2006/01/12(木)「輪廻」

 「輪廻」パンフレット「呪怨」の清水崇監督の新作で、35年前に大量殺人があったホテルを題材にした映画のスタッフとキャストが怪異に襲われるホラー。中心となるアイデアは過去にも例があり、ちょっと考えただけで、設定は異なるけれどもポール・バーホーベンのあの作品とかアラン・パーカーのあの作品が思い浮かぶ。リーインカーネーションを描いた映画としてはこうするか、それこそ「リーインカーネーション」(1976年、J・リー・トンプソン監督)のようにするかしかないのだろう。また、大量殺人のあったホテルと言えば、スティーブン・キング「シャイニング」=映画化はスタンリー・キューブリック=を思い出さずにはいられず、「輪廻」は幽霊屋敷もののバリエーションとも言える(幽霊屋敷の最高傑作は「シャイニング」ではなくリチャード・マシスン「地獄の家」=映画化はジョン・ハフ「ヘル・ハウス」=だと思う)。考えてみれば、「呪怨」自体、幽霊屋敷もののバリエーションであったわけだが、あれは場に取り憑いた怨念が無関係の人まで巻き込んでいく怖さがあった。「輪廻」の場合、幽霊屋敷と生まれ変わりをミックスさせた結果、関係者のみが犠牲になることになり、それで怖さが半減している(もっとも、誰が関係者であるのかは本人にさえ分からない)。出来事に合理的な説明があるので怖くなくなったし、スケールが小さくなったのは残念だが、映画のまとまりは、脚本がしっかりしているので「呪怨」よりも上だろう。こういうジャンルで新しいアイデアを取り入れるのは容易ではないが、あと一ひねりしたいところだ。

 映画監督の松村(椎名桔平)は35年前、群馬県のホテルで起きた大量無差別殺人を描いた映画「記憶」の製作を進めていた。大学教授が家族を含む11人を殺して自殺した事件。映画のオーディションに行った女優の杉浦渚(優香)はその直後から不気味な少女の幻影を見るようになる。オーディションに合格した渚はスタッフ、キャストともに事件のあったホテルへ行く。そこでも渚は不気味な幻影を見る。やがてその少女は事件の犠牲者で教授の娘だったことが分かる。渚はその少女の役を映画で演じることになっていたのだ。女子大生の木下弥生(香里奈)は小さいころから赤い屋根のホテルの夢を見続けていた。弥生は恋人の尾西(小栗旬)から自分の前世を知っているという新人女優・森田由香(松本まりか)を紹介される。由香には首に絞められたような痣があり、図書館で何者かに連れ去られてしまう。弥生は35年前の事件を調べ、やがてホテルにたどり着く。

 クライマックスは犯行が記録された8ミリの映像と映画の撮影現場で渚を襲う怪異とホテルで恐怖にさらされる弥生の3つのシーンが交互に描かれる。荒れ果てたホテルが一瞬にして新しくなるところなどはそのまま「シャイニング」だが、このクライマックスの構成や映画のセットが実際のホテルにオーバーラップしていく場面は映画のオリジナルなところだと思う。冒頭、2人の男が何者かに襲われて死ぬ。実は訳の分からないここが一番怖い雰囲気がある。クライマックスが怖くなく、ある意味笑えるシーンさえあるのは訳が分かってしまったからで、だから観客の予想をもう一度裏切るようなショッキングなひねりが欲しくなるのだ。「ヘル・ハウス」が面白かったのは最後の最後まで謎を引きずった部分があり、それを解くことが幽霊の撃退につながっていたためだ。マシスンのアイデアの勝利といったところか。映画のオリジナルでああいう手の込んだストーリーを考えるのは難しいのかもしれない。

 主人公の優香は恐怖に引きつる演技がなかなかうまかった。香里奈も好演しているが、一番のうまみは一シーンだけ出てくる黒沢清か。知的な感じが役柄に合っていた。この映画、一瀬隆重プロデュースによるJホラーシアターの第2弾(第1弾は2004年公開の「感染」「予言」2本立て)。僕が見た劇場では観客4人だった。いくら世界配給が決まっているとはいっても、ヒットしてくれないと、後が続かないのではないか。この映画自体、世界を意識して真っ当なホラーに(暗闇でいきなりワッと脅かすようなあざとい演出を控えめにして)仕上げたのかもしれない。

2006/01/11(水)「輝く断片」

 「輝く断片」表紙休みだが、風邪で体がだるいので、映画には行かず、昨日届いた「輝く断片」(シオドア・スタージョン)を読む。8編が収録されており、最初の2編は昨日、寝る前に読んだ。最初の「取り替え子」は遺産相続に赤ん坊が必要だった若い夫婦が川で赤ん坊を拾う話。その赤ん坊は取り替え子(赤ん坊と入れ替わった妖精)で大人のような口をきく。この描写を読んで、「ロジャー・ラビット」に出てきた赤ん坊ベイビー・ハーマンを思い出した。ああいう乱暴な口をきくのである。気楽に読めたのはこれと次の「ミドリザルとの情事」までで、あとは(特に後半の4編は)切なく重い話である。

 最後に収録された表題作は世間から用なしと思われている50代の男が通りで瀕死の重傷を負った女を見つけ、アパートに連れ帰って懸命に看病をする話。傷口の描写が細かいので、もしかしてこれはネクロフィリア(死体愛好症)の男の話かと思えてくるが、やがて女は意識が戻る。男にとっては女の世話をすることが生き甲斐になる。生来の醜い容貌で親からも見捨てられ、軍にも入れてもらえず、同僚からもバカにされる男にとってこの女は人生の輝く断片(Bright Segment)なのだ。自分が必要とされている存在であることを自覚できるからだ。「シン・シティ」のマーヴ(ミッキー・ローク)を思わせる主人公はマーヴ以上にあまりにも空虚な人生を送っており、その絶望的な孤独感が悲しい。

 社会に不適格な主人公という設定は「ルウェリンの犯罪」「マエストロを殺せ」「ニュースの時間です」にも共通する。「マエストロを殺せ」の主人公も醜い容貌という設定である。こうした主人公の設定には不遇の時代が長かったというスタージョンの人生が反映されているのかもしれない。帯に「シオドア・スタージョン ミステリ名作選」とあり、「このミス」の4位にも入ったが、この短編集をミステリとして読む人は少ないのではないか。

 大森望の解説を読むと、「輝く断片」はミステリマガジンの1989年8月号(400号記念特大号)にリバイバル掲載されたとある。僕はこの号を買っているはず。普段は雑誌掲載の短編を読まないとはいっても、記念特大号には名作・傑作が収録されているのでいくつかは読む。それでも読んでいないということは当時は食指が動かなかったのか。ちなみにミステリマガジンは2月号がちょうど600号。記念特大号の特集は3月号で2005年ミステリ総決算と合わせてやるらしい。

2006/01/10(火) キネマ旬報ベストテン

 発表された。日本映画1位は「パッチギ!」、外国映画は「ミリオンダラー・ベイビー」。どちらも順当な結果か。「男たちの大和 YAMATO」が8位に入っているのはどういうわけだ。
【日本映画】
(1)パッチギ!
(2)ALWAYS 三丁目の夕日
(3)いつか読書する日
(4)メゾン・ド・ヒミコ
(5)運命じゃない人
(6)リンダ リンダ リンダ
(7)カナリア
(8)男たちの大和 YAMATO
(9)空中庭園
(10)ゲルマニウムの夜
 
【外国映画】
(1)ミリオンダラー・ベイビー
(2)エレニの旅
(3)亀も空を飛ぶ
(4)ある子供
(5)海を飛ぶ夢
(6)大統領の理髪師
(7)ウィスキー
(8)スター・ウォーズ エピソード3 シスの復讐
(9)キング・コング
(10)ヒトラー 最期の12日間

2006/01/05(木)「ゴジラとアメリカの半世紀」

 「ゴジラとアメリカの半世紀」表紙「ミステリマガジン」1月号のレビューで紹介されていたので読んだ。レビューではGodzillaの接尾語zillaがアメリカではあらゆるものに付けられるほどポピュラーになったゴジラの影響力を中心に紹介してあり、確かにこの本の4章「『ゴジラ』は如何にして、アメリカで『ガッズィラ』になったか」と5章「ゴジラファンであるということ」にはそうした側面の分析・紹介があるのだけれども、この本、それ以前に立派なゴジラ映画論になっている。

 1章から3章まで(「いとしのゴジラ」「ゴジラの誕生」「シリーズの歩み」)は間然するところのないゴジラ映画の的確な論評である。著者のウィリアム・M・ツツイはカンザス大学歴史学部の準教授で専攻は現代日本史。名前からして日系人だろう。アメリカではゴジラ映画を配給会社で編集・削除した上で公開することが多い(第1作にレイモンド・バーが“出演”したのは有名だ)が、著者はすべて元の映画を見ているようだ。第1作でゴジラを演じたのが大部屋俳優でスタントマンだった中島春雄であるとか、製作の背景であるとか、日本人以上に詳しくマニアックである。

 ローランド・エメリッヒが監督したハリウッド版ゴジラについて「度が過ぎる失敗作で、世界中のゴジラファンの期待をことごとく裏切る結果となった。もっと率直に言わせてもらうと、怪獣王の伝統、キャラクター、精神を冒涜してしまったのだ」と酷評している。これを見ると、著者が真性のゴジラファンであることが分かる。ちなみに著者が評価しているのは第1作と金子修介監督の「ゴジラ モスラ キングギドラ 大怪獣総攻撃」それにシリーズの他の作品とは異質で“一種独特の雰囲気を持っている”「ゴジラ対ヘドラ」である(この異質さのために監督の坂野義光はプロデューサーの田中友幸からおしかりを受け、その後長編映画を撮っていないという<%=fn '日本映画データベースによると、この後は「ノストラダムスの大予言」に協力監督とのクレジットがあるのみ。' %>)。公害をテーマにしたヘドラは僕も公開当時に見てショックを受けた。内容やテーマ性よりも面白かったのは劇中に流れる歌をはじめとしたポップで現代的な作りだった。ゴジラシリーズの中では上位に来る作品と思っているので、著者の評価はとてもうれしい。

 ここにはチャチな特撮への冷笑も物語の非現実性への異議申し立てもない。著者は長所も短所も見極めた上で心の底からゴジラ映画とその巨大な影響力(ゴジラに影響を与えた「キング・コング」や「原子怪獣現わる」をはるかに超えた巨大な影響力)を評価しているのだ。だから読んでいて気持ちがいい。本書に書かれているアメリカのゴジラファンの活動を読むと、日本より熱狂的である。アメリカのファンが好んでいるのは平成シリーズでも新生シリーズでもなく、60年代から70年代にかけてゴジラが正義の味方として活躍した映画群なのだという。これは意外だった。そのころのゴジラ映画が繰り返しテレビで放映され、平均すると、週に一度はテレビで流されていたことが大きいようだ。

 中公叢書に入っているので、こうした堅いタイトルになったのだろうが、原題は“Godzilla on My Mind”(わが心のゴジラ)。これはゴジラへの熱烈なラブレターなのである。中身も読みやすくユーモラスかつ詳しく、本来ならば、普通のハードカバーで表紙にゴジラのイラストや写真を入れて柔らかく作った方がいい本だったと思う。ゴジラシリーズのファンは必読の名著。

2006/01/04(水)「北の零年」

 「北の零年」チラシ酷評が多かったが、テレビで見ると長すぎる(2時間48分)のを除けば普通の作品に見える。ただ、誰もが言うように吉永小百合がこの役をやるのは年齢的に無理。どう見積もっても20年前までしか成立しない配役で映画を作ろうとした企画自体に失敗の一因があったと思う。しかし、それ以上に感じたのは脚本・演出における描写の弱さだ。北の大地で苦闘する人々の描写にリアリティが不足しており、これが致命傷になった感がある。それこそテレビドラマ並みの描写しかないのである。

 明治4年、徳島の淡路島の藩が明治維新の混乱で北海道に移住を命じられる。第一陣の546人は新しい国づくりを目標に懸命に開拓に励むが、廃藩置県によって、藩はなくなり、彼らは藩からも国からも見捨てられる。木を伐採し、荒れ地を開墾していく武士とその家族の様子が前半ではメインになる。ストーリーは悪くないのに響いてこないのは北海道の寒さが通り一遍にしか描かれない上に、稲が育ちにくい地での農業の在り方もそこから生じる貧しさの描写もありきたりであるためだ。農業の苦闘を描くのならば、「愛と宿命の泉」(1986年)ぐらいの描写が欲しいところ。それができなかったのは脚本の那須真知子も監督の行定勲も農業の実際を知らないからだろう。だいたい開拓の話を那須真知子に書かせる方が間違っている。

 行定勲の狙いは武士が開拓をするというミスマッチを描くことにあったのかもしれない。薬売りの香川照之がのし上がり、武士たちを苦しめる描写などは面白いし、いやらしさにリアリティを持たせた香川照之の演技のうまさはこの映画の数少ない見どころとなっている。ただ、これもよくある悪徳商人対武士の図式にすぎない。

 妻(石田ゆり子)を香川照之に取られて落ちぶれる柳葉敏郎や、やはり香川照之の下で働かざるを得なかった石橋蓮司の苦渋、何よりも妻子を見捨てた渡辺謙の心変わりを詳細に描けば、何とかなったのかもしれない。那須真知子としては後半、吉永小百合が馬を育てて成功するあたりをメインにしたかったのだろうが、これも詳細な描写がないので説得力を欠いている。吉永小百合の娘役で「SAYURI」の大後寿々花が出ていることは記憶に値するか。