2001/12/11(火)「赤い橋の下のぬるい水」
土着的な性を取り上げ続けている今村昌平らしいテーマと言えるが、出来の方は普通の映画である。今村昌平の外見はすっかり好々爺になってしまったけれど、今回の映画にも枯れた印象がある。ま、75歳でぎらぎらした映画を作られたら、その方が気持ち悪い気もする。
体の中に水がたまる女(清水美砂)がいる。水がたまると苦しく、万引きをしてしまう。この水はセックスをすることで放出される。リストラで失業中の男(役所広司)がこの女と出会い、2人はせっせとセックスに励むことになる。という設定ならば、男女の性の深淵を描くことになるはずなのだが、そうはならない。女が出す水の描写は本当に放出という感じで、堰を切ったように、噴水のように水が噴き出す(あんなに出たら、脱水症状になるに違いない)。部屋は水浸しになり、部屋から流れ出たぬるい水に川の魚が集まってくるのだ。ラストには噴出する水に虹がかかる描写(!)さえある。この映画、基本的にはおおらかな艶笑譚なのである。
撮影中に妊娠数カ月だった清水美砂に色気が足りないということは置いておく(もともと清純派だから、そんなに色気はない)にしても、秘密を共有した男女の親密な描写が不足している。男の方の快楽にのめり込む様子も不十分である。では女の性を追求しているかというと、そうでもない。性の本質ではなく、その周辺のいろいろな事情が子細に語られるだけである。だから枯れた印象になる。
見ていてこういう話の決着をどう付けるかに興味があったが、ここで今村昌平は旧作「うなぎ」のようなエピソードを挟んで締め括っている。主演の2人が同じなので「うなぎ」の延長のような感じになってしまうが、「うなぎ」の重たさに比べてこちらは軽く、心地よい。心地よいけれど、やはり過去の今村昌平の傑作群に比べると、不満を感じずにはいられない。倍賞美津子や北村和夫、中村嘉葎雄、坂本スミ子ら脇役の充実ぶりが光るが、映画全体に抜きんでたものはない。巨匠が作った水準作というべきか。
2001/11/27(火)「かあちゃん」
山本周五郎の同名原作を和田夏十(故人)が脚本化、市川崑が監督した。市川崑にとっては昨年の「どら平太」に続く山本周五郎原作ものとなる。パンフレットによると、この原作は1958年に西山正輝監督によって「江戸は青空」(大映)という映画になっている。これは60分余りの中編だそうで、「日本映画作品全集」(キネマ旬報)にさえ収録されていないから、あまり重要な作品ではないのだろう。脚本のクレジットは久里子亭(市川崑と和田夏十の共同ペンネーム)。原作に惚れ込んでいた市川崑は、いつか自分で監督したいとの思いがあったのだそうだ。
落語によく登場する人情長屋を舞台にした、いかにも山本周五郎原作らしい味わいの作品になっている。天保末期、飢饉による米価の高騰と過酷な税の徴収により江戸の庶民の生活は貧窮を極めていた。貧乏長屋に住むおかつ(岸恵子)は5人の子どもと暮らしているが、吝嗇として知られ、長屋の付き合いもそこそこにかなりの金を貯め込んでいる。それを聞きつけた勇吉(原田龍二)がおかつの家に泥棒に入る。一人起きていたおかつは勇吉を諭し、なぜ一家が金を貯めているかを話す。3年前、長男の市太(うじきつよし)の大工仲間・源さん(尾藤イサオ)が盗みを働いた。こんな世の中に罪を犯さざるを得なかった源さんの将来を案じたおかつは、源さんが牢から出てきた時のために、家族が協力して新しい仕事の元手となる金を貯めることにしたのだ。事情を聞いて家を去ろうとする勇吉に、おかつは「行くところなんてないんだろ」と引き留める。勇吉は家族同様に扱われて、この家に居候することになる。
牢から出てきた源さんのために一家は魚を焼き、ごちそうを作り、源さんの一家をもてなす。おかつは「このお金は貸すのでもあげるのでもない。あんたのお金なんだよ」と源さんに金を渡し、一家も源さんの家族も勇吉も泣き崩れることになる。この場面が大きな見せ場で、映画もここで一つの区切りとなる。その後に描かれるのは勇吉が本当に家族同様となるエピソード。これもいいのだが、クライマックスの後の長いエピローグのような印象を受けてしまう。逆に言えば、源さんを助ける場面が盛り上がりすぎなのである。映画全体とのバランスを少し崩している。
しかし、これは小さな傷と言うべきだろう。市川崑はセピア調の画面で温かい物語を描き出している。大作ではなく、しっかりと作られた小品で、同じ現像処理(銀残し)を施した「幸福」(1981年)と同じく、職人としての技を見せられたような印象を受けた。
おなじみの明朝体の文字と、和田誠のイラストで幕を開けるタイトルから市川崑らしい映像に彩られる。出演者も人情長屋の話にふさわしいメンバーがそろっている。大家の小沢昭一、長屋に住む春風亭柳昇、コロッケ、江戸家子猫、中村梅雀、石倉三郎といった面々とおかつ一家のうじきつよし、勝野雅奈恵らいずれも好演している。
2001/11/06(火)「アカシアの道」
アルツハイマー病にかかった母親(渡辺美佐子)と娘(夏川結衣)の物語。痴呆の母の介護という現実的な問題を扱った映画でもあるのだが、それ以上にこれは松岡錠司監督(「バタアシ金魚」)が言っている通り、母と娘の葛藤の物語になっている。回想で描かれる娘の小学生時代の描写に心が痛む。娘を生んですぐに離婚した母親は教師をしながら一人で娘を育てるが、しつけに異常に厳しい。友達が来て騒げば、頬をぶたれる。狭い団地で「お前なんか生まなけりゃ良かった」という言葉を投げつけられる。ほとんど虐待に近いとも言えるこの環境は娘にとって地獄だっただろう(パンフを読んだら、原作の近藤よう子は児童虐待をテーマにした漫画を描いた後、その裏返しでこれを描いたそうだ。やっぱり)。逃げ場がない
環境での虐待は悲劇としか言いようがない。「お前のためを思って」という言葉とともに押しつけられる親の理想ほど、子どもにとって迷惑なものはないのだ。
娘が高校卒業後、家に寄りつかず、編集の仕事をしながら一人で生活しているのも当然なのである。しかし娘は母の痴呆症状の連絡を受け、団地に帰って来ざるを得なくなる。母親の痴呆は徐々に進み、記憶が混乱し、必然的に以前のように罵詈雑言を浴びせられる。徘徊して家に戻れなくなる、アイロンをつけたままにする、火事になりそうになる。その一方で娘の恋人は母親がアルツハイマーと知って離れていく。介護を頼もうと思っても、公的介護は順番待ち。民間に頼めば費用がかかる。そんな風に主人公は追いつめられていく。
娘は叔母(藤田弓子)から母親がすぐに離婚したのはその前に失恋があったかららしいと聞かされる。父親との結婚もその反動だったらしい。それと子どもに対する虐待とは次元の違う話なのだが、人間の心理はそう簡単ではないのだろう。
結論を出しにくいテーマで、ラストの処理も難しい。「私、小さい頃、こうやってお母さんに手を握ってもらいたかったの。お母さんはしてくれなかったけど、私は握ってあげる」。母親の生き方を理解できたことで、娘は痴呆がさらに進んだ母親にそう話す。家族の再生、というよりは真の親子関係への変化を示唆して映画は終わる。松岡監督は重いドラマを緊密に演出し、ただの介護問題啓発映画などにはしなかった。渡辺美佐子は当然のことながらうまく、夏川結衣も好演している。
2001/10/16(火)「陰陽師」
夢枕獏の原作を滝田洋二郎が映画化。見ていて、何となく「グリーン・デスティニー」と比較していた。あちらは剣の達人、こちらは陰陽道の達人との違いはあるにせよ、どちらも人間離れした能力を備えており、とりあえず正義の立場にあるという点で一致している。その比較の結論から言うと、「グリーン・デスティニー」にはかなわなかった。
一番の要因はクライマックスのカタルシスの不足にある。陰陽道の達人同士が対決するのならば、SFXを駆使した場面を期待してしまうのだが、対決場面が地味なのである。ここの演出自体が悪いわけではなく、物語の結末としての重みに欠けるのだ。
「帝都物語」や「魔界転生」などもなんとなく思い出してしまう映画なのだが、こうした日本製伝奇SFに共通するのは雰囲気が重たくなってしまうことで、根が明るい映画の多い滝田洋二郎監督をもってしてもその呪縛からは逃れられなかった。急いで付け加えておくと、この映画は「帝都物語」よりも「魔界転生」よりも良い出来だし、去年の同じ時期に公開され、一部に同じモチーフを持つ「五条霊戦記」よりも相当良い出来である。
その良さはひとえに安倍晴明を演じる野村萬斎によるものである。単純な正義の味方ではない複雑なキャラクターと不気味な雰囲気を併せ持ち、立ち居振る舞いや口跡、独特のセリフ回しが実にいい。鬼が跋扈した平安時代にマッチした雰囲気を持っていると思う。惜しむらくは安倍晴明とともに悪に立ち向かう源博雅を演じる伊藤英明に野村萬斎に負けないキャラクターがないところ。明るくてどこか抜けているが、正義感は強いこのキャラクター、超人と常人、陰と陽を際だたせる役回りで狂言回しでもある。重要な役なのだが、伊藤英明は野村萬斎の迫力に大きく負けている。だから、晴明がなぜ博雅を特別視するのか伝わらないし、2人のホモセクシュアル的な友情関係にもいまいち説得力がない。
これは安倍晴明と対決する道尊を演じる真田広之にも言えることで、いくら熱演していても、野村萬斎とは演技の質が決定的に違うので、対抗できないのである。やはり役者自身が持つ雰囲気は大事なのだなと思う。野村萬斎は映画は黒沢明「乱」以来の出演という。もっと映画に出すべき俳優ではないか。
2001/09/25(火)「東京マリーゴールド」
林真理子の短編「1年ののち」を市川準が田中麗奈主演で映画化。市川準の映画を見るのは久しぶりだが、これは傑作。
契約社員の酒井エリコ(田中麗奈)が合コンでエリート・ビジネスマンのタムラ(小沢征悦)と出会う。酔っぱらったタムラを介抱したエリコにタムラは「携帯の番号もらってくれないか」と手渡す。なんとなく電話をかけたエリコはタムラとデートするが、そこでタムラにはアメリカに留学している恋人がいることが分かる。もう会うこともないと思っていたが、ある小劇場で偶然再会。タムラを本当に好きになってしまったエリコは「彼女が帰ってくるまでの1年間だけでいいから、わたしとつき合って」と言ってしまう。ここから1年間の期限付きの恋愛が始まる。
市川準はいつものように淡々と撮っているが、田中麗奈の魅力は画面の隅々まで弾けている。タムラとの何気ない生活ぶりもいいのだが、ラスト近く、喫茶店での場面の鬼気迫る表情には脱帽した。この場面、田中麗奈自身、「自分で見ても衝撃的だった」と語っている。アイドルではなく映画女優として大きく羽ばたく逸材であることを田中麗奈はこの場面で証明した。
1年間の期限付きだからラストは別れるか、続けるかの2つしかない。映画もそのように進行するが、その後に絶妙のオチがある。それまでのストーリーを別の視点で見なくてはいけなくなるようなオチ。いや素晴らしい。感心した。これによって映画は単なるラブストーリーではなく、1人の女性の成長を描くものになった。スーザン・オズボーン「ラブ・イズ・モア・ザン・ディス」が流れるラストが晴れ晴れとしてとてもいい。
タイトルのマリーゴールドは1年で花を咲かせて散ってしまう1年草。期限付きの恋愛とかけているわけだ。正社員になりたいと思いながら、1年間の契約社員であるエリコの境遇も内容と符合している。