2012/12/02(日)「桐島、部活やめるってよ」
金曜日、金曜日、金曜日、金曜日と繰り返される序盤で、映画は一つの事象を視点を変えて描いていく。その事象とはバレーボール部キャプテンの桐島が部活を辞めたという噂。桐島は県選抜にも選ばれるほどの実力を持ち、瞬く間に噂は校内を駆け巡る。この過程で描かれるのは多くの登場人物の視線だ。視線の行方によって登場人物の思いが分かり、その置かれた境遇も分かってくる。
これほど多くの視線で構成された映画も珍しいだろう。登場人物が見つめる先は例外なく異性であり、思いを素直に伝えられないから切なさが募る。なぜ思いが伝えられないのか。それは拒絶されることの恐れもあるだろうが、住む世界が違う(と認識している)からだ。同じ教室にいながら、世界は違う。映画は学校における上下関係を描きだし、そこで蠢く生徒たちの姿を浮き彫りにする。だからこの映画はリアルな青春映画になり得ている。映画にはモノローグもなく、説明的なセリフもない。視線と描写だけでこうした状況を明らかにしていく。吉田大八監督、久々の会心作となったのではないか。
Wikipediaによれば、学校の階層構造(スクールカースト)でオタク系は下の方に位置する。オタクの集まりである映画部の面々は他の生徒の嘲笑の対象で、下位にいる者の常として鬱屈をかかえている。ゾンビ映画を撮影しようとした校舎の屋上に吹奏楽部の部長がいた場面で、映画部の面々は「吹部だから大丈夫だ」と話し、移動してくれるように頼む。たぶん、相手が運動部だったら何も言わずに諦めて帰ったのだろう。スクールカーストの根幹をなすのは十代特有の価値観で、美男美女や恋愛経験の豊富な者、文化部よりも運動部が上位に来る。大人になれば、差別の根幹は経済力にほぼ集約されるので単純だ(単純だから良いわけではない)。
と、ここまで書いたところで、朝井リョウの原作を読んだ。そして驚いた。これほど原作を徹底的に解体しながら、原作のエッセンスをまったく失っていない映画は極めてまれだ。映画には原作のセリフと同じものはほとんどない。人間関係やエピソードも変更し、付け加えられたものが多い。
原作は菊池宏樹(元野球部)、小泉風助(バレー部)、沢島亜矢(吹奏楽部)、前田涼也(映画部)、宮部実果(ソフトボール部=映画ではバドミントン部)、そして再び菊池宏樹の物語が描かれて終わる(文庫ではこれに東原かすみの14歳のころのエピソードが加わる)。メインとなるのは前田と菊池のエピソード。両者は同じクラスにいながら、話したこともないが、終盤のある出来事で一瞬、交錯する。そして菊池は前田の姿からある啓示を受け、サボっていた野球部の練習に参加してみようかという気になる。原作者はここが物語の核だという。映画はここもうまくアレンジし、前田(神木隆之介)の「この世界で生きていかなければならないんだ」というセリフ(撮影中の「生徒会オブ・ザ・デッド」のセリフ)を取り入れている。見事な映画化と言うほかない。脚本(吉田大八、喜安浩平)が素晴らしすぎる。
付け加えておけば、朝井リョウはかなり映画を見ているようで、前田涼也のパートには「ジョゼと虎と魚たち」や「リリイ・シュシュのすべて」など邦画の青春映画のタイトルがたくさん出てくる。映画部が撮っているのも青春映画だ。映画ではこれが「鉄男」や「遊星からの物体X」などSFに変わっている。SFの方がオタクにふさわしいという判断があったのだろう。いずれにしても自分の原作から邦画の青春映画のトップクラスの作品が生まれたことは原作者冥利に尽きるに違いない。
2012/11/26(月)「魔法少女まどか☆マギカ 前・後編」
「ハッ、君は本当に神になるつもりかい?」
「神さまでもなんでもいい。今日まで魔女と戦ってきたみんなを、希望を信じた魔法少女を、私は泣かせたくない。最後まで笑顔でいてほしい。それを邪魔するルールなんて壊してみせる、変えてみせる。これが私の祈り、私の願い。さあ、叶えてよっ」。
悪魔はひそかに忍び寄る。決して悪魔の姿をしたままで近寄ってはこない。猫に似たキュゥべえという謎の生物は少女たちに契約を持ちかける。「君の願いを一つだけ叶えてあげる。その代わり、魔女と戦わなくてはいけないよ」と。魔女は人に絶望をもたらす存在で、人の死や不幸や災厄にはすべて魔女がかかわっている。前編の序盤を見ながら、「異界からの侵略者と戦う少女戦士たちの話」と思ってしまったのだが、その後はこちらの想像をはるかに上回る展開だった。
日本のアニメーションで「魔法使いサリー」あたりから始まり、綿々と作られてきた魔法少女という枠組みを逆手にとって、作者たちは緻密にそしてダイナミックに物語を構築している。キュゥべえのショッキングなセリフで締めくくられる前編は情報量が多く、上映時間も2時間10分と長いため見終わるとグッタリするが、話はとても面白く、引き込まれる。元がテレビアニメなので、各回のクライマックスを次々に見せられる感じがあるのだ。引き込まれて集中しすぎたたために起こる疲労感なのである。後編は物語のネタ晴らしと解決だ。絶望的で逃げ場のない状況に閉じ込められた少女たちを救う手立てはあるのか。作者たちはあらゆる可能性を否定してみせ、主人公のまどかは最後にこれしかないという解決策にたどり着く。
希望、願い、祈り。幸せを願う人の気持ちを否定するような世界は間違っている。希望を絶望に変えてはいけない。この作品のメッセージはそれに尽きる。魔女の結界の抽象的な描写など技術的に賞賛すべき点は多々あるが、何よりもシンプルで当たり前のメッセージを訴えるからこそ、この作品はとても力強く人の心を動かすのだ。
元のテレビアニメ全12話は2011年1月から東日本大震災による休止期間を経て4月まで放送された。深夜枠だったので、子ども向けではない。震災の時期に祈りというメッセージほど似合うものはないが、震災に合わせたわけではもちろんなく、元から備えていたものである。
究極のセカイ系アニメであり、過去の数々のジャパニメーションの傑作群の上に築かれた記念碑的な作品と言える。希望を信じる人、信じたい人は急いで劇場に駆けつけなければならない。
2012/10/23(火)「アウトレイジ ビヨンド」
「山守さん……まだ弾は残っとるがよう…」。
名作中の名作である「仁義なき戦い」シリーズと比較するのが無茶なのは分かっているが、同じヤクザ映画でも「アウトレイジ ビヨンド」、僕には大きく見劣りがした。KINENOTEを見てみたら、やっぱり「仁義なき戦い」と比較しているレビューがあった。裏切りに次ぐ裏切りという展開が似ているのである。だがしかし、両者を大きく分けるのはキャラクターの造型とプロットの深みにある。
北野武映画のキャラクターが書き割りみたいに薄っぺらなのは今に始まったことではない。それにしても、この映画のヤクザたちは判で押したようにどれもこれも同じだ。やさ男の加瀬亮がドスのきいた声で話す場面に最初はおっと思ったけれど、その後に登場する三浦友和も中尾彬も西田敏行も塩見三省も大声で怒鳴り散らす同じパターン、同じ演技で、やれやれと思った。唯一違うのは刑事役の小日向文世ぐらいだ。キャラクターの背景も描かれないので、誰が殺されようが、誰に殺されようが、気持ちが動いていかない。一本調子のキャラクター、一本調子の映画であり、これは頭で作ったヤクザ映画、バイオレンス映画に過ぎない。笠原和夫が丹念な取材を重ね、猥雑なエネルギーに満ちた「仁義なき戦い」にはとても及ばない。
プロットはキャラクターの造型ほど悪くはない。前作から5年後の設定。東京の山王会は兄貴分や親分を出し抜いて加藤(三浦友和)が会長の座に就き、政界へも影響力を持っていた。若頭は大友組の金庫番だった石原(加瀬亮)。警視庁の刑事・片岡(小日向文世)は勢力を伸ばす山王会をたたくため、不満を募らせる古参の組幹部たちをそそのかし、関西の花菱組に接近させる。同時に刑務所で服役中の大友(ビートたけし)に加藤を会長の座から引きずり下ろそうとそそのかす。そこから、先の見えないヤクザの抗争が始まっていく。山王会内部の分裂は定石通りと言える。惜しいのは花菱組が一枚岩であること。ここはやっぱり、花菱組内部にも分裂を起こさせ、敵か味方かをとことん分からないようにしたいところだった。
だからといって、この映画つまらないわけではない。そこそこ楽しめる映画になってはいる。キャラクターの簡単さや、あまり凝らないプロットはよく言えば、贅肉をそぎ落とした結果と言えるかもしれない。しかし、僕が求める映画とは異なる。はっきり分かったのは北野武に「仁義なき戦い」をビヨンドするような映画は撮れないだろうということだ。映画は細部に豊穣さが必要なのである。
2012/09/08(土)「夢売るふたり」
西川美和が女性を主人公にするのは初めて。ということは言われて初めて気づいた。そしてやっぱり女性監督が女性を描くと、生々しいなと思った。この生々しさというのは色っぽさも含めての生々しさで、一見無造作な細部の普通の描写に女性監督でなければ描けないなと思えるものがある。話題になっている松たか子の自慰シーンの後に、指を拭いたティッシュで鼻をかむという描写を入れるあたり、男の監督にはまず思いつかないだろう。被害者となる女性たちもすべてキャラが立っていて奥が深い。文学的な深さがあると感じるのは、小説を書かせても一流の西川美和だからか。主演の松たか子にとっても、西川美和にとってもこれまでのベストの作品だと思う。
結婚詐欺を描いた映画というと、軽妙な作品を思い浮かべる。確かにこの映画にもそんな風な展開が前半にあるのだけれど、後半のウェイトリフティングに打ち込むひとみ(江原由夏)と風俗嬢の紀代(安藤玉恵)のエピソードでグッとリアリティーが増し、重くなる。胸にグサグサ突き刺さるセリフが要所にあるのだ。コンゲームの映画は「スティング」をはじめ金持ちや悪人を標的にするのが普通で、金持ちではない善良な人を騙すと、映画が重くなり、エンタテインメントとして成立していかない。この映画は構想の発端に名作「夫婦善哉」(1955年、豊田四郎監督)があり、結婚詐欺は夫婦を効果的に語るための手段として取り入れられたそうだから、重くなるのはむしろ狙い通りだ。
キネ旬の西川美和と芝山幹郎の対談で、芝山幹郎が「主旋律と伴奏が交互に入れ替わる」とうまい表現をしている。主旋律である松たか子と同じレベルで、騙される女性の生き方、境遇がクローズアップされているのだ。そして西川美和はそうした女性たちを、共感を込めて愛おしく描き出している。
前作「ディア・ドクター」から派生した小説「きのうの神さま」を読んだ際、人生の断面を切り取る手腕の鮮やかさに驚嘆させられた。西川美和は描写の人だなと思った。きちんとした細部の描写を積み重ねれば、作品全体の説得力が増す。この映画の手法も「きのうの神さま」と同じで、ひとみと紀代のエピソードはそれで1本の映画ができるぐらいの内容がある。
もちろん、メインの阿部サダヲ、松たか子夫婦の描写も抜かりがない。2人が詐欺を働くのは火事でなくした店の再建のためという理由があるのだが、そのきっかけがひょんなことから起きた夫の不実であり、洗濯した服のにおいで松たか子がそれに気づく描写が鋭い。結婚詐欺は再建のためであると同時に裏切った夫への報復の意味合いもある。そして実行犯である夫ばかりか、詐欺を主導する妻もまたそれによって傷つくことになるのだ。
松たか子は「ヴィヨンの妻」の時もすごかったが、今回はそれを上回る。「自分がきれいに見えるように」なんてことは監督が「心配になるぐらい考えてない」女優なのだそうだ。今年の主演女優賞は決まりだ。
2012/08/26(日)「るろうに剣心」
相楽左之助(青木崇高)と戌亥番神(須藤元気)が台所で延々と殴り合うシーンで、途中、相楽がそばにあった肉を食い、酒を飲む。「菜食主義だから」と肉を断った戌亥は酒だけ飲んだ後に再び殴り合う。アクションの途中に一休み入るこの流れは香港映画を思わせる。アクション監督の谷垣健治はドニー・イェンに師事したそうだから、その影響なのだろう。
「るろうに剣心」は戦前から綿々と作られ、近年は少なくなった時代劇の中でエポックメイキングな作品と言って差し支えないと思う。三池崇史「十三人の刺客」の中で一瞬きらめき、目を見張らざるを得なかった松方弘樹の殺陣の凄まじいスピードがこの作品の殺陣にはあふれている。実は予告編を見たときには「亀梨に殺陣ができるのかよー」と思ったのだが、主演は亀梨和也ではなく、佐藤健であり、佐藤健は撮影開始前に3カ月、撮影中の4カ月にも殺陣の練習に打ち込んだのだそうだ。殺陣の練習で軽いけがをした時に「けがをしたのは練習が足りないから」と言って練習量を増やしたという。だからこそ、時代劇アクションの可能性を新たに切り開く作品が生まれたのだろう。大友啓史監督らスタッフには惜しみない拍手を送りたい。
もちろん、ドラマ的にはもっと盛り上げるべき部分があるし、描写が足りないと思える部分もあるのだけれど、それが些末なことに思えるほどアクションが素晴らしい。加えて、佐藤健、武井咲のコンビに蒼井優、青木崇高らの若い俳優たちがどれもこれも良い。特に武井咲は声が良く、たたずまいが良く、必死さが良い。剣心と鵜堂刃衛(吉川晃司)が闘うクライマックス、鵜堂の術にかけられて身動きできない場面の演技など見ると、武井咲、将来の日本映画を支える女優の一人になるのではないかとさえ思わせる。若い俳優たちの可能性を感じさせる映画としてこれは、園子温「ヒミズ」と双璧ではないか。さらに吉川晃司のドスのきいた役柄と香川照之のずるがしこい悪人ぶりが映画に幅を与えている。佐藤直紀のドラマティックな音楽も素晴らしいの一言だ。
ジャッキー・チェンが「プロジェクトA」に始まる作品群で志向したのはサイレント時代のハロルド・ロイドやバスター・キートンであったのは周知のことだが、大友啓史が目指したのはサイレント時代の時代劇のアクションだったという。キネ旬9月上旬号(1619号)で大友啓史はこう言っている。「ぼくは『るろうに剣心』最終日前日に大河内(伝次郎)の作品を見たの。なんとなく『るろうに剣心』では大河内に勝ったと思ってた。でも、まだ負けてると思って。だから、やっぱり続篇をやらなきゃいけないなと」。歓迎すべきことだ。この映画、ぜひシリーズ化してほしい。そして、時代劇アクションを極めてほしいと思う。