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2011年09月25日の記事

2011/09/25(日)「一枚のハガキ」

 水桶をかつぐ大竹しのぶの格好は「裸の島」の乙羽信子と同じだ。苦境にあった近代映画協会を救い、新藤兼人監督の評価を世界的に高めた「裸の島」と同じモチーフを取り入れたのはこれが99歳の新藤兼人最後の作品であることも影響しているだろう。しかし、それ以上にこれは人間の営みを表すものである。セリフがなかった「裸の島」とは異なり、この作品は饒舌で、しかも叫ぶセリフが多いけれど、性も含めた人間の営みを重層的にとらえる視点はまったく揺るがない。そうしたところが映画に厚みが出てくる要因だろう。

 浮ついた薄っぺらなキャラが多い最近の邦画の中でこの映画が光っているのはそうした人間の描き方が優れているからにほかならない。見ていて重喜劇、人間喜劇という言葉が思い浮かんだ。豊川悦司と大杉漣が殴り合うシーンなどは血の通った人間であるからこそのおかしみが生まれている。

 パンフレットの裏表紙にある言葉がこの映画を端的に物語っている。「戦争がすべてを奪った。戦争が人生を狂わせた。それでも命がある限り、人は強く生きていく」。強く生きていくというか、生きていかねばならないのだ。どんな不幸があろうとも、それでも人生は続く。被害者意識や自己憐憫に浸ってばかりはいられないのだ。

 夫が戦死し、再婚した夫の弟も戦死し、義父母を相次いでなくしてひとりぼっちになった友子(大竹しのぶ)は古い家とともに「野垂れ死んで」いく覚悟だ。そこへ戦争中、夫が託したハガキを携えて松山啓太(豊川悦司)が訪れる。100人中94人が死ぬという状況の中で、松山は幸運にも生き残ったが、復員してみれば、妻は父親と駆け落ちしていた。毎日を無為に過ごしていくうちに、ブラジルへ移住しようと考えた松山は整理していた荷物の中から一枚のハガキを見つける。このどちらも失意の2人が出会うことで再生を果たしていく姿に説得力がある。

 どちらかが優れた人間であったわけではない。人が再生するのに、優れた指導者のような人間は必要ない。神も宗教も書物も不用だ。人と人が出会うことで、何らかの小さな変化が生まれるのだ。新藤兼人の体験を元に書かれたこの脚本はそういう視点があるからこそ素晴らしい。「裸の島」にあった麦踏みのシーンはこの映画でも繰り返される。踏まれた麦はたくましく育つ。いや、麦は踏まれなければ、強くならない。麦踏みのシーンが踏まれても立ち上がる人の比喩であることは明白だ。

 「あんたはなんで死なんかった! あんたはなんで生きとる!」。大竹しのぶが悲しみから怒り、後悔までを見せる中盤の長いワンカットには演劇のような緊張感が漂う。役者の演技と監督の思いが重なって、充実した映画になった。新藤兼人、引退はまだ早いのではないか。