2014/05/25(日)「アクト・オブ・キリング」

 映画の中盤、インドネシア国営放送の対談番組に、かつて1000人を殺した主人公アンワル・コンゴと民兵組織パンチャシラ青年団のメンバーが登場する場面がある。現在の政権は共産主義者や華僑など100万人が犠牲になったといわれる1960年代の虐殺の上に築かれているので、虐殺者が国内で非難されることはない。しかも共産党は現在、非合法なのでインタビュアーの女性は嬉々として虐殺の様子を尋ね、アンワルらは自慢げにそれに答える。

 信じられないようなシュールな場面だ。思わず、「ロボコップ」に出てきたシュールなニュースを思い浮かべた。あれは現実をデフォルメしたフィクションだが、これはありのままの現実。だからかなりショッキング(というか、あまりに現実離れしていてあきれる)。監督のジョシュア・オッペンハイマーは「ホロコーストから40年後のドイツに足を運んだら、そこではまだナチスが権力をふるっていた、というような感覚」と語っているが、的確な比喩と言うべきで、インドネシアという国は一般的な正義が実行されないまま現在に至っているのだ。

 シュールと言えば、アンワルの相棒であるヘルマン・コトが選挙に出馬する場面もそうだ。映画の中で女装するのでマツコ・デラックスと評している人がいたが、僕は西田敏行をもっと太らせて色黒にして知性を抜き、がさつにした男のように思えた。そういう男が選挙に出るというのもシュールだが、名刺を配るヘルマンに対して有権者のおばちゃんたちが「名刺だけかい? ボーナスはないの?」と(カメラの前で)平気でお金を要求するのもシュール。「集会に数千人集まれば、その数千人はみんな金をもらっている」というセリフもあり、票を金で買うのが普通の社会らしい。だいたい、ヘルマンが選挙に出ようと思ったのも議員になって賄賂で儲けるためだ。民兵の幹部が華僑の商店主に金を要求する場面もあり、要するに金がすべてを動かす社会なのだろう。映画はスマトラ島で撮影されたそうなので、これがインドネシア全体に言えることなのかどうかは分からないが、インドネシア大丈夫か、と思えてくる。

 主人公のアンワルはかつて行った虐殺の際、鉈で切断した首の目を閉じなかったことを悔やんでいる。未だに悪夢を見ることがあるのはこれが原因だったと考えている。虐殺が始まった当初は殴り殺していたが、周囲が血だらけになり、その臭いと片付けに手間がかかったため、アンワルは針金で絞め殺すようになる。そのヒントになったのがアメリカのギャング映画だというのが恐ろしい。映画は現実を取り込むが、逆に現実に影響を与えることもある。アンワルは映画中映画で虐殺者の役を演じ、その後、被虐殺者の役も演じる。そして嘔吐してしまう。これをアンワルが過去の行いを反省したからと受け止めるのは早計で、「es[エス]」(2001年)で描かれた実験を持ち出すまでもなく、人間は演じる状況に影響を受けるのだろう。

 残酷な場面ばかりだったら苦手だなと思いながら見たが、全然そんなことはなく、さまざまに刺激的な映画だった。これは人間の暗黒を描いた映画ではなく、普通の人間が状況に流される姿を浮き彫りにした映画だと思う。すこぶる面白い。傑作。

2014/05/17(土)「エンド・オブ・ホワイトハウス」

 ホワイトハウスが陥落するまでの描写は迫力たっぷりの傑作。しかし、その後は「ダイ・ハード」的展開そのままなのが大いにマイナス。1人のタフガイがテロリストを撃退するという設定を真似るのはけっこうだが、それにしてももっとオリジナルな工夫がほしい。

 中盤で敵に寝返ったかつての仲間と主人公が対峙する場面などは「ダイ・ハード」でブルース・ウィリスとアラン・リックマンが遭遇する場面の劣化コピーで、相手が裏切ったことを簡単に後悔するところなど、観客をなめているとしか思えない展開だ。アントン・フークワの演出自体に弱い部分はないので、これは単純に脚本の出来が悪かった結果だろう。志が低すぎるのだ。

 テロリストを今はやりのイスラム教徒ではなく、北朝鮮にしたところだけが新味だった。