2013/01/20(日)鵬翔 PK5-3 京都橘

 「どうしてそんなに空っぽなんだ」と、シャーロックのセリフをまねてみたくなる。全国高校サッカーで初優勝した鵬翔について2ちゃんねるで「運が良かった」とか、「強かったのは京都橘の方」なんて書き込みがあるからだ。運が良いだけでPK戦を4回も勝つことはできない。精神的なタフネス、逆境に折れない心を作ったのは豊富な練習量があったからだろう。練習に裏打ちされた自信が鵬翔の選手たちにはあったに違いない。だから準決勝でも決勝でも2度リードされながら追いついてPKに持ち込めた。

 決勝の延長戦で京都橘の選手たちの足は止まっていたが、鵬翔は止まらなかった。鵬翔の選手たちは明らかにスタミナで上回っていた。全身をつる選手も出たというほどの走り込みをした夏の志布志合宿、大学生を相手に練習試合を繰り返した関西遠征などが伝えられているが、なるほどと思う。

 チームを率いて30年目の松崎博美監督は国立行きを決めた準々決勝の試合後に「夢はかなう」と言った。しかし、ただ願っているだけでは夢はかなわない。夢を実現するためにはそれ相応の努力が必要だ。鵬翔にふさわしいのは「努力は実る」という言葉の方だろう。いくら努力したって実らないケースも多いけれども、天が助けてくれるのは例外なく「自ら助ける者」たちの方なのだ。

2013/01/18(金)「シャーロック」のセリフのうまさ

ルームシェアするためにベーカー街221B番地に来たジョン・ワトソン(マーティン・フリーマン)がシャーロック・ホームズ(ベネディクト・カンバーバッチ)に聞く。

「こんな一等地なら高いだろう」
「大家のハドソンさんが特別に安くしてくれた。数年前、ご亭主が死刑判決を受けた時、僕が助けた」
「死刑執行を止めてやったわけか?」
「いや、確実にした」
(「シャーロック」第1シーズン第1話「ピンク色の研究」)

遅ればせながら、元日に放送された英国BBSのドラマ「シャーロック」第2シーズン第1話「ベルグレービアの醜聞」を見て、その出来の良さに驚いた。編集、カット割り、セリフ、ストーリーと俳優の演技が高いレベルでまとまっている。特にアイリーン・アドラー(ララ・パルバー)がスマートフォンに設定したパスコードが明らかになる場面でうなった。それまでよく分からなかったアイリーンの心情が鮮やかに浮かび上がるパスコードだったのだ。これはうまい。シャーロック・ホームズを現代に移すなど、ほとんど失敗が目に見えるような試みだが、このドラマのスタッフは相当に頑張って、成功を収めている。かなりエキセントリックな変人のコンサルタント探偵シャーロックと元軍医で常識人であるワトソンのコンビは映像化されたホームズの決定版になりそうな魅力的キャラクターだ。

で、評価の高い第1シーズン第1話の再放送を心待ちにした。16日に放送された「ピンク色の研究」を見て、これなら大評判になるのも無理はないなと思った。ロンドンで連続自殺事件が発生する。自殺者はいずれも自分で毒を飲んでいた。自殺者の間につながりはなく、自殺する理由もなかった。他殺の可能性がある。警察のレストレード警部(ルパート・グレイブス)はシャーロックに調査を依頼する。

犯人が被害者に自殺させる方法にもなるほどと感心したが、それ以上にこのドラマ、セリフのうまさが際立っていた。ユーモアとウィットにあふれ、いかにも英国らしい粋なセリフが多いのだ。膝を打って「うまい!」と思わされたセリフを2つ引用しておく。

まず、病院のモルグ(死体安置所)に勤務するモリー・フーパー(ルイーズ・ブリーリー)とシャーロックの会話。モリーは密かにシャーロックに思いを寄せている。

「もし良かったら、お仕事が終わった後にでも…」
「口紅をつけてるの初めてだな」
「ちょっと、気分転換に…」
「ごめん、それで?」
「仕事が終わったら、コーヒーでもどう?」
「ミルクなし、砂糖は2個で」

かわいそうなモリー。しかし、もっとかわいそうな言葉が待っている。

「ああ、モリー、コーヒーありがとう。口紅落としたの?」
「に、似合わないから…」
「塗ってた方が良かったよ。君は顔立ちが、地味だから」

続いて事件現場。仲の悪いサリー・ドノバン巡査部長(ヴィネット・ロビンソン)に嫌みを言われた後、シャーロックはこれまた仲の悪い鑑識官のアンダーソン(ジョナサン・アリス)に制止される。

「ここは犯罪現場だ。荒らすんじゃないぞ。分かってるな」
「よく分かってる。奥さんはずっと留守か?」
「推理したみたいな顔するな。誰かに聞いたんだろう」
「デオドラントで分かった」
「デオドラント?」
「男用だ」
「当然だろう、俺は男なんだから」
「サリーと同じ香りだ。鼻につくな。入っていいか?」
「な、何が言いたいんだか知らないが…」
「何も言ってないよ。きっとサリーはちょっと遊びに来て、そのまま君の家に泊まることにしたんだろうな。床も磨いてくれたんだろう? サリーの膝の状態からして」

どれもキャラクターに密接なセリフで、シャーロックのキャラクターがよく分かる。こういううまいセリフが書ける脚本家がいるなら、作品の面白さはある程度、保証されたようなものだ。

「シャーロック」は1シーズンに3話しか作られていない。この点について、脚本家の1人であるスティーヴン・モファット(「タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密」)は「九十分という長さなんで、あの作品は“映画”として考えている。一話が一時間ものじゃないとわかったから、ああいう規模の作品にせざるを得なかった。映画並みの規模と重みがなくちゃならないんだ」と話している(ミステリマガジン2012年9月号)。映画なら1年で3本というのは多すぎるぐらいで、事実、「シャーロック」もすべてが傑作というわけではない(どれも水準は超えている)。まあそれでも3本のうち1本でも傑作を残してくれるなら、何も言うことはない。今年放送される第3シーズンにも大いに期待できるだろう。日本での放送が楽しみだ。

2013/01/06(日)信用取引の制度改正と依存症

 「新しい株式投資論」(2007年、絶版らしい)の中で山崎元は株取引の依存症について触れていた。株に関する本で依存症に触れたものは読んだことがなかったが、やっぱりなと思った。株式投資は基本的にギャンブル。ならば、競馬やパチンコと同じで依存症になる人がいてもおかしくない。特に1日に何度も売買を繰り返すデイトレーダーの中には多いだろう。そして依存症患者の常で当人に依存症の自覚はないに違いない。

 今月から信用取引の委託保証金(証拠金)に関する制度が変わった(東証の委託保証金の計算方法等の見直しなど参照)。ポイントは「従来、信用取引を返済しても、原則として決済日までは保証金は拘束され、他の信用取引に利用することはできませんでした。見直し後は、返済約定した信用取引の保証金は、ただちに拘束が解かれ、他の信用取引に利用できるようになります」という点。保証金の拘束期間がなくなるので、株の売買が1日に何度でもできるようになった。個人投資家の信用取引の活発化を狙った改正だ。4日の東証大発会が「異例の活況」(日経)となったのは円安株高に加えて、この制度改正が要因とみられている。

 同時にこれは依存症の増加に拍車をかける懸念があるだろう。といっても、株取引の依存症がどれぐらいいるのか、実態調査されたことがあるのか、寡聞にして知らない。山崎元も「どう見ても株式投資がらみの依存症患者は少なくないはず」としているだけで具体的な数字を挙げているわけでないが、相当数いることは容易に想像できる。

 この本、絶版らしいと書いたが、電子版は出ていた。Google Playでその一部が読める。「最大のリスクは依存症」の部分を読んでみてほしい。気がついたら多額の借金をしているというような場合、依存症の可能性が大いにあるそうだ。

 アメリカ有数の投資家ウォーレン・バフェットのようにバイ・アンド・ホールドの長期投資と違って、株のデイトレードはFXと同じゼロサムゲーム。勝つ人がいれば、必ず負ける人もいる。余裕資金の範囲内でとどめておいた方が賢明だ。山崎元は信用取引についてこう書いている。

 「思い切って言ってしまうと、個人投資家に信用取引を勧めることは、あまり良いことだとは思えないが、これも『賭場の現実』だと理解しておこう。もちろん、賢い生活者は、信用取引の利用に対しては慎重であるべきだ(要は、やめておけ!)」

2013/01/01(火)預貯金の目減りと投資

 日経電子版で某投信会社の会長が「『大胆な金融緩和』があなたの現預金を脅かす」というコラムを書いていた。インフレになったら、中低所得者は食べることにも困ってしまう。預金に偏っている財産を投資にも向けるべきだという内容だ。

 インフレになれば、金利がゼロに等しい今の預貯金の価値が目減りするのは確かだが、こういう書き方では、がんの恐怖を煽って、加入を勧めるがん保険のやり方となんら変わらない。このがん保険、日本と韓国、台湾でしか流行っていないそうだ(特に日本が多い)。世界的に見れば、数ある病気のうち、がんの保障しかしない極めて特異な医療保険、という位置づけである。僕は医療保険そのものが不要だと思うが、どうしても入りたいなら、がん保険ではなく、普通の医療保険の方がまだましだと思う。がん保険に加入してよいのは家族・親族の多くが、がんで死んでいる人ぐらいだろう。

 インフレになって、企業の業績が上がったにしても給料はなかなか上がらないだろうから、生活は苦しくなる。そういう場合、どうするのか。多くの日本人はたぶん我慢する。この20年で日本人は我慢することに慣れてしまった。若者は車も酒も欲しがらなくなった。ZAiオンラインの「年間給与が低い会社100社」を見ると、年間給与200万円台の会社が多いのに驚く。庶民が自己防衛で投資を始めるよりも、社会全体が豊かになる政策が望まれる。景気回復の掛け声よりも、国民の生活を豊かにするという直接的な言葉がほしいものだ。

 昭和20年代、30年代の日本映画を見ると、日本人はみんな今よりはるかに貧しい。貧しくて不便でも不幸じゃない。貧しいのが当たり前の社会だからだ。映画「三丁目の夕日」シリーズが僕は好きだが、このシリーズで残念なのは画面から貧しさが欠落していること。当時の世相が皮膚感覚として分かっていないからだろう。あのシリーズ、きれいなカラーや3Dじゃなくて、小栗康平「泥の河」のように白黒映画にすれば、もっと雰囲気が出ると思う。もっとも、山崎貴監督はリアリズムをが目指しているわけではなく、ファンタジーやSFに近い感覚なのだと思う。そうした舞台設定で人情味豊かだった時代の理想像を目指しているのだろう。

2012/12/29(土)何が心を動かすのか

日本テレビが「風と共に去りぬ」を初めて放映した時だから、30年以上前のことだ。ラジオを聴いていたら、こんな内容のハガキが読まれた。

私は事業に失敗して多額の借金を背負いました。このままでは一家心中するしかない追い詰められた状態でした。そんな時にテレビで「風と共に去りぬ」が放映されました。主人公のスカーレット・オハラが「神さま、私は負けません。この苦難を生き抜き、二度と飢えません!」と天を仰いで力強く誓う場面を見て、考えが変わりました。自分もスカーレットと同じように、もう一度頑張ってみよう。そう思い直しました。

言うまでもなく、「風と共に去りぬ」は名作中の名作だ(このセリフが最後にある前半はすごい名作、「そうだ、タラに帰ろう」と言う後半は普通の名作だと思う)。しかし、自殺を考えているすべての人に自殺を思いとどまらせるような力が、あるいは人生を変えるような力がこの映画にあるかと言えば、そんなことはないだろう。

映画や小説から何を受け止めるかは観客や読者の考え方や経験、置かれた状況によってさまざまに異なる。作者が作品に込めたメッセージを作者の予想以上に大きく受け止めることがあるし、別のメッセージを受け取ることもある。作者が何気なく描いた作品の細部に大きく反応することもある。

ロバート・B・パーカーの小説「愛と名誉のために」(絶版らしい)はそんな部分を描いていた。大学生だった主人公は恋に破れて、少しずつ人生を踏み外し、数年後にはホームレスにまで堕ちてしまう。主人公はある朝、海岸の砂浜で眠り込んでいた時にスコット・フィッツジェラルド「グレート・ギャツビー」の一節をふと思い出す。

人の振る舞いの基盤は、堅い岩の場合もあれば、沼沢の場合もある。

この言葉がきっかけとなって、主人公はゆっくりと再生への道をたどり始めるのだ。「愛と名誉のために」に感動した僕は「グレート・ギャツビー」も読んでみた。この言葉は確かにあった。それは作品の本筋とはまったく関係ない部分だった。

「愛と名誉のために」の主人公は(ということは作者のパーカーは)この言葉に感じるものがあったのだろう。普通の人なら読んでそのまま忘れるかもしれない一節が強く心に残ったのだと思う。そしてそれはフィッツジェラルドが特に力をこめた部分ではなかったはずだ。

つまり、言葉や描写の意味を大きくしたり、小さくしたり、まったく無意味にするのは、あくまでも観客や読者の方だということだ。同じ場面に感動したとしても、AさんとBさんがまったく同じ人間ではない以上、AさんとBさんの感動の度合いや内容は異なる。

もう一つ、以前にも書いたことがあるが、作家の都筑道夫がキネマ旬報の連載で紹介したアメリカのテレビドラマ「ザ・ネーム・オブ・ザ・ゲーム」の一エピソードを再度書いておきたい。これは本当にうまい脚本だと思う。

 あるラジオ局の人気DJのもとに一本の電話がかかってくる。電話をかけてきた女は失恋によって絶望し、これから自殺するという。驚いたDJは必死で自殺をやめるようにラジオから呼びかける。ありとあらゆる言葉を駆使し、「死ぬのは無意味だ」と自殺を思いとどまるよう説得する。この放送は聴取者にも大きな反響を呼び、「自殺するな」という声が多数寄せられる。
 ところが、女が自殺するというのは嘘だった。深夜になって、再び電話を掛けてきた女は自分が女優の卵であり、演技力を試してみたかったのだと打ち明ける。「あなたのお陰で自信がついたわ」。女は笑って電話を切った。
 DJは自分が騙されていたことにがっかりして放送局を出るが、局の前で暗がりから出てきた一人の女性が「ありがとう」と言って包みを差し出す。包みの中には睡眠薬があった。

この女性は「死ぬな!」というDJの言葉が胸に響いたのだ。DJの真摯な呼びかけは無駄にはならず、1人の女性を救うことになった。

人は物語の言葉や描写自体によって心を動かされるのではない。言葉や描写をきっかけにして、自分で自分の心を動かしているのだ。人間の脳は入力されたデータを分析・解釈し、自分なりのデータに変換している。それが人の心を動かす源になっている。

以上のようなことをつらつら考えたのは、KINENOTEで「光のほうへ」のレビューを読んだら、まったく感動していない人がいたからだ。しょうがない。脳の変換エンジンがそれぞれ違うんだから。