2005/09/25(日) 運動会

 秋晴れ。雲一つない上天気。絶好の運動会日和。参加する方には…。観戦する方には暑くてたまらない。特に今年の席は日陰のない所(毎年、地区ごとにグラウンドを右回りに移るのだ。今年は最悪の場所)だったので、朝から強い日差しにさらされてぐったり。さすがに昼食時には木陰に移ったが、午後からまたもや強い日差し。しかも今年はうちの子どもが出る競技は午後の方が多かった。ビデオ担当としては多数のライバルカメラマンと場所取り競争しながら、あっちへ行ったりこっちへ来たりしながら撮影。それでさらにぐったり。

 去年はスチル写真をスライドショー形式に編集してDVDに焼いた。それも悪くなかったが、やはり後から見るにはビデオの方が楽しい。これからPremiere Proで編集しなくてはならない。

 それにしても今日来ていた多数の父母カメラマンの中で、撮ったビデオを編集する人はどれぐらいいるのだろう。たいていは一度見たら、終わりなのでしょう。いや、編集しても一度見たら終わりなんですけどね。少なくともテープのままにしておくよりはいい。テープは必ずカビが生える(体験談)。

 以前、ITmediaにビデオカメラの需要は子どもが小さな時だけという記事があった。たいていの家庭では子どもが生まれたらビデオカメラを買うが、成長するに従って使う機会が減る。だからビデオカメラの買い換え需要は少ないという記事。ビデオは撮影にも編集にもある程度の技術が必要になる。デジカメのように旅先で気軽に撮れるものでもない。だからビデオカメラの販売には限界があるのだという。

 なるほどと思う。うちはビデオカメラ2台目だが、3台目を買うかどうかは疑問だものなあ。子どもが保育園のころは運動会と発表会の年2回は必ず使っていたが、今は運動会の時だけ(あ、神楽の時も撮影したんだっけか)。その年2回も子どもが中学生になると、なくなる家庭が多いだろう。ちょっとした動画なら携帯でもデジカメでもかまわないわけだしね。

編集

 というわけで3時間ほどかけて編集。いつものエンドクレジットのほかに今回はオープニングタイトルも作ってみる。いやあ、面白い。ハイライト部分の映像を短くつなぎ、音楽と字幕を入れると、本格的になる。取り込んだビデオにシーンごとに字幕を付けた後、エンディングを作る。いろいろと試行錯誤しながら、これで3時間。プロの編集者はどれぐらいの時間で作っているんですかね。

 ところが、Premiere Proからテープに書き出そうとしたら、途中で止まる。あれ、メモリーが足りないかと思い、再起動してもう一度書き出してみたが、ダメ。レンダリングの際にオーディオのレンダリングをオフにしたら、なんとか書き出せた。どこか音声のエラーがあったのか。テレビにつないで見てみると、修正したい部分が出てくる。細かい修正をして、ムービー(MPEG2)に書き出す。これをTMPGEnc DVD AuthorでDVD用のファイル(VOB)に書き出す。最後にB's Recorder GoldでDVDに焼き、DVDのラベルを印刷して終了。たった22分のDVDに半日がかりだな。

2005/09/24(土)「大いなる休暇」

 「大いなる休暇」パンフレット「8年前から漁がすたれて島民はみんな生活保護で暮らすようになった。生活保護で金はもらえるが、誇りも少しずつ失う」。

 125人の人口しかいないカナダ・ケベック州のサントマリ・ラモデルヌ島。夜逃げした町長の代わりに町長になったジェルマン(レイモン・ブシャール)がクライマックス、都会から来た医師のルイス(デヴィッド・ブータン)に言う。生活保護から脱けるためには工場が必要で、その工場を誘致するには医師がいることが条件だったため、島民はみんなでルイスに対して理想的な島と装う嘘をついていたのだ。この直前にルイスは恋人と親友から3年間、嘘をつかれていたことを知り、ショックを受けているというのが絶妙のシチュエーションである。さて、ルイスはどうするというのが素晴らしい終盤になっている。高齢者ばかりがいる無医地区というのは日本の地方にもあることだろう。CM監督出身で長編映画デビューのジャン=フランソワ・プリオは、笑いの中に真実を込めたうまい映画を作ったと思う。

 島には15年前から医師がいない。ジェルマンたちはケベック中の医師に島に来てくれるよう手紙を書くが、みんな無視されてしまう。ルイスが島に来た(来ざるを得なかった)のにもひねった理由があるのがうまいところ。ルイスは決してボランティア精神にあふれた医師ではないのである。本当はアイスホッケーが好きなのにルイスの趣味に合わせて男たちはクリケットの真似事をする。毎夜、お金をルイスに拾わせる。下手な釣りの腕前を見て、釣り針に魚を掛ける。ジャズなんて大嫌いなのに大音量のジャズをルイスと一緒に聞く。島に定住してもらおうと、ルイスの電話を盗聴して必死にあれやこれやをする島民たちの姿がユーモラスに温かく綴られていく。ここにある笑いは観客に媚びた下品なものではなく、登場人物のキャラクターからにじみ出る笑い。脚本のケン・スコットはスタンダップ・コメディアン出身という。笑いの本質を分かっている人なのだろう。

 ルイスが来た翌朝からルイスの元には多数の患者が押し寄せる。なにしろ無医地区なので、実際に島民たちは困っていたのだ。そんな島の真実と、誇りを失って無為に暮らしたくないという島民たちの思いが映画からは伝わってくる。監督の言葉を借りれば、この島民たちは「生きる糧をなくして、それでも再度希望を持って立ち上がる人々」なのである。だから、終盤、映画はルイスに対して嘘をつき続けるか、真実を打ち明けるかの選択をジェルマンたちに取らせる。クライマックスが素敵なのは人間として当たり前のことが当たり前に受け止められるからだ。

 ケベック州の島が舞台であるため、セリフはすべてフランス語。出てくる俳優も知らない顔ばかりだが、映画はとても面白かった。農村を舞台にしたミュージカルを作り続ける劇団「ふるさときゃらばん」の姿勢に通じるものがある映画だと思う。過疎地の実情は世界のどこでも共通するものなのだろう。

2005/09/23(金)「チャーリーとチョコレート工場」

 「チャーリーとチョコレート工場」パンフレットロアルド・ダール原作の童話「チョコレート工場の秘密」をティム・バートン監督が映画化。前作の「ビッグ・フィッシュ」に続いて、家族愛を歌い上げるファンタジーである。3連休の初日のためか劇場は満員。200席ほどの映画館だが、左端の上から2番目と1番目の並びの席に家族5人で座る。上の方は冷房の利きが悪く、暑かった。睡眠不足のためもあって、途中でウトウト。映画がつまらなかったわけではないが、同じ家族愛ならば、「シンデレラマン」の後では少し分が悪いのは確かだ。いつものように快調なダニー・エルフマンの音楽とジョニー・デップの演技を楽しんだけれど、話自体にちょっと物足りない思いも残った。

 映画のタッチはバートンらしいブラックな趣味にあふれている。主人公のチャーリー・バケット(「ネバーランド」のフレディ・ハイモア)は斜めに傾いた家に両親とその両方の祖父母の計7人で住む。食事はいつもキャベツのスープ。4人の祖父母は1つのベッドに寝たきり。父親は歯磨きの工場でキャップを閉める仕事をしている。貧しい暮らしだが、チャーリーは家族が大好きだ。街にはウィリー・ウォンカ(ジョニー・デップ)というチョコレート作りの天才が建てた大きな工場がある。チャーリー自身がチョコを口にするのは年に1回、誕生日の時だけである。ウォンカのチョコレートは世界中に出荷され、人気を集めている。工場はスパイを防ぐため、15年前に従業員をやめさせたが、なぜか今も生産は続いており、工場の中がどうなっているのか、人々は興味津々。ある日、ウォンカが子ども5人を工場に招待すると発表する。その招待券はチョコに入った黄金のチケット。チャーリーが誕生日にもらったチョコには黄金のチケットはなかった。祖父のなけなしのへそくりで買ったチョコにもチケットはなかったが、チャーリーは道ばたで拾った10ドル札で買ったチョコでチケットを手に入れる。

 家族思いのチャーリーは、500ドルで買いたいという人がいるので家の暮らしのためにもチケットを売る、という(これは原作にはない)。それに対する祖父のセリフがいい。「お金は印刷されてたくさん出回っている。そのチケットは5枚しかない。それをお金に換えるほどお前はトンマか」。チョコレート工場に招待された5人の子どものうち、チャーリーを除く4人はいずれもいけ好かないガキ。高慢ちきな少女であったり、わがまま娘だったり、ガツガツしたデブの少年だったり、知能は高いが人をバカにしたような少年であったりする。その4人は予想通りの仕打ちを受けることになる。

 工場内部の描写がおかしくていい。チョコを作っている多数のウンパ・ルンパ族やリスたちの場面には大笑い。特にリス。リスたちはクルミの選別を手伝っており、中身のないクルミは捨てている。リスを捕まえようとした少女の頭をコンコンとたたいて、哀れ、少女は不良品と判断されてしまうのだ。こういうキャラクター、どこかで見たなあと思うのだが、なかなか思い出せないのがもどかしい。アメリカのアニメに時々出てくるようなギャグではある。

 ブラックな味わいはあっても、最終的には心温まる話に着地する。それがバートンらしくないというのはもう間違いで、バートンの興味はそういう部分に移ってきているのだろう。気になったのはチャーリーが拾ったお金でチケットを手に入れること。これは何か後を引くのではないかと思ったが、そういう部分はなかった。子どもは「『マダガスカル』の方が面白かった」との感想。そんなはずはないんだがなあ。字幕を読むのに精いっぱいだったのか。

2005/09/22(木)「シンデレラマン」

 「シンデレラマン」パンフレット同じくラッセル・クロウ主演の「ビューティフル・マインド」(2001年)を見た時に、ロン・ハワードはかつてのハリウッド映画の美点をとても大切にしていると感じたが、この映画でもその印象は変わらない。家族の生活のために再起するボクサーの姿を真摯に描き、伝統的なハリウッド映画のど真ん中に位置する作品だと思う。ミステリ的な仕掛けのあった「ビューティフル・マインド」よりも話がストレートなので、主人公への感情移入もしやすい。脚本と撮影と演出と俳優たちの演技のレベルが高く、どれにも文句を付けようがない。微妙にケチを付けるとすれば、作品が正直で優等生すぎるところだろうが、ハワードは元々そういう作品を目指しているのだから意味がないだろう。娯楽映画の王道と言える物語と手法で映画を作り、期待を裏切らない作品に仕上げたハワードの手腕には感心せざるを得ない。

 主人公は1930年代に奇跡のカムバックを果たした実在のボクサー、ジェームズ・J・ブラドック。映画は1928年、絶頂期のブラドックの裕福な生活を描いた後、シーンをそのままオーバーラップして1933年、薄汚いアパートで貧困にあえぐブラドック一家の姿を映し出す。右手の甲を骨折したブラドックは試合でも勝てないが、けがを癒やす暇もなく、金を稼ぐために戦い続けねばならない。昼間は日雇いの過酷な仕事をするが、大恐慌の時代、仕事にありつけないこともしばしばだ。しかも、不甲斐ない試合を見たプロモーターの怒りを買い、ブラドックはライセンスを剥奪されてしまう。アパートの電気は止められ、子どもは病気になる。ブラドックは緊急救済局で金をもらうが、それでも足りず、ボクシング委員会へ行って、援助を求めることになる。そんなブラドックに大きな試合のチャンスが訪れる。かつてのマネージャー、ジョー(ポール・ジアマッティ)が世界ランク2位の選手との試合の話を持ってきたのだ。報酬は250ドル。ブラドックはマジソン・スクエア・ガーデンに別れを告げるつもりで試合に臨む。

 記者に何のために戦うのかと聞かれてブラドックは「ミルク」と答える。大恐慌で財産をなくしたブラドックは妻のメイ(レニー・ゼルウィガー)と3人の子どものために、金を得るために戦う。何よりも主人公は全力で貧しさと闘っているのだ。前半の貧しさの描写は「たそがれ清兵衛」にはかなわないのだけれど、ミルクに水を入れて薄めたり、電気を止められて暖房のない部屋で子どもが病気になったり、肉屋のソーセージを盗んだ子どもに対して「絶対におまえをよそにはやらない」と約束するシーンなどにホロリとさせられてしまう。細部の描写が大変優れた映画で、それが全体のレベルを底上げしている。予告編を見れば、映画の大まかなストーリーは分かってしまうのだが、それでもなお、観客に感動を与える映画になっているのはそうした描写のうまさがあるからだろう。

 ハワードには大恐慌の時代を描く狙いもあったようで、セントラルパークにフーバー・ヴィルと呼ばれる村ができ、暴動が起きる場面なども描かれる(「イン・アメリカ 三つの小さな願いごと」でやはり貧しさと闘ったパディ・コンシダインが労働組合の結成を目指す労働者の役で登場する)。時代の描き方は同じく大恐慌を背景にした昨年の「シービスケット」よりもうまい。時代と物語が密接な関係にあるのである。

 ラッセル・クロウはボクサーらしい精悍な体を作って、理想的な父親役を好演している。ゼルウィガーも相変わらずいいが、もっと目を惹くのはポール・ジアマッティ。一見、裕福なマネージャーが実は、という場面などで奥行きの深いキャラクターを作っている。パンフレットによると、主要キャスト、スタッフの中でオスカーを手にしていないのはジアマッティだけだそうで、クロウはジアマッティの「オスカー受賞キャンペーンに集中したい」と語っている。助演男優賞へのノミネートは堅いのではないか。

2005/09/18(日)「サマータイムマシン・ブルース」

 「サマータイムマシン・ブルース」パンフレット「踊る大捜査線」の本広克行監督のタイムマシンを巡るスラップスティック。元は京都の劇団ヨーロッパ企画の舞台で、劇団の脚本家・上田誠が映画の脚本も手がけている。セリフが多いのはいかにも舞台劇らしい。内容はタイトル通りの時間テーマSFで、大学のSF研が壊れたエアコンのリモコンを元に戻そうと、昨日と今日を行ったり来たりする(タイムトラベル18回だそうだ)。それに25年後の未来から来た大学生が絡んでくる。時間テーマSFの常でタイムマシンが登場するまでがほとんど伏線になっている。話はよく考えてあるが、アイデアとしては初歩的。つじつま合わせに終わった観があり、センス・オブ・ワンダーは感じられない。その代わり、瑛太や上野樹里など大学生たちのドタバタぶりはおかしくて好感が持てる。もちろん、映画もそこを狙ったのだろう。ワンアイデアの小品として面白い。

 夏休みの暑い日、ある大学のSF研究会の部室が舞台。映画は最初の1日をスケッチする15分ほどが伏線のための描写である。部室の古いエアコンのリモコンがコーラをこぼしたために壊れてしまう。暑さにうだる部員たちの前に翌日、マッシュルームカットの男が現れる。男が去った後、部室の中に不思議な機械があるのが分かる。それはタイムマシンだった。部員たちはどの時代へ行こうかと盛り上がるが、マシンのダイヤルは最大99年前。あまり遠い過去に行くのも危険なので、部員たちはエアコンのリモコンを昨日から持ってこようと計画する。このあたり、微妙にリアリティがある。3人が過去へ行くが、その間に相対性理論を研究している大学助手が「過去を変えると、現在が消える」とパラドックスを説明する。慌てた部員たちは昨日へ行った部員の行動を止めようと、タイムマシンに乗り込む。そこから次から次へと騒動が巻き起こる。

 SF研なのにSFの意味も知らず、部員たちは野球に興じている。ただただ遊びが目的のクラブというのがいかにもありそうな設定。部員を演じるのは瑛太のほか与座嘉秋、小泉俊介、ムロツヨシにヨーロッパ企画の永野宗典、マッシュルームカットの男に同企画の本多力。部室の奥には部員が激減したカメラクラブの暗室があり、上野樹里と真木よう子がいる。上野樹里は「スウィングガールズ」と違って、素の溌剌とした部分はないが、好演している。

 本広克行はキネ旬の特集で「うる星やつら ビューティフル・ドリーマー」の要素を入れたと語っている。大学の校舎の雰囲気が友引高校に似ているほか、所々に顔を出す神様役・升毅は夢邪鬼に重ね合わせているとのこと。街の名画座に「バック・トゥ・ザ・フューチャー」のポスターがあるのは当然としても、恐怖映画のカルト「マタンゴ」のポスターがSF研の部室にあるのにはにんまり。本広克行も影響を受けているのだろう。この映画、映画と演劇をコラボレーションする「プレイ・バイ・ムービー」の第1弾。10本作る予定だそうで、なかなか楽しみな企画だと思う。