2013/03/10(日)リバランス

 カン・チュンドさんの日経電子版の連載「コレだけ読めば大丈夫! はじめての投資信託」を毎週楽しみに読んでいる。今週は「定年退職後の資産管理 守るべき3つのルール」と題し、資産の取り崩し方について書いてある。定年後に預金を取り崩して生活費に充てていくと、いずれ預金は底をつく。投資信託などで資産のポートフォリオを組んで、利回り3.6%で運用し、そこから年間3.6%を現金化すれば、資産は減ることはない、という趣旨。

 この記事ではポートフォリオを5000万円としていて、3.6%ならば毎年180万円が現金化できる。しかし普通の会社員が5000万円まで資産を増やしていくのはなかなか大変だ。資産の額を一般的な投資関係の本で目標となっている3000万円にすると、180万円引き出すには毎年6%の運用利回りを目指すことになる。もちろん、うまくいかない年もあるだろうが、これは実現できない数字ではないだろう。現金化するのは毎月ではなく、年2回のリバランスの時が良いそうだ。

 リバランスと言えば、個別の株式をポートフォリオに組み入れると、リバランスが難しくなる。今のように株価がガンガン上昇している時には、まだ上がるのではと思ってしまい、なかなか売る踏ん切りがつかないのだ。株の売買は依存症になる人もいるほど面白いのだけれど、ポートフォリオは個別銘柄を組み入れず、投資信託とETFで構成した方が良いようだ。

寄付の文化

藤野英人「投資家が『お金』よりも大切にしていること」によれば、アメリカの成人一人当たりの年間寄付金額は約13万円。これに対して日本は2500円だそうだ。「ほとんどの先進国では家計の2~3%くらいの寄附をします。アメリカは3%です。ところが日本人は、家計のたった0.08%しか寄附しないのです」。アメリカでは年収2万5000ドル(240万円)以下の人が年収の4.2%を寄附しており、決して富裕層だけが寄附をしているわけではない。寄付の文化があるのだろう。

募金目標を1億1700万円としているみらいちゃんを救う会には現在、3700万円足らずしか集まっていない。病状は進行しており、時間的な余裕はあまりないそうだ。

宮崎県民が1人100円の寄付をすれば、1億1000万円余りが集まる。子供も含まれているので全員ができるわけではないが、1000円寄付すれば10人分、1万円なら100人分になるという計算はしても良いだろう。寄付は強要するものではないが、みらいちゃんへの支援に限らず、寄付は日常的にするものなのだと思う。アメリカの寄付の多さを見習いたい。

藤野英人はこう書いている。「あえて断言しますが、日本人ほどケチな民族はいません。困っている人のために寄附もしないし、社会にお金を回すための投資もしない。じゃあ、他の先進国の人たちに比べて、公共のためのお金である税金を多く払っているのかといえば、そんなこともない。日本の税率はむしろ低いくらいです」。

2013/03/03(日)「ふがいない僕は空を見た」

 「恋の罪」がR18+なのはよく分かるが、これのどこがR18+なのだろう。これでR18+の判定になるのなら、描写を少しソフトにして高校生でも見られる映画にした方が良かったような気がする。昨年は「ヒミズ」「桐島、部活やめるってよ」と青春映画の傑作があったが、この映画もそれに連なる、そして少しも劣らない厳しい傑作だと思う。キネマ旬報ベストテン7位。

 問題は何も解決しない。しかし、登場人物達は受けたダメージから、厳しすぎる現状から、なんとか立ち上がろうとする。スキャンダルに巻き込まれ、不登校だった主人公は学校に行くようになり、その親友は大学を目指して図書館で辞書をめくる。

 「俺にはとんでもない部分があるから、とんでもなく人に優しくしなくちゃいけないんだ」。

 「バカな恋愛したことないやつなんて、この世にいるんすかねえ」というセリフを吐くみっちゃん先生(梶原阿貴)のがらっパチなたくましさが良く、主人公の母親で助産師の原田美枝子の包容力がいい。

2013/02/23(土)Remote TV

 KDDIが今日から発売したSmart TV StickとRemote TVのうち、関心があるのはRemote TVの方。これ買えば、既にサポートの切れたSONYのロケーションフリーとおさらばできる。機能はボルカノフローやスリングボックスと同等だ。自宅のBDレコーダーに録画した番組やリアルタイムのテレビ放送がLAN内部や外出先のPC、スマホ、タブレットで見られる。

 ただ、レコーダーからの出力はアナログ、最高画質時の解像度が854×480ドットというのでは物足りず、これではPCやタブレットで表示した時に画面が小さいだろう。Android4.2にも対応していず、Nexus 7でも10でも、まだ使えない。リアルタイムの放送視聴が不要なら、今後本格化するDTCP+の製品を待った方がいい。

 テレビをスマホにするというSmart TV Stickについてはあまり興味が持てない。このスティックがWOWOWメンバーズオンデマンドに対応すれば、買ってもいいかなと思う。しかしメンバーズオンデマンドはHDMIによる外部出力はできない仕様なので、対応は難しいだろう。まあ、9800円でAndroid機器が手に入るというのは安いかもしれない。

 いろいろ考えていくと、2つとも購入意欲が下がってくる。ちなみにau Online Shopでは既に2つとも在庫なしになっている。売れているんですね。

2013/02/18(月)「ゼロ・ダーク・サーティ」

 ビンラディンを極悪人として描けなかった、そもそも何も描けなかったことが一般的な娯楽映画の気分からほど遠い要因なのだと思う。普通のアクション映画の悪役は当然倒されるべき存在として描かれる。敵を倒す主人公の行為の正当化にはこれが不可欠だ。もちろん、脚本のマーク・ボールも監督のキャスリン・ビグローもビンラディンを単純な娯楽映画の悪人として描くほど愚かではないから、そんなことはしなかった。映画の冒頭に貿易センタービルで亡くなった人たちの最後の痛切な会話を流すことで、ビンラディン=倒すべき悪、と規定している。何の罪もない3000人近い人の命を奪う作戦を指揮したのだから、これは当然と言えるかもしれない。

 しかし、と思う。ビンラディンはどういう人間なのか、アメリカを憎むアルカイダの論理はどんなものなのかを少しでも描いていれば、この映画はもっと充実していたに違いないと思う。この映画に登場するアルカイダは正体不明と言ってよいぐらい何も描かれない。別にアルカイダの肩を持てと言っているわけではない。アメリカ映画なのだからアメリカ側の視点で作られるのは当然だが、この映画の視点は狭すぎると思うのだ。イラク戦争の爆弾処理班の兵士だけを描いたビグローの前作「ハート・ロッカー」と同様、全体を見渡す視点に欠けている。例えば、デヴィッド・O・ラッセルは湾岸戦争を舞台にした映画「スリー・キングス」でアメリカ兵を拷問するイラク兵に、空爆によって家族を失ったというセリフを言わせていた。視点を多角化するそういう部分が重要なのである。

 主人公のCIA分析官マヤ(ジェシカ・チャステイン)はビンラディンを執拗に追う。途中から同僚をテロで殺されたという私怨が含まれてくるにせよ、10年間追い続ける理由としては説得力が足りないように思う。ここで思い出すのは「オデッサ・ファイル」(1974年、フレデリック・フォーサイス原作、ロナルド・ニーム監督)だ。この映画、主人公が逃亡したナチスの高官を追う本当の理由が最後に明らかになって膝を打ったものだ。そうか、それならそこまで執念深く追いかけるのも仕方がないよな……。敵を追い詰める主人公の行動原理にはそうした強く差し迫った動機が必要だろう。

 アメリカ政府が公式には否定している拷問のシーンがあるからこれは社会派の映画だろうか。違う。主人公が作戦を完遂しても空しい気持ちになるから、これは社会派の映画だろうか。それも違う。社会派の映画には批判の矛先が必要だ。この映画はそれがあいまいなのである。同時テロからビンラディン暗殺まで10年間のアメリカ側の捜査(拷問、拷問、拷問)を描いただけであり、拷問批判が狙いなら、クライマックスの襲撃場面にあんなに力を入れる必要はない。実際、ビグローの演出はこのクライマックスで本領を発揮する。基本的にビグローはサスペンスとアクションの人だ。社会派的な題材を取り上げるのであれば、得意のアクションの組み立てと同じぐらい緻密に構成を考える必要があった。

 ちなみにこのクライマックス、屋敷が高い塀に囲まれていることもあって、赤穂浪士の討ち入りを思わせた。赤穂浪士にとって吉良上野介は主君を死なせた憎むべき敵だが、吉良上野介にとってみれば、赤穂浪士は屋敷に押し入ったテロリスト集団だろう。

 見終わって、なんだか宙ぶらりんにされたような釈然としない気持ちが残る。部分を描いて全体を映し出す手法は確かにあるが、この映画では成功していない。

2013/02/11(月)「希望の国」

 このサイテーの映画がキネ旬ベストテン9位に入ったということに驚くほかない。

 底の浅い脚本、問題を深化していかない脚本、取材不足が露呈する脚本(あるいは取材が消化できていない脚本)に大きな欠陥がある。原発近くに住む両親は自殺し、原発から遠く避難した息子夫婦は元気を取り戻す。この単純な展開に唖然とする。放射能に汚染された地域はさっさと捨てましょうね、他の地域にはまだ希望がありますよというメッセージにしか見えないのだ。

 このストーリーのどこに希望があるのか。「一歩、一歩、一歩、一歩」と言いながら雪の中を歩く男女にかぶさって「希望の国」というタイトルが出るのを見て、小学生でも考えつきそうなアイデアをよく恥ずかしげもなく描けるなと思った。

 昨年放映されたNHKの番組で福島の人たちを対象にしたこの映画の試写の様子が紹介されていた。見た人から「なぜあんなラストにしたんですか?」と質問が出たが、映画を見てその質問の理由が分かった。答えも分かった。監督がバカだからです。

 何より腹立たしいのは映画が長島県という架空の県を舞台にしていることだ。長崎と広島を合わせた名前というのもふざけているが、なぜ福島県にできないのだろう。これでは現実と向き合う姿勢を放棄したとしか思えない。