2005/03/04(金)「プリティ・プリンセス2 ロイヤル・ウェディング」

 ゲーリー・マーシャル監督による3年ぶりの続編。前作は見ていない。前作でヨーロッパの国ジェノヴィアのプリンセスになったアメリカの高校生ミア(アン・ハサウェイ)の5年後の話で、女王(ジュリー・アンドリュース)の退位に伴い、ミアが女王に即位することになるが、それには30日以内に結婚しなければならないという条件があった。「キートンのセブンチャンス」の裏返しのようなシチュエーションだが、ディズニー製作なので、まったく健全な内容。物語の落ち着く先も見えるので、あとは出演者の演技を見るしかない。主演のアン・ハサウェイは悪くないけれど、かわいいだけでプラスアルファの魅力に欠ける。女王役のジュリー・アンドリュースにはちゃんと歌う場面が用意されているが、そこがとりたてて良いわけでもない。映画に破綻はない代わりに際だった部分もない。演出に切れ味もない。どうもゲーリー・マーシャルという監督は平凡な作品ばかりを撮り続けているという印象がある。大ヒットした「プリティ・ウーマン」にしてもジュリア・ロバーツとリチャード・ギアの魅力に負うところが大きかった。だから俳優が平凡だと、作品も平凡になってしまうのだろう。

 結婚しなければ、女王になれないというのはジェノヴィアの法律で300年前から決まっており、ミアは必死に結婚相手を探すことになる。しかも子爵のメイプリー(ジョン・リス=デイヴィス)が自分の甥のニコラス(クリス・パイン)にも王位継承権があると名乗り出る。ミアが結婚相手を見つけられなければ、ニコラスが王位を手にすることになる。ミアはようやく理想の結婚相手アンドリュー(カラム・ブルー)と婚約を果たすが、メイプリーはミアに接近するようニコラスに命じる。反目しあっていたミアとニコラスは次第にうち解け、ニコラスはミアの優しい性格は女王にふさわしいと思うようになる。そしてミアもいつの間にかニコラスに恋をしていた。

 パンフレットによると、メグ・キャボットの原作「プリンセス・ダイアリー」シリーズは青少年向けの小説という。道理でそういう感じの映画になっているわけだ。しかし、青少年向け、子供向け小説の映画化でも面白い作品はたくさんある。それがこの程度の作品にしかならないのはやはりゲーリー・マーシャルの力が不足しているためか。この人、とりあえず映画をまとめる力はあるが、それ以上のものはないようだ。

 細かい部分にケチを付けると、中盤にミアがアーチェリーの練習をするシーンがあって、的から少し離れたところにメイド2人が立つ場面があるが、ああいうことはアーチェリー経験者ならありえないことと思うはず。危険性を考慮して的の近くに人は行かない。人がいる場合は矢を向けないというのが最低限の決まりだろう。

2005/02/17(木)「ボーン・スプレマシー」

 「ボーン・スプレマシー」パンフレットロバート・ラドラムのベストセラーを映画化した「ボーン・アイデンティティー」の2年ぶりの続編。記憶喪失の元CIAエージェント、ジェイソン・ボーンをマット・デイモンが再び演じる。監督はダグ・リーマンからポール・グリーングラスに替わったが、スピーディーな展開と切れ味のあるアクションは継承している。感心したというか、目立っているのは編集で、同じカットを3秒以上見せないとでも意図したのか、カットが細かく切り替わる。これがスピーディーな印象を与える要因でもあるのだが、目まぐるしすぎてアクション場面などでは逆にダイナミズムを欠く結果になっている。どこがどうなったのかよく見えないし、細かくカットを割りすぎると、重みを欠くものなのである。

 その目まぐるしさが落ち着くのが、クライマックスの後のエピローグ的な場面。ここが全体の締めに当たる部分なのに、それまでの物語で主人公のこういう意図を見せていないのであまり効果を上げていない。前作に続いて脚本を書いたテリー・ギルロイは「ジェイソン・ボーンは元暗殺者なので復讐劇にはできなかった」として、今回の映画を「償いの旅」とまとめているが、償いの部分がこの場面に唐突に出てくる印象にしかなっていない。水準をクリアしたスパイ・アクションだけれど、話の作りはうまくないと思う。スピーディーさばかりでは結局、一本調子になってしまう。緩急を付けた演出と伏線を十分張った物語が望まれるところなのである。

 前作から2年。ジェイソン・ボーンはマリー(フランカ・ポテンテ)とインドで暮らしている。記憶は完全には戻らず、悪夢にうなされる日々だ。そのころ、ベルリンでCIAの女性諜報員パメラ・ランディ(ジョアン・アレン)は組織の不祥事に関する調査に当たっていた。公金横領の資料を手に入れようとしたが、何者かが取引現場を襲撃し、2人が殺されてしまう。現場にはボーンの指紋が残っていた。インドではボーンが襲撃され、逃走中にマリーを殺されてしまう。ボーンは事件の真相を探るため、ヨーロッパに向かう。CIAもボーンを事件の犯人として、追跡を開始する。事件の背景にはトレッドストーンという計画があるらしい。パメラは計画の責任者だったアボット(ブライアン・コックス)を問いただす。

 ボーンにとっては巻き込まれ型の展開だが、最愛のマリーを殺されたのだから、復讐劇にしてしまった方がすっきりしたと思う。それが「償い」の話になるのはボーンが途中で記憶を取り戻し、過去の仕事を後悔するからだ。このあたりをもっと深く描けば、映画はアクションだけが目立つような出来にはならなかっただろう。それには記憶を取り戻す場面をもっとドラマティックに描く必要があったし、ボーンの苦悩も深く描いた方が良かっただろう。前作を僕は底が浅いと思ったが、今回も同じような感想を持った。

 マット・デイモンは前作同様、アクション場面も無難にこなして凄腕のエージェントを好演している。ただ、こういうハードな映画の主人公としてどうかというと、ハードさが足りない部分はあると思う。映画全体もハードな部分が意外に希薄なのは演出がスピーディーではあっても、重みに欠けるからではないか。

2005/02/03(木)「オペラ座の怪人」

 「オペラ座の怪人」チラシ製作・脚本がアンドリュー・ロイド=ウェバーだったので、演出にも絡んでいるのかと思ったら、監督はジョエル・シュマッカーだった。うーん、シュマッカー、何をやっておるのか。IMDBでの評価がそこそこいいのが不思議だが、個人的にはさっぱり面白くなかった。主演の3人のキャラの立たせ方が決定的に足りないと思う。美男美女の2人はどう描いても美男美女なので仕方がないにしても、ファントムのキャラクターをもっと陰影に富んだものにしないと、単なるストーカーにしか見えない。キャラクター描写が希薄だから、エモーションも高まってこない。だからセリフの代わりに歌で描かれるクライマックスはなんだかいらいらしてしまう。キネマ旬報2月上旬号でシュマッカーは「ミュージカルは「全然(好きじゃない)」「ダーク・ムービーの方が好き」と語っており、この題材に惹かれたのもダークな部分らしい。それにしてはダークさも足りないが、それはウェバーとの駆け引きがあったのかもしれない。単純な話なのに2時間23分と無駄に長いのも腹立たしい。

 モノクロで描かれる廃墟のオペラ座がよみがえって物語の時代にさかのぼるジャンプショットはすこぶる映画的な技法である(残念なことに予告編で何度も見せられたので印象は薄くなった)。シュマッカーは所々にこうした映画的な見せ方を取り入れており、舞台を映画に置き換えようと努力した跡は伺われる。ただ、全編のハイライトである絢爛豪華な仮面舞踏会のシーンの演出では舞台をそのまま撮ったような見せ方で、ミュージカル映画の呼吸はない。これは監督がミュージカルを知悉しているかどうかに関わってくることなのだろう。登場人物たちが、セリフの代わりに歌で気持ちを表現することの不自然さを不自然に感じさせない演出が必要なのに、そうした部分はあまり考慮されていないように見える。ドラマと歌をどのように融合させるか、という努力はないように思えた。

 歌1曲で観客を引きつけたり、踊りだけで引き込んだりするような部分も見あたらない。ファントム役のジェラルド・バトラー、クリスティーヌのエミー・ロッサム、ラウル役のパトリック・ウィルソンはそれぞれに歌はうまいのだけれど、例えば、「ムーラン・ルージュ」で決定的にうまさを際だたせたユアン・マクレガーのような驚きと魅力には欠ける。及第点はクリアしていても、突出した部分がないのである。スター性がないと言うべきか。

 ウェバーとしては、舞台は残らないので後世に残る映画にしておきたかったと意図があったのだという。映画としての完成度の前に、映画の記録性の部分に着目したわけだ。それにしても、バズ・ラーマンのようなミュージカルの分かった監督が撮っていれば、もっと映画的なミュージカルになっていたのではないかと思う。チラシにはアカデミー賞最有力作品とあるが、ノミネートされたのは主題歌、美術、撮影の3部門だった。

2005/01/27(木)「ニュースの天才」

 ニュースの天才」パンフレット大統領専用機エアフォースワンにも置いてあるというアメリカの雑誌「ニュー・リパブリック」で、捏造記事を書いた実在の記者スティーブン・グラスを描く。監督のビリー・レイはブルース・ウィリス、コリン・ファレル主演の「ジャスティス」の脚本家で、これが監督デビュー作。この映画の脚本も書いている。「ジャスティス」の脚本は前半と後半が分裂していてあまり感心しなかったが、この映画も同じような弱点を抱えている。なぜグラスが記事を捏造したのかという肝心の部分がはっきり分からないのだ。これは監督自身が「分からない」と言っているのだから、観客に分かるわけがない。捏造記事であることを否定して嘘を重ねていくグラスという男は非常に興味深く、面白く見たけれど、グラスがどの程度活躍した記者だったのかという描写もあいまいで、特に前半部分は脚本の整理がついていない印象を受けた。こういう題材を扱うには脚本家自身にジャーナリスティックな資質が必要だ。レイはグラスの周囲の人間には取材したそうだが、グラス本人には会えなかった(向こうが会うのを拒否した)という。それが弱さにつながっているのかもしれない。

 原題は“Shattered Glass”で、ヴァニティ・フェアに掲載されたバズ・ビッシンジャーの同名記事が原作としてクレジットされている。1998年、「ニュー・リパブリック」の記者として一番若かったグラス(ヘイデン・クリステンセン)は政治や大事件ではなく、身近なゴシップ記事を書く記者として次第に頭角を現す。グラスは共和党陣営の集会に潜入したスキャンダラスな記事を発表するが、記事に重大な誤りがあると指摘される。編集長のマイケル・ケリー(ハンク・アザリア)は問題部分の誤りを素直に認めたグラスを擁護する。しかしケリーは経営者とそりが合わず、首になる。後任は記者としての能力にも疑問があるチャールズ・レーン(ピーター・サースガード)だった。ある日、グラスは天才ハッカーの少年とソフトウェア企業を取り上げた「ハッカー天国」という記事を発表。これにネット・マガジン「フォーブス・デジタル・ツール」が目を付ける。少年は実在しないし、企業の名前も聞いたことがないものだったからだ。フォーブスの記者はグラスがハッカーに騙されたのではないかとして、「ニュー・リパブリック」を追及。グラスの説明は歯切れが悪く、レーンは記事の信憑性に疑いを抱くようになる。

 映画の後半は記事を巡って揺れ動くグラスとレーンを中心に展開する。ネガティブな役柄ながら、クリステンセンは弱い男をうまく演じているが、それ以上にピーター・サースガードが嘘を許さない編集長を好演。最初はダメな編集者かと思わせながら、次第に優秀さを感じさせる男に変わっていく。ケリーとレーンはどちらも優れた編集者として描かれる(ケリーはイラク戦争で死んだ最初のジャーナリストとなったそうだ)。映画に「なぜ」の部分はないのだけれど、少なくともどのように事態が進行したのかはよく分かり、それだけでも見る価値はあるだろう。物足りないのは1人の特殊な男の話に終わっているからで、報道の在り方の本質まで突き詰めていないところか。

 グラスが発表した41本の記事のうち、27本が捏造だったという。何重ものチェック体制がありながら、嘘で固めた記事がそんなに掲載されることに驚かざるを得ない。ニュースの天才ならぬ作り話の天才だったグラスはジャーナリストではなく、作家になるべき人だったのだろう。

2005/01/19(水)「ネバーランド」

 「ネバーランド」パンフレット女性の日のためか、劇場は女性客が9割以上(というか、男は2、3人だった)。ジョニー・デップのファンも多いのだろう。

 「チョコレート」のマーク・フォースター監督作品で、「ピーター・パン」の物語がどのように生まれたのかを描くヒューマンなドラマ。作家のジェームズ・M・バリと4人の息子を持つ未亡人シルヴィアの交流を描きつつ、「信じる力」と「想像力」の大事さを訴えている。フォースターの演出は的確で力まないところが好ましい。バリとシルヴィアの緩やかな関係を繊細に綴った脚本(これがデビューのデヴィッド・マギー。オリジナルは舞台劇「ピーター・パンだった男」で、マギーはそれを脚色した)も良い出来である。

 ただ、信じる力を訴えるなら、現実には起こりえないような奇跡も欲しいところなのだが、実話を基にしているためか限界がある。スピルバーグあたりの映画なら、もっとファンタジー寄りの内容になっていただろう。そこが少し物足りない点ではある。その物足りなさを救っているのがジョニー・デップとケイト・ウィンスレットの演技で、デップがうまいのには驚かないが、薄幸な身の上の未亡人を毅然と演じるウィンスレットは母親役にも違和感がなく、随分うまくなったなと思う。

 1903年のロンドンが舞台。バリ(ジョニー・デップ)の新作「リトル・メアリー」はさんざんな出来で、翌日の新聞でも酷評される。失意のバリは愛犬のポーソスを連れて公園に出かける。そこでバリはデイヴィズ家の4人の兄弟と母親のシルヴィア(ケイト・ウィンスレット)に出会う。4人の兄弟のうち、三男のピーター(フレディ・ハイモア)だけは1人、兄弟の遊びの輪から外れていた。ピーターは父親の死のショックから、空想の世界に入ることを拒否していた。バリの妻メアリー(ラダ・ミッチェル)はシルヴィアが社交界の名士デュ・モーリエ夫人(ジュリー・クリスティ)の娘と知り、夕食に招待する。夕食会は愉快なものにはならなかったが、バリはデイヴィズ家に頻繁に足を運ぶようになる。子供たちと一緒に遊びに興じているうちにバリにはある物語の着想が固まり始める。幼い頃に兄を亡くしたバリは決して大人にならなネバーランドという場所を心に思い描いていた。

 映画は病に倒れるシルヴィアとバリの抑えた愛の描写を挟みつつ、舞台「ピーター・パン」の創作過程を描いていく。バリ自身のキャラクターとピーターのキャラクターが交差していくところが、脚本のうまいところ。「ピーターは早く大人になろうとしてる。大人になれば傷つかずにすむと思って」というバリのセリフはそのままバリ自身にも言えることなのだろう。実際にはバリと妻の離婚などドロドロしたものがあっただろうが、映画はそれをさらりと描いている。映画の本質はそういう部分にはないので、これは賢明な判断。なぜ信じる力が必要なのか、なぜ人は物語を必要とするのかまでもっと踏み込んで描けば、さらに深い映画になったと思う。「チョコレート」でも感じたことだが、フォースターの演出は画面構成のメリハリに欠ける部分がある。淡泊な人なのではないかと思う。

 劇場の興行主を演じるのがスピルバーグの「フック」でフック船長を演じたダスティン・ホフマン。別にホフマンでなくても良い役柄なので、これは監督の遊び心なのかもしれない。