが人間不信の考えから成り立った脚本であるためか。
金持ちの娘アリス・クリード(ジェマ・アータートン)が覆面をした正体不明のヴィック(エディ・マーサン)とダニー(マーティン・コムストン)に誘拐され、ベッドに手足を縛られて監禁される。犯人2人はアリスの父親に身代金200万ポンドを要求する。ストーリーを書けるのはここまでで、ここから先は3人の意外なドラマがサスペンスフルに展開していく。床に落ちた銃弾をサスペンスにつなげる部分などはうまいと思う。
登場人物が少なく、ほとんど部屋の中で話が進行するので、そのまま舞台になりそうだ。アイラ・レヴィンの某戯曲を思わせる展開もある。これは想像がついた。意外な人間関係を織り込むにはこれはぴったりの設定なのだ。監督のJ・ブレイクソンはこの戯曲の映画化を当然見ているのだと思う。
2011/10/29(土)「ミッション:8ミニッツ」
パラレルワールドを使えば、どんなことも可能になってしまう。この映画はタイムトラベルものではなく、列車爆発の犯人を見つけるため、死ぬ直前の8分間を何度も経験する男の話だが、繰り返されるうちにその結果に影響を与えていく。8分間は列車爆発の犠牲者の記憶。主人公のコルター・スティーブンス大尉(ジェイク・ギレンホール)はふと気がつくと、その中に送り込まれていた。シカゴ中心部を高性能爆弾で襲うテロを防ぐため、軍が実施したプロジェクトだった。
記憶の中をいくら探したって記憶していないものは見つけられないはずだが、これはその記憶を元に構成した電脳世界と言えるだろう。コンピューターのシミュレーションであり、サイバーワールドの中で完結しているから外の世界とのつながりはない。そこがラストに変わるのが映画の工夫というか、つじつま合わせというか、評価の分かれるところかもしれない。この結末は脚本にはなく、監督のダンカン・ジョーンズが変更したものだという。これが気持ちよいのはハッピーエンドへの強い希求が根底にあるからだ。観客の期待に応える変更と思う。
映画はSFというより音楽も含めてヒッチコックのサスペンス映画のようなタッチ。ダンカン・ジョーンズの本質はSFよりもサスペンスにあるのかもしれない。
2011/10/16(日)「モールス」
ヨン・アイヴィデ・リンドクィストの原作「MORSE モールス」を映画化したスウェーデン映画「ぼくのエリ 200歳の少女」のアメリカ版リメイク。隣に吸血鬼が引っ越してきたという設定は「フライトナイト」(これもリメイクされた)と同じだが、元がスウェーデン映画なだけにゆったりとした展開だ。吸血鬼の少女役は「キック・アス」のクロエ・グレース・モレッツ。監督は「クローバーフィールド HAKAISHA」のマット・リーヴス。
ちょうどWOWOWで「ぼくのエリ 200歳の少女」を放映したので見た。これは叙情性・耽美性を備えた傑作。同じストーリーなのにこうも違うかと思う。マット・リーヴスは耽美性を取り入れようとして精いっぱい頑張っているが、とてもかなわない。アップを多用した画面構成と音楽、そしてスウェーデンの冬の光景が美しい。監督はトーマス・アルフレッドソン。Wikipediaによれば、兄ダニエルは「ミレニアム 火と戯れる女」「ミレニアム 眠れる女と狂卓の騎士」の監督なのだそうだ。
テレビ放映なので仕方がないが、肝心なところにぼかしが入る。「わたしが女の子でなくても好き?」とエリが聞いた理由が分かるシーンなので残念。この、「女の子」のセリフ、ぼくは「モールス」を見た時にバンパイアだから男でも女でもない、という風に解釈したが、実はエリ、元は男の子でバンパイアになる時に去勢されたのだそうだ。「モールス」はクロエ・グレース・モレッツをキャスティングした段階で、この部分を捨て去っていることになる。
原作も買ってしまったが、amazonのレビューに「半分ゲイポルノのようなもので、読まなくていい」とあった。むむむ。そうなのか。ということは、「ぼくのエリ」の成功はアルフレッドソンの力なのだろう。