2005/11/26(土)「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」

 「ハリー・ポッターと炎のゴブレット」パンフレットハリー・ポッターシリーズの第4作。今回は「フォー・ウェディング」のマイク・ニューウェルが監督を務めた。毎度のことながら、2時間37分の上映時間は長すぎると思う(エンドクレジットが10分ほどあるのにもまいった)。毎回2時間を大幅に超える映画になるのはプロデューサーに「長くなければ大作ではない」という意識でもあるのだろう。この4作目も内容からすれば、2時間程度にまとめられる話である。ニューウェルの演出はとりあえず、字面を映像化してみました、といったレベル。VFXは水準的だし、演技力云々を別にすれば、主役の3人も僕は好きなのだが、映画にはエモーションが欠落している。ハリーの初恋もハリーとロンの仲違いも、ハーマイオニーとの関係もただたださらりと何の思い入れもなく描いただけ。心がこもっていない。ニューウェル、こういうファンタジーが本気で好きではないのに違いない。監督の人選を間違ったのが今回の敗因なのだと思う。

 メインの話、というよりも、長い時間をかけて描かれるのは三大魔法学校対抗試合(トライウィザード・トーナメント)。危険を伴うために100年以上も禁止されていた試合が開催されることになり、17歳以上が出場するという条件にもかかわらず、炎のゴブレットに選ばれて14歳のハリー・ポッター(ダニエル・ラドクリフ)もホグワーツ魔法魔術学校を代表して出場することになる。ホグワーツのほか、対抗試合に出るのはボーバトン魔法アカデミーとダームストラング学院の代表。試合はドラゴン、水魔、迷路での戦いの3つである(どうでもいいが、日本語吹き替え版では水魔がスイマーに聞こえた)。出場者は魔法の杖と実力を頼りに勝ち抜いていかなければならない。

 これに合わせて1作目から続く悪の権化ヴォルデモートとの確執が描かれる。シリーズ全体を眺めれば、ハリーの両親を殺したヴォルデモートとの対決が話の軸になっていくのはよく分かる。この映画の冒頭にヴォルデモートは登場し、クライマックスもヴォルデモートの復活になっており、この部分に関しては大変面白かった。ただし、こういう構成ではそれまでの対抗試合の話が結局のところ、刺身のツマみたいになってしまうのだ。映画を見終わってみれば、対抗試合がどのような結果になろうと、大した問題じゃなくなる。困るのは、このツマがメインの刺身よりも大きいこと。本筋に導くための脇筋なのに、これでは本末転倒としか思えない。

 これは脚本が悪いのだろうと思って、脚本家の名前を見たら、なんと「恋のゆくえ ファビュラス・ベイカー・ボーイズ」(1989年)のスティーブ・クローブスではないか。というか、クローブス、1作目からずっとこのシリーズの脚本を書いている。知らなかった(ではなく、忘れていた。1作目の映画評を読み返してみたら、言及していた)。個人的には大好きなあの佳作を撮った監督がなぜ、この程度の脚本しか書けないのか。オリジナルではない脚色の難しさというのは確かにあるのだろうが、あまりと言えばあまりな出来である。対抗試合はあっさりすませてハリーとヴォルデモートの対決をあくまでもメインに置いて書くべきだった。

 ヴォルデモートを演じるのはレイフ・ファインズ。鼻のつぶれたメイクでハンサムなファインズにはとても見えない。次作以降、出番も多くなるのだろうからこその演技派のキャスティングなのだろう。その次作「不死鳥の騎士団」を成功させたいなら、まず脚本をじっくり書かせたうえで、ファンタジーに理解のある監督を選んで欲しいものだ。上映時間も2時間以内に収めることを切に望む。その方が絶対に引き締まった印象になる。そうしないと、このシリーズは所詮子供向けの大味なシリーズということになってしまうだろう。

2005/11/25(金)「仄暗い水の底から」

 タイムリーに放映してくれた。「ダーク・ウォーター」と比べてみると、こちらの方がやはり怖い。単に子供が赤いバッグを持っているだけで、どうしてあんなに不気味な演出ができるのか。中田秀夫はやはり恐怖の演出、不気味さの演出ではうまい。これを見ると、たかが子供の霊だから怖くないとは言えなくなる。たたみかけるようなクライマックス、あの緑色の手が首に巻き付く演出などは大したものだと思う。黒木瞳の神経症的な演技も悪くない。

 僕はこの映画、全然見ていないと思っていたが、ラストシーンだけは覚えていた。いや、ラストシーンだけ見ていたのを思い出した。ここは怖さと母娘の愛情が絶妙にブレンドした場面で、「ダーク・ウォーター」のそれより優れている。

 ウォルター・サレスはホラーの演出が苦手だったのだろうなと思う。俳優の演技とか、映画の丁寧さとか、映画の格とかすべて勝っているのに、怖さと面白さでは中田版に負けてしまった。クライマックスを分かりやすく変えたのも敗因なのだろう。

2005/11/23(水)「キングダム・オブ・ヘブン」

 「キングダム・オブ・ヘブン」チラシ今年前半に見逃した映画をDVDで追いかけることにした。これは何となく、史劇に食指が動かなかったので見なかったのだが、映画館で見るべきでした。

 キリスト教徒とイスラム教徒の軍事的抑制で危ういバランスが取れていた12世紀のエルサレムを舞台にしたドラマ。キリスト教徒の王・ボードワン4世の死で、バランスが崩れ、戦闘が始まる。テレビの画面で見ていると、美術やセットなどがいかに素晴らしくても、主人公がエルサレムへ行くまでの前半は何ということもない映画に感じられるが、クライマックスのエルサレム攻防の戦闘シーンが凄かった。「ロード・オブ・ザ・リング」に匹敵するスペクタクル。CGで描いたと思われる兵士の数の多さにはもう驚かないけれど、投石の迫力が凄いし、画面の構図や映像の撮り方がオリジナリティに富んでいる。

 さすがにリドリー・スコットは映像派の監督だなと再認識した。個人的にはベストテンに入れてもいいかと思ったほど。中盤の戦闘シーンを省略したのは、見ている間は「影武者」を参考にしたのかと思ったが、クライマックスの迫力を減じないためではないかと思い直した。

 主演は「ロード・オブ・ザ・リング」のレゴラスことオーランド・ブルーム。こうした超大作の主演にはちょっと線の細さを感じるが、無難に演じている。聖地を守るためではなく、そこに住む民を守るために戦うという主人公の設定がいい。

2005/11/22(火)うまい脚本

 「大停電の夜に」は惜しいところで傑作になり損ねているが、それではどういう脚本がうまい脚本なのか。以前、作家の故・都筑道夫さんがキネ旬連載の「辛味亭事苑」で紹介していたテレビの「ザ・ネーム・オブ・ザ・ゲーム」の話が僕には強く印象に残っている。話はこうである。

 あるラジオ局の人気DJのもとに一本の電話がかかってくる。電話をかけてきた女は失恋によって絶望し、これから自殺するという。驚いたDJは必死でラジオから自殺をやめるように呼びかける。ありとあらゆる言葉を駆使し、「死ぬのは無意味だ」と自殺を思いとどまるよう説得する。この放送は聴取者にも大きな反響を呼び、「自殺するな」という声が多数寄せられる。ところが、女が自殺するというのは嘘だった。深夜になって、再び電話を掛けてきた女は自分が女優の卵で演技力を試してみたかったのだと話す。「あなたのお陰で自信がついた」と女は笑って電話を切る。DJは自分が騙されていたことにがっかりして放送局を出るが、局の前で暗がりから出てきた一人の女性が「ありがとう」と言って包みを渡す。包みの中には睡眠薬があった。

 もちろん、この女性はDJの呼びかけで自殺を思いとどまったのである。ハリウッドはさすがにエンタテインメントの伝統があるなと思うのはこういう脚本がテレビで出てくるからだ。どこをどうすれば面白くなるのか、それが浸透している。ショウビズの本場の底力はそんな部分に現れるのだと思う。もっとも、今のハリウッド映画の脚本がすべて優れているわけではないんですがね。

2005/11/22(火)「ダーク・ウォーター」

 「ダーク・ウォーター」パンフレット鈴木光司原作、中田秀夫監督の「仄暗い水の底から」(2002年)のリメイク。監督は「セントラル・ステーション」「モーターサイクル・ダイアリーズ」のウォルター・サレス。原版を見ていないので比較しようがないが、これはホラーというよりも母娘の絆を描いた映画と言える。ホラーとしては理に落ちた分、怖くなくなっている。物語に納得してしまえるホラーは怖くないのである。不条理の怖さ、理由のない怖さ、問答無用の怖さ、といったものはこの映画にはない。子供の頃に母親から憎まれ、捨てられたヒロインの精神状態の不安定さを利用すれば、そうした怖さが表現できたと思うが、サレスはそういう演出をしていない。睡眠薬で丸一日眠ってしまったヒロインが見る悪夢のシーンなどはもっと怖くできるのに、と思う。黒い水(ダーク・ウォーター)が部屋を浸食するようにヒロインの精神も浸食されていくような演出がもっと欲しいところではある。だから、この映画を見ると、たかが子供の霊だから怖くないんだよなということになってしまう。同じくハリウッド進出監督のホラーということで、見ていて連想したのはアレハンドロ・アメナーバルの「アザーズ」だが、あの映画で怖さ以上に魅力的だった情緒的な悲劇性もまた、この映画には薄い。映画の丁寧な作りとジェニファー・コネリーの好演に感心はしたが、映画としては水準以上のものにはなっていない。

 離婚調停中のダリア(ジェニファー・コネリー)は一人娘のセシリア(アリエル・ゲイド)とルーズベルト島のアパートに引っ越してくる。ダリアは夫のカイル(ダグレイ・スコット)とセシリアの親権を争っているが、ニューヨークのアパートは家賃が高すぎてダリアには手が届かなかった。アパートは古ぼけており、管理人のヴェック(ピート・ポスルスウェイト)は愛想が良くない。親子はアパートに入った途端、気味の悪さを感じるが、家賃が安かったこともあって入居を決めた。部屋は9階。ダリアは天井には黒いシミがあるのを見つける。上の階から水が漏れているらしい。上の物音も響いてくるが、10階の部屋は空き部屋だという。いったん修理した天井のシミからは再び黒い水がしたたってくる。10階の部屋に行ってみたダリアは部屋が一面、黒い水で水浸しになっているのを見る。そしてセシリアは見えない友人ナターシャと話をするようになる。地下のコインランドリー室では洗濯機から黒い水が噴き出す。不思議な出来事と夫との親権争いが徐々にダリアを精神的に追いつめていく。

 雨がしとしとと降り続く場面が象徴するように映画には湿っぽい雰囲気が充満している。それはダリアの幼少期からの不幸な境遇にも通じており、ダリアは今の娘との幸せを守ろうと必死になっている。コネリーは実際に2人の子供の母親だけあって、そのあたりの母親の愛情についてはうまく表現している。映画で惜しいのは語り口がやや一本調子になってしまったこと。これはストーリーと関係するが、途中で大きな転換の場面が欲しくなってくる。丁寧に撮った作品が必ずしも傑作になるわけではないのである。物語自体の面白さがやはり必要なのだろう。ラファエル・イグレシアスの脚本は原作(短編)を膨らまし切れていないように思う。

 いい加減な不動産屋のジョン・C・ライリーといつも車の中で仕事をしている弁護士のティム・ロスのキャラクターは面白かった。ピート・ポスルスウェイトも含めて、この映画、役者の演技に関しては文句を付ける部分はない。