2007/12/03(月)「自虐の詩」
中谷美紀でもってる映画だと思う。そばかすとほくろをつけただけで、ほぼノーメイク。それでもきれいで、僕は初めて中谷美紀を美人だと思った。この人、化粧しない方がいいのではないか。原作の幸江より美人すぎるという意見は分かるけれど、そのあたりは演技力で十分カバーしている。
映画の出来は悪くないと思う。ラストでは泣いてる人が多かった。前半にあるコミカルな卓袱台返しを少なくして、もっと少女時代の熊本さんとのドラマを多くすれば、さらに良くなっていただろうが、そこは堤幸彦だから、コメディの部分を外したくなかったのだろう。脚本は良く原作をまとめていると思うけれど、イサオ(阿部寛)が独身時代には幸江に尽くしていたのに、今はなぜ立場が逆になっているのか分からないとか、突っ込みどころはたくさんある。ぎくしゃくした感じは拭いきれず、そこが減点対象か。
脚本は関えり香(美人)と里中静流。里中静流は「恋愛寫眞」で広末涼子が演じた主人公の名前で、堤幸彦が今回のペンネームに使ったのだという。関えり香は映画の脚本は今回が初めてだそうだ。
出演者は寡黙な阿部寛もいいが、あさひ屋のマスターを演じる遠藤憲一が原作とはイメージが違うにもかかわらず、好演している。
2007/12/01(土)「椿三十郎」
同じ脚本で映画化しているのだから、ストーリーは分かっており、興味はどんな演出をしているか。冒頭、お堂に近づく大目付の配下をとらえたショットを見て、おお森田、やるじゃないかと思った。大島ミチルの時代劇を意識した音楽が良く、若侍たちのユーモアもいい。全体的によくまとまっており、映画の出来は悪くない。ただ、当然のことながら、黒澤版を超えることはできず、これだとリメイクの意味が薄いように思う。オリジナルを見ていない若い観客向けということか。
黒澤のダイナミズムは森田にはない。数ある黒澤映画の中で、「用心棒」の後の息抜きのようなユーモアのある「椿三十郎」なら自分でも撮れると思ったのは正しい判断と思う。「用心棒」は森田には無理だろう。それでもダイナミズムが必要な部分はあり、ラストの決闘シーンの一工夫は認めるけれども、黒澤版の血しぶきには及ばない。
鹿児島のOさんは織田裕二について「健闘している」と「シネマ」の原稿に書いてきた。健闘は確かにしているのだが、三船敏郎のような雰囲気が決定的に欠けており、三船を意識した演技を僕は少し窮屈に感じた。要するに軟弱な部分が透けて見えるのだ。いくらセリフ回しを似せようとも、俳優の資質はどこか画面に出てしまうものだ。森田芳光の演出も黒澤を意識した部分がいくつか目に付いた。
黒澤版の上映時間が1時間36分なのに対して、今回は1時間59分。23分長い。エンドクレジットの分を考慮しても20分近くは長いと考えて良さそうだ。これは俳優のセリフ回しも少し影響しているのかなと思う。「70年代ぐらいまでの日本映画はとにかく早口でしゃべることが多く、密度が濃かった」というような意味のことを大林宣彦が以前書いていた。後は演出のリズムとか描写のコンパクトさとか、以前の映画に学ぶべき点は多い。
角川春樹は「用心棒」のリメイク権も買っており、いずれリメイクされるのだろう。しかし、あの大傑作を撮れる監督をすぐには思いつかない。犬が人の手首を加えて登場する冒頭の殺伐とした宿場町のシーンから、僕は「用心棒」にしびれた。当時の日活アクションなどを蹴散らしてアクション映画としての格の違いを見せつけた映画なのだ。
2007/11/18(日)「ALWAYS 続・三丁目の夕日」
いきなりゴジラが出てきたのに驚く。このゴジラ、凶悪な顔つきでいい。山崎貴の本領発揮といった場面で、この路線の映画を撮ってほしいと切に願う。本編の方は長すぎる(2時間26分)のが欠点で、30分ほど短くすれば傑作になっていただろう。エピソードが多すぎるというか、描写をもっとコンパクトにすべきところ。クライマックスでは場内のあちこちからすすり泣きが聞こえてくる。この大衆性のあるドラマはいいと思う。
前作では未完成だった東京タワーが既に完成している。当時の羽田空港を再現した場面をはじめVFXがさりげない感じなのは前作同様。まあ、だから冒頭にゴジラを出したかったのかもしれない。県庁のGさんが来ていて、冒頭の場面を見られただけで良かったと言っていた。
高度成長前の昭和34年だから成立するドラマ。貧しいけれども、金がすべてじゃないぞという主張が成立するのである。寅さんとかサザエさんの世界。これはテレビドラマで半年ぐらいやるべき素材なのではないかと思う。夢と理想が現実のものになっている世界だと思う。熱血的な堤真一がおかしくて出色。
2007/11/17(土)「ボーン・アルティメイタム」
シリーズ第3作。前作でも感じたことだが、このシリーズに不足しているのはエモーショナルな側面だと思う。今回も主人公のボーン(マット・デイモン)はまったく感情を表さず、襲い来るCIAの暗殺者たちをてきぱきと撃退する。ただそれだけの映画である。ボーンの原動力となっているのは自分のアイデンティティーの探求と恋人(フランカ・ポテンテ)を殺された恨み。というのは設定だけにとどまっており、ボーンは泣くこともわめくことも怒ることも喜ぶこともなく、だからエモーションが欠落しているように見えるのだ。ついでに言えば、ボーンにはCIAの不正を暴くための正義感もない。いや、あるのかもしれないが、画面には表れない。要するに作りが人工的、デジタル的なのである。アクションを羅列するだけで、主人公の感情が立ち上ってこないので、味気ない映画になってしまう。僕はまったくつまらなかったわけではないが、もう少し何とかならないのか、と見ていて思う部分が多かった。このスピード感にエモーショナルな部分が加われば、映画はもっと面白くなっていただろう。大変なテンポの速さで進む映画の中で、足を止めて描く場面には主人公の情感が必要だし、激しいアクションを正当化するのは主人公の激しい感情にほかならないのである。
映画はモスクワで幕を開ける。傷ついたボーンが追っ手の警官たちを簡単に撃退したところでタイトル。場面変わって、ロンドン。ガーディアン紙の記者サイモン(バディ・コンシダイン)はCIA職員の内部告発でトレッドストーン計画がバージョンアップしたブラックブライアー計画について知る。CIAはサイモンを追跡。新聞を読んだボーンもサイモンに接触する。ウォータールー駅でのCIAとボーンの格闘が最初の見せ場で、ここでサイモンはCIAの暗殺者に狙撃され、殺される。作戦を指揮しているのは対テロ極秘調査局長のヴォーゼン(デヴィッド・ストラザーン)だった。ヴォーゼンは前作でボーンを追ったパメラ(ジョアン・アレン)を捜査に引き入れ、ボーンの抹殺を企てる。舞台はスペイン、モロッコへと飛び、ニューヨークで最終決着を迎えることになる。
映像は短いカットを積み重ねてテンポが良いけれど、カットを割ってはいけない格闘シーンまで割っている。見せるべき格闘はちゃんと見せた方がいいのでは、という思いは1作目から感じたことだ。短いカットの積み重ねはポール・グリーングラス監督、眉にいっぱいつばをつけながら見た前作「ユナイテッド93」でも使っていた。こういう短いカットで思い出すのは「ストリート・オブ・ファイヤー」(1984年)だが、ウォルター・ヒルのようなスタイリッシュさはグリーングラスにはない。ジャッキー・チェンやジェット・リーがワンカットでアクションを見せるのは、アクションが本物であることを示すためでもあるだろう。カットを割れば、どんなことでもでき(るように見え)てしまうからだ。俳優の生身のアクションの伝統は1920年代のロイド、キートンまでさかのぼるのだ。スタントマンを使うなと言うわけではなく、ああいう見せ方では真に迫らないのだ。建物から建物へ飛び移りながら展開するモロッコのシーンにしてもカットを割らない方が効果的だっただろう。グリーングラス、スピード感がすべてと思いこんでいるのではないか。
それにしても、いったいあの研究所は何をやったのか判然としない。ボーンに暗殺者になることを強要するためだけだとしたら、研究所なんて不要だろう。原作はどうなっているのだろう。ヒッチコックはサスペンスの核となるものはレッド・ヘリング(赤にしん)でいい、と言った。これを曲解すれば、こういう映画が出来上がることになる。少なくともヒッチコック映画の主人公たちはもっと情感豊かだった。
2007/11/04(日)「バイオハザードIII」
前作で全滅したかと思えたアンデッドが世界中に広がり、世界は砂漠化も進んでいるという設定。生き残ったコンボイ軍団にアリス(ミラ・ジョヴォヴィッチ)が合流し、襲い来るアンデッドと戦い、アンブレラ社の野望を砕く。最初のころのコピーに「アリス、砂漠に死す」というのがあったが、全然そんな展開ではない。死ぬのはアリスのクローンで、これはアンブレラ社がアンデッドへのワクチンを作るために研究しているのだった。アリスのクローンが無数に培養されているシーンは「エイリアン4」のようだが、それ以前に「エヴァ」の影響もあるのかもしれない。
前作はアレクサンダー・ウィットのアクション演出がよく、ジル・バレンタイン(シエンナ・ギロリー)も鮮烈で良かったが、今回、監督がラッセル・マルケイに代わり、アクションシーンは可もなく不可もなくのレベル。ストーリーにも目新しさがないので、いいのはジョヴォヴィッチだけということになる。ジョヴォヴィッチはこのシリーズでアクションに目覚めたようで、動きは悪くない。ジル・バレンタインの代わりに登場させたと思える女性リーダー役のアリ・ラーターは「HEROES」の多重人格者。テレビでは色っぽくて良いが、スクリーンで見ると、やはりテレビ女優かという感じがつきまとう。それほど見せ場がないのもつらいところだ。
ラッセル・マルケイは「レイザーバック」(1984年)でその映像感覚におおっと思った。残念ながら良かったのは次の「ハイランダー 悪魔の戦士」(1986年)までだった。以後はB級映画の監督というイメージ。
アリスの力は前作よりもパワーアップしていて、ほとんど超能力者。これをもっとSF的に発展させていってほしかったところだ。その意味ではポール・W・S・アンダーソンの脚本にも難があるのだろう。もっと面白くなりうる題材なのにちょっと残念。(mixi)