2001/06/05(火)「JSA」

 共同警備区域(Joint Security Area)で起きた南北兵士同士の殺人事件を中立のスイス軍女性将校が捜査する。北と南で言うことは食い違い、事件は藪の中的様相。その背景には南北分断の悲劇が横たわっていた。

 韓国では公開15日目で観客動員100万人を突破したという大ヒット作。あの「シュリ」の記録も塗り替えた。朝鮮民族に切実なテーマも要因だろうが、映画のエンタテインメントとしての作りが広く支持されることになった一番の理由だと思う。語り口は「シュリ」よりずっと洗練されている。しかし関係者とみられる兵士の回想でその事件の半分以上が明らかになるという構成はもう少し考える必要があった。回想が長すぎるのである。

 板門店の緊張感漂う描写と南北兵士の交流の風景の温かさのうち、パク・チャヌク監督の資質は後者にあるようだ。パンフレットによると、南北兵士の非公式の交流はウワサとして絶えないのだという。それを考えれば、実際にはありそうにないこのストーリー展開も納得はするが、事件の真相には今一つ説得力に欠ける。なぜ、あの兵士は○○○を○○○しなければならなかったのか。それをしなければならない体制に押しつぶされた民族の悲劇ととらえることもできるのだが、兵士の行動に納得いかない部分が残る。

 個人的には「シュリ」の熱い語り口の方が好みである。韓国での公開は昨年9月9日。ヒットの要因として歴史的な南北首脳会談の年だった影響も見逃せない。

2001/05/29(火)「ホタル」

 高倉健が映画の中で歌う「アリラン」の訳詞に作家の帚木蓬生が協力している。どうせなら脚本にも協力が欲しかったところだ。映画は特攻隊の生き残り高倉健とその妻田中裕子を中心に特攻隊の回想と現在(昭和から平成に変わる1989年の鹿児島)を織り交ぜて、初老の夫婦の日常を描くのだが、脚本の焦点がやや定まらない感じを受ける。

 特攻隊で亡くなった朝鮮人・金山少尉の存在が大きいのに、それをうまく生かしていない。というか設定に多少無理があるし、もっともっとここを中心に組み立てた話にした方が良かったと思う。設定の無理についてはキネマ旬報6月上旬号で韓国文化院長が指摘している。朝鮮の人が特攻隊に参加する理由として「朝鮮民族のため」と語るのは不自然なのである。なぜ特攻隊に参加することが朝鮮民族のためになるのかよく分からない。それなりの理由づけが必要だっただろう。

 日本軍に協力して戦死した朝鮮人1000人の遺骨を韓国政府は引き取っていないとか、映画は朝鮮半島と日本の関係をエピソードとしては紹介するのだけれど、どうも深く言及するのを差し控えたような印象がある。降旗康男は社会派の監督ではないし、やんわりとした描写はその持ち味でもあるのだが、せっかくの題材なのにもったいない。もっと鋭く、もっと深く描くべき題材だったように思う。

 高倉健が雪の中で鶴の真似をするシーンや韓国へ金山少尉の遺品を届けに行き、家の前で突っ立ったまま遺族と長々とやりとりをする場面などは違和感が残る。このほか細かい部分に不自然な描写があり、演出的にも緩んだ場面が散見される。田中裕子の病気の設定も僕には不要のように思えた。

 ただし、奈良岡朋子は凄かった。特攻隊員の面倒を見て長年“知覧の母”と言われた奈良岡朋子が自分の半生を振り返って「本当の母親なら息子を次々と特攻隊に送り出すはずがない」と泣いて悔やむシーンは圧倒的な演技と相俟って強い印象を残す。元々この映画、「知ってるつもり!?」で紹介された“知覧の母”が企画の始まりという。それならば、やはり戦争中の場面を中心にした方が良かっただろう。時代を1989年にしたのは高倉健の年齢的な制約によるものだが、そもそもこの時代設定に間違いがあったのではないか。

2001/05/22(火)「15ミニッツ」

 マスコミの報道の在り方を批判するなら、もっと真正面から取り上げるべきだ。こんなプロットではマスコミ批判なのか、刑事アクションなのか、はっきりしない。焦点がボケボケである。監督の頭の中もボケボケなのだろう。

 視聴率競争やテレビの中で起きる殺人といえば、「ネットワーク」が思い浮かぶ。あの映画さえ、現実を誇張しすぎと公開当時いわれたものだが、今回は誇張というよりは視点と映画製作の姿勢の問題のように思える。批判の対象はもっと詳しく描かないと説得力がない。

 昨年の「インサイダー」は立派なテレビ記者を描いていたけど、それでもテレビ局のどこがどう問題なのかは十分に描かれていた。

 この映画で描かれるのはカリカチュアライズに近いテレビ報道と現実にはありそうにない殺人犯人の設定である。きっと監督・脚本・製作のジョン・ハーツフェルドには本気で批判などするつもりはなかったのだろう。本気なら、こんなありふれた展開にはしないはずだ。とりあえずマスコミ批判を入れて、刑事アクションを絡めてという安易な姿勢が見え見えである。頭で考えたストーリーを組み合わせただけで、現実の取材の跡はまったく見えない。

 それでもなおロバート・デ・ニーロはいつものように好演しているし、相手役のエドワード・バーンズも良い味を出している。この2人を中心にした単なる刑事アクションにした方がよほどましだった。

2001/05/14(月)「ショコラ」

 ラッセ・ハルストレムはうますぎる。うーん、感心しました。物語の奥行きが深いです。

 フランスの片田舎の村に北風とともにやってきた親子ヴィアンヌ(ジュリエット・ビノシュ)とアヌーク(ヴィクトワール・ディヴィソル)がおいしいチョコレートの店を開き、保守的な村人の心を解放していく物語。赤いコートを羽織った親子は魔法使いのよう。しかし村人には悪魔と映る。

 その筆頭が村長で伯爵のレノ(アルフレッド・モリーナ)。ヴィアンヌは村長の妨害に負けず、徐々に村人の心をとらえていく。奥行きが深いのは因習からの解放を目指すヴィアンヌ自身、因習に縛られているのが分かること。もちろん、最後にヴィアンヌも因習から解放される。

 キャリー=アン・モス、レナ・オリン、ジュディ・デンチ、レスリー・キャロンといった女優陣が脇を固め、ウェルメイドに作られたファンタジー。親子の素性をさらりと描写するあたりもうまい。なるほど南米の魔法使いのような女がおばあちゃんなわけですか。

 考えてみると、ジュリエット・ビノシュとレナ・オリンは「存在の耐えられない軽さ」以来の共演なのかな。オリンはあまり変わってないけど、ビノシュは老けましたね。

2001/05/08(火)「スターリングラード」

 スターリングラード攻防戦をスナイパーの立場から描いた戦争映画。主演のスナイパーをジュード・ロウ、敵対するドイツ軍の凄腕スナイパーをエド・ハリスが演じる。戦闘場面は「プライベート・ライアン」に負けない迫力。荒廃したスターリングラードでの銃撃戦、空襲シーン、無謀な突撃作戦、退避する兵士を容赦なく撃ち殺すロシア兵などなど戦争の惨禍が描かれる。突撃作戦で2人に一丁の銃しか渡さないというのは無茶苦茶である。

 しかし本筋はスナイパー同士の対決で、冒険小説ファンとしては、こういう展開は好みである。好みではあるけれど、それだけ点は厳しくなる。ロウとハリスは数度、スコープを向け合うが、クライマックスの対決はもう少し長く見たいし、工夫がほしい。こういう対決でギャビン・ライアル「もっとも危険なゲーム」あたりを思い浮かべるこちらが悪いのか。

 映画では例えば、「フルメタル・ジャケット」で女狙撃兵の恐怖が描かれていたし、「プライベート・ライアン」にもそれを引用したような描写があった。「山猫は眠らない」というスナイパーそのものを描いた傑作もある。こういう前例がある場合、描写にオリジナリティーがないと苦しいことになる。

 ジャン・ジャック=アノーはあまりこういうジャンルに関心がないのではないかと思う。その代わり、ジュード・ロウと恋に落ちるレイチェル・ワイズの描写はよく、2人が秘かに愛を交わすシーンには切なさがあふれる。

 全体的に悲惨な場面はあるものの、切実さや悲壮感は意外に希薄である。これはスターリングラード攻防戦の位置づけがフランス人のアノーにはそれほど切実なものではないからだろう。ロシアの監督が担当していれば、もっと違った視点になったにちがいない。自分の国で起こったことか、他の国の出来事かで描写の重みも変わってくるのだと思う。