2005/05/30(月)「ミリオンダラー・ベイビー」

 「ミリオンダラー・ベイビー」パンフレットアカデミー主要4部門受賞。それが当然の傑作だと思う。F・X・トゥールの短編をテレビの脚本が多いポール・ハギスが脚本化し、クリント・イーストウッドが監督した。予告編はボクシング映画にしか見えなかったが、イーストウッドは、この優れた脚本がボクシング映画ではなかったから監督を引き受けたのだという。原作を読んでいたので終盤の展開に驚きはしなかったけれど、逆に原作の終盤をそのまま映画にするのは(興行的側面を考えると)難しいと考えていた。だから、この映画がうまく成功していることに感心せざるを得なかった。それは主要登場人物の背景をしっかりと描き込んだからにほかならない。キャラクターの詳細な描写が圧倒的な大衆性につながっている。イーストウッドがプロだと思うのは大衆の視点で映画を作り、自己満足のためだけの映画を作る考えなど微塵もないことだ。主演のヒラリー・スワンク、イーストウッド、モーガン・フリーマンの深みのある演技が加わって、この厳しい映画を見事なものにしている。

 主人公のマギー(ヒラリー・スワンク)は家族のためにウェートレスとして働き、貧しさからはい上がるためにボクシングを始める。31歳。老トレーナーのフランキー(クリント・イーストウッド)はTough ain't Enough(タフなだけでは十分じゃない)と言って依頼を断るが、マギーは秘かにジムのスクラップ(モーガン・フリーマン)の指導を受ける、マギーの熱心な練習を見たフランキーもトレーニングを指導するようになる。試合に出たマギーは圧倒的な強さを見せて連戦連勝。やがてタイトル戦に挑戦する。

 これがそのままうまくいけば、よくあるアメリカン・ドリームを描いた映画になるが、終盤の展開でこの物語はアメリカン・ドリームとは違う人と人との深い絆を描くことこそが狙いだったことが分かる。

 マギーが食堂で客が食べ残した肉を持ち帰るシーンや切りつめて貯めた小銭でスピードバッグを買うシーン、ジムで毎晩遅くまで残って練習するシーンなどで映画は貧しいマギーの切実さと一途さを描き出し、観客のハートをしっかりと掴んでしまう。家族との関係は原作以上に悲痛である。マギーがファイトマネーで母親のために家を買うエピソードは原作にもあるが、映画はマギーをまったく理解しない母親を原作以上に詳しく描く。出した手紙がそのまま返ってきても娘への手紙を書き続けるフランキーとマギーはだから父娘のような関係になる。親に理解されない子供と子供に理解されない親が疑似家族的な絆を深めていく描写に無理がない。

 映画は原作の行間を補完するように描写を積み重ねているが、逆に原作にあって映画にないのはマギーが父親の思い出を語るシーン。マギーの父親は長距離トラックの運転手で、家族のために懸命に働き、自分のためには仕事着と噛み煙草にしか金を使わなかった。12歳の時に父親は癌で死に、マギーの中でも何かが死ぬ。そしてマギーは16歳から働き始めるのだ。このエピソードはあった方が父親を亡くしたマギーがフランキーとの絆を深めていく過程に説得力を持たせただろうが、その代わりに映画は原作には登場しないモーガン・フリーマンを登場させることで、フランキーの過去と人間性を浮き彫りにしている。取捨選択に間違いはないと思う。

 2002年に72歳で亡くなった原作者のトゥールは「自分は、すべての女性との関係に失敗し、父親としても失敗し、闘牛士としてもマトダールにはなれなかったし、確かに物は書きはしたが、小説家とは言いがたい」と言ったそうだ。小説にある敗者に向ける視線の厳しさと切実さは映画にそのまま受け継がれている。「ミリオンダラー・ベイビー」とは1試合で100万ドル稼ぐ女性ボクサーという意味だが、同時にマギーやフランキーのような存在こそが100万ドルの価値を持つ人間であると言っているように思える。

2005/05/23(月)「ザ・インタープリター」

 「ザ・インタープリター」パンフレット国連の通訳が要人の暗殺計画を聞いたことから命を狙われるサスペンス。同名の原作があるが、設定だけを借りてまったく違う話にしてあるそうだ。オリジナルな話としては良くできているけれど、映画としては人間関係が入り乱れて分かりにくくなったきらいがある。シドニー・ポラック監督は場面場面を的確に演出していながら、人間関係の整理がうまく表現できていないのだ。にもかかわらず映画が魅力的なのは、ひとえにニコール・キッドマンとショーン・ペンのお陰である。脚本でもこの2人のキャラクターは心に傷を持った設定にしてあって奥行きが深いが、2人の演技はそれに輪をかけてキャラクターをくっきりと浮かび上がらせている。さすがに2人ともアカデミー主演賞を取った俳優だけのことはある。血肉の通ったキャラクターであり、多少の語り口のまずさを超えさせる力がある。特にキッドマン。知的で美しく毅然としていながら、弱さも見せる女を演じて文句の付けようがない。ハリウッドを代表する女優だなと改めて思った。

 ショッキングな場面で映画は幕を開ける。アフリカのマトボ共和国にあるサッカー場に来た2人の男が少年3人にいきなり射殺される。同行していたカメラマンは車に残っていて難を逃れた。場面変わってニューヨークの国連本部。同時通訳のシルヴィア・ブルーム(ニコール・キッドマン)は忘れ物を取りに通訳ブースに戻り、暗がりの中で男たちの会話を偶然耳にする。そこで照明がついてシルヴィアは顔を見られる。男たちは「先生は生きてここを出られない」と話していた。先生とはマトボ共和国のズワーニ大統領のことで、シルヴィアは翌日、国連本部に報告する。マトボ共和国でズワーニ大統領は住民を虐殺しており、その弁明のために近く国連で演説することになっていた。シルヴィアはその日から周囲に不審な動きがあることを察知する。ズワーニはかつて民衆の指導者だったが、大統領になってから独裁政治を行うようになった。それに反対する勢力が2つあった。ゾーラとクマン・クマンの2人がそれぞれ率いる勢力。暗殺計画はこのどちらかが計画しているらしい。大統領暗殺計画を阻止するためシークレット・サービスのトビン・ケラー(ショーン・ペン)とウッズ(キャサリン・キーナー)が捜査に乗り出す。

 というのが大まかな設定である。単なる通訳と思われたシルヴィアは実はマトボ共和国の出身であり、両親と妹を政府軍が仕掛けた地雷によって亡くした過去を持つことが分かってくる。シルヴィアは一度は銃を取り、ゾーラの反政府勢力に入ったが、ある出来事をきっかけに祖国を離れた。国連の通訳になったのは銃よりも言葉による外交を信じたからだ。ケラーは交通事故で妻を亡くして仕事に復帰したばかり。向かいのビルからシルヴィアを監視しているうちに2人にほのかな心の交流が生まれるのはこうした映画の常套的な手法だろう。眠れないシルヴィアが携帯電話で向かいのビルにいるケラーと話すシーンなどはロマンティックだ。

 シドニー・ポラックはそうしたロマンティックなシーンには冴えを見せるが、過去の作品を見てもサスペンスはあまり得意ではないらしい。ロバート・レッドフォード主演の「コンドル」を見たときも話の本筋が分かりにくかった記憶がある。それにもかかわらずレッドフォードとフェイ・ダナウェイによって映画はある程度面白く見られた。それと同じことがこの映画にも当てはまっている。ストーリーテリングがうまい監督ではなく、俳優の演技を引き出すタイプなのだろう。

2005/05/22(日)「Ray/レイ」

 「Ray/レイ」パンフレットジェイミー・フォックスが終盤、空想の中で目を開けるシーンで、レイ・チャールズとはあまり似ていないことがはっきり分かる。目を瞑って動作を真似るだけでこんなに似てくるものかと思う。フォックスはアカデミー主演男優賞を受賞したが、それに恥じない熱演だと思う。映画化に15年かけたというテイラー・ハックフォード監督はレイ・チャールズの生涯を女好きやヘロイン中毒というネガティブな部分を含めて描き出す。これは賢明な判断で、そういう部分がないと映画は嘘っぽくなるのである。弟を目の前で死なせたことがトラウマ(心的外傷)になったエピソードなどもレイ・チャールズという人間を描くのに欠かせないことだし、失明したレイを厳しく育てる母親(シャロン・ウォレン)の存在もそうだろう。人間的なレイを浮かび上がらせることにハックフォード演出は成功し、力作となっている。

 とは思うものの、音楽的な才能の秘密がどこにあったかについてはないがしろにされている感が強い。子供のころ失明したレイが周囲の物音に目覚めるシーンは“耳で見る”能力を表現して秀逸だが、音楽に関してはそういう部分がない。有名な曲がたくさん流れるにも関わらず、音楽映画的部分が物足りないのは人間レイを追求した結果、音楽家レイの追求が手薄になったからではあるまいか。

 実際、映画を見終わって印象に残るのは盲目、ヘロイン、女好きという3つのことなのである。一度はレイを追放したジョージア州議会が謝罪し、州歌を「わが心のジョージア」に決めるというレイの復権を描いて映画は終わるが、黒人差別、公民権運動に対するレイのスタンスは詳しく描かれない。中盤、ジョージアでのコンサートに訪れたレイがファンからコンサートの中止を求められるシーンがある。ジョージア州はアフリカ系アメリカ人を隔離席に押し込めるという施策を取っていた。コンサート会場の前でその施策に抗議していたファンの1人がレイに駆け寄り、コンサート中止を依頼する。「自分はただの音楽家だ」と最初は断っていたレイは話しているうちになぜか心変わりして公演を辞める。それが元でジョージア州はレイを追放するのだが、この心変わりの部分をもっと知りたくなるのだ。復権のシーンを効果的に見せるにはそれが必要だと思う。スパイク・リーなどのアフリカ系アメリカ人が監督すれば、そういう社会派的な部分をもっと描いたに違いない。

 人の生涯を描く上で何を取り何を捨てるかは難しい。ハックフォードはヘロイン、女好き、盲目を取った。僕は他の部分にもっと興味がある。要するにそういうことで、この映画で満足する人も多いだろう。

 ただし、ハックフォードの技術は決してうまくはないと思う。2時間32分が長く感じるのは語り口にくどい部分があるからだ。これはうまいという表現の仕方もなかった。ハックフォード、とりあえずまとめ方に難はないけれど、見せ方には相変わらず凡庸な部分を引きずっている。

2005/05/18(水)「交渉人 真下正義」

 「交渉人 真下正義」パンフレットきのうセントラルシネマで見たのがこの作品。キネマ旬報5月下旬号の特集で十川誠志(そご・まさし)の脚本の評価が高かったので期待した。確かに脚本は地下鉄パニック映画としてよく考えられているけれど、さまざまな傷があると思う。何の根拠もなく勘だけで配線を切っていく爆弾処理なんてありえない。あの傑作「ジャガーノート」(リチャード・ハリスのカッコよさ!)を引き合いに出しているのだから、なおさらその思いは強くなる。単なる引用では情けない。引用した上で元の作品を上回るアイデアを詰め込むのが本当ではないか。「オデッサ・ファイル」や「深夜プラス1」など言及される他の作品についても同じことが言える。十川誠志は僕と年齢が近いのでそうした70年代の作品に影響を受けているのはよく分かる。それでも過去の名作傑作を部分的にでも超える意気込みがなければ、パロディ同様お遊びの域を出ないのは明白だろう。本広克行演出のメリハリのなさ、緊迫感のなさもマイナスに働いている。いつものように「踊る大捜査線」の音楽が流れ、「踊る」の世界を継承しつつ、新しい作品に仕上げようとした意図に間違いはないと思うが、これでは観客を満足させることはできないだろう。國村隼、寺島進ら脇役の好演は光るけれど、芯の通った作品にはなっていない。

 レインボーブリッジ事件から1年後。東京トランスポーテーション・レールウェイ(TTR)の独立型運行管理システムがダウンする事件が起きる。システムに侵入した犯人は弾丸ライナーと名乗り、警視庁初の交渉人・真下正義(ユースケ・サンタマリア)を指名して「出ておいで」と呼びかける。クリスマスイブの日、実験車両のフリーゲージトレイン・クモE4-600が盗まれ、地下鉄の路線を暴走する事件が起きる。警視庁交渉課準備室にいた真下は現場に呼び出され、TTRの指令室で弾丸ライナーと電話で相対することになる。公園で起きた爆発に続いて、TTRの車両基地でも爆発が起きる。真下はクモの暴走から地下鉄を救うために総力を挙げるTTRの総合指令長・片岡(國村隼)と協力し、弾丸ライナーと交渉を繰り返す。捜査一課の熱血刑事・木島(寺島進)は地上で弾丸ライナーの正体を精力的に探り始める。そして弾丸ライナーの本当の狙いが明らかになる。

 こうした魅力的な設定なのに、映画は今ひとつ盛り上がりに欠ける。出だしのシステムダウンの場面では視覚的に大きな仕掛けがほしいところだし、中盤の犯人との駆け引きにももっと工夫がほしいところ。静の指令室に対して動の部分を受け持つのが木島だが、登場場面の強烈な印象がその後薄くなっていくのは残念。ボルテージ上がりっぱなしの演技というのは得てしてそういうものなのだろう。ユースケ・サンタマリアを僕は嫌いではないが、こうしたパニック映画のヒーローとしてはあまりふさわしくないかもしれない。それこそ「ジャガーノート」のリチャード・ハリスのような奥行きのあるキャラクターが望まれるのである。

 総じて、この映画に登場するキャラクターは型にはまったものになっている。キャラクターの背景が描き込まれないので、ドラマと呼べるものは希薄である。それが、話はよく考えてあるのに印象が薄くなった原因と思う。ゲーム感覚の犯行を描いてゲーム感覚の映画にしかならなかったわけだ。

 犯人の設定や犯行の手口、カラスの使い方などを見ると、「機動警察パトレイバー The Movie」の影響があるのかなと思う。「踊る2」の映画評を読み返してみたら、「パトレイバー2」との類似性を僕は指摘している。ということは、これは本広克行の趣味なのかもしれない。

2005/05/11(水)「阿修羅城の瞳」

 「阿修羅城の瞳」パンフレット市川染五郎と宮沢りえのセリフ回しが心地よい。2人とも江戸っ子なので、べらんめえ調の軽いセリフがよく似合う。染五郎のセリフの決め方などはさすがだと思うし、今や勉強熱心なことにかけては定評がある宮沢りえのさわやかなお色気もいい。こういう軽い感じで全体を映画化してくれれば良かったのにと思う。阿修羅王の復活を図る樋口可南子や鬼御門(おにみかど)の渡部篤郎らの演技が重く暗く、もっと面白くなりそうなのに何だか陰々滅々とした感じに終わっているのである。映画全体としてはスケールが足りないのが致命的だと思う。同じようなセットで話が進行し、広がりが感じられない。突き抜けたものがない。息苦しい。深作欣二「魔界転生」の昔からセットで繰り広げられる魔界を描いた邦画は陰々滅々になる傾向があるようだ。

 「陰陽師」の滝田洋二郎監督による舞台劇の映画化。物語も鬼が出てくるところなど「陰陽師2」に似ているので、ピッタリの人選と思うが(鬼御門の頭領は舞台では十三代目安倍晴明なのだそうだ)、スケール感では「陰陽師」の方にやや分がある。

 文化文政時代の江戸。人々の中に秘かに人を食らう鬼が紛れ込んでいた。幕府は鬼殺しのために鬼御門という組織を結成。その頭領である国成延行(内藤剛志)と腹心の安部邪空(渡部篤郎)はある夜、尼僧姿の鬼女・美惨(びざん=樋口可南子)と出会う。美惨は鬼の王である阿修羅が間もなく復活すると告げる。5年前まで鬼御門に属していた病葉出門(わくらば・いずも=市川染五郎)は、鬼と思われる少女を斬ったことで鬼御門を辞め、歌舞伎役者として気ままに暮らしている。出門はつばきと名乗る女(宮沢りえ)と出会い、たちまち恋に落ちる。つばきは5年以上前の記憶をなくしていた。出門に惹かれたつばきは右肩に紅の花のような痣ができたのを見つける。出門に惹かれるたびにその痣は大きくなっていった。やがて美惨が求める阿修羅の復活につばきが必要と分かってくる。

 滝田洋二郎は3時間の舞台を出門とつばきのラブストーリーに集約しようとしたのだという。確かに2人のラブシーン(つばきが出門の傷を舐めるシーン)などは官能的なのだが、ラブストーリーとして優れているかというと、そういうわけでもない。恋をすることで鬼に変わる女の悲劇性も出す必要があっただろう。物語の先が読めて、あまり深みを感じない描写に終わっている。VFXは阿修羅城の出現や燃え上がる江戸の町の描写など、もっとスケール大きく見せて欲しかったところ。なんとなく中途半端に終始し、驚くようなショットもなく、物語のポイントとなる描写もなかった。

 主演の2人は決して悪くないのだから、やはり演出の仕方に難があったのだろう。滝田洋二郎監督には、次はまったく違う素材で映画を撮ってほしいと思う。こういう魔界物はあまり得意とは思えないし、もういいのではないか。