2014/07/20(日)「私の男」
熊切和嘉監督の前作「夏の終り」はドロドロした話なのに、画面にはドロドロさがまったくなかった。主演の満島ひかりが健康的すぎたためだろう。似合わない役柄だったのだ。きれいすぎる女優はリアルな役柄には向かないのではないかと思う。「私の男」の二階堂ふみは中学生から20代前半までを演じて、そのドロドロさを画面に充満させている。
とはいっても、こちらが考えるドロドロさとは違う映画だった。おどろおどろしさもなければ、陰湿さもない。浅野忠信と二階堂ふみの濃厚な絡みの場面を見て、日活ロマンポルノや神代辰巳の映画のようになっていくのかと思ったら、そうはならず、映画は少女の成長と変貌に焦点を絞っていくのである。絡みの場面で血の雨を降らせる演出は画面のショッキングさとは裏腹にメタファーが分かりやすすぎて気恥ずかしい(後の殺害シーンで血しぶきを浴びる浅野忠信の場面と呼応している)し、映画は終盤、エピソードを大胆に省略・改変しているのだけれど、それでも話はつながるし、よく分かる。
何よりもこの終盤は二階堂ふみの変貌に目を奪われるのだ。これは小説では表現しにくい、映画の利点と言える。二階堂ふみ、まったくうまいとしか言いようがない。幼虫から成虫になる過程を思わせる二階堂ふみの演技は映画の説得力を背負っており、モスクワ国際映画祭で浅野忠信が主演男優賞を取ったのは何かの勘違いとしか思えない(ニューヨーク・アジア映画祭で二階堂ふみはライジング・スター・アワードを受賞した)。
映画には納得して深く感心したが、死体の処理を描かないのが気になって桜庭一樹の原作を読んだ。同じように気になった人のために書いておくと、死体はビニールのふとん収納袋に入れて密閉した上でふとんにくるみ、奥の四畳半の押し入れに入れてある。だから2人の住む古びたアパートには饐えた臭いがかすかに漂うことになっている。映画ではアパートの周囲と部屋の中にゴミ袋が散乱しているので死体をバラバラにしてゴミ袋に入れたのかと想像したが、何も処理していなかったわけだ。
原作は映画のラストシーンから始まる。あの後の話(結婚式とそれ以降)を描いた後、第2章から原作は過去にさかのぼっていく。2008年現在から2005年、2000年7月、同1月、1996年を経て発端の1993年、北海道南西沖地震で津波に襲われた奥尻島へ。この時系列を逆にした構成が秀逸だし、細部の描写がいちいちうまい。直木賞受賞も当然の傑作だと思う。
映画は原作の構成を捨て、物語を時系列に沿って語っている。冒頭の流氷の海から這い上がる主人公花(二階堂ふみ)の場面から津波で生き残った子供の頃へと画面が切り替わるジャンプショットを除けば、起きたことを順番に描いている。映画化の企画は多数あったそうだが、この単純とも言える構成が逆に幸いしたのではないか。
良かれと思ってしたことが徒になって、流氷の上でなすすべもなく遠ざかっていく藤竜也。雪と氷に覆われたオホーツク海に臨む紋別の描写が魅力的だ。
2014/07/13(日)「渇き。」
ロドリゲス&タランティーノの「グラインドハウス」のようなタイトル、「オールド・ボーイ」のような残虐性。殴られ蹴られ刺され撃たれる主人公(役所広司)の姿は肉体ばかりでなく、精神的にも壊れてきてかなり痛々しい。
中島哲也監督の編集はいつものようにアップテンポで、3年前と現在を自在に描きながら、失踪した娘加奈子(小松菜奈)の実相と事件の真相を徐々に明らかにしていく。あまりのバイオレンス描写に思わず笑ってしまう場面もあるけれど、見終わって気分が晴れないのは「オールド・ボーイ」のような驚愕の真実があるわけではなく(こちらの想像の範囲を超えない)、刑事から落ちぶれてやさぐれた主人公の精神が病んでいるからだろう。
というか、登場人物のほとんどがビョーキだ。異常な人物ばかり出てきて、感情移入できるキャラが見当たらない。叫び、喚き、傷つけ合い、殺し合う人間たちを見ていると、こちらの神経もささくれ立ってくる。この異様な世界の中では加奈子の実は真っ当な(そして単純な)動機の方にむしろ違和感が出てくる。
救いのない話であることはかまわないが、カタルシスがないのは困ったもので、事件の真相が明らかになっても、主人公にとっては少しも終わらない話になっている。無間地獄のようなラスト。中島哲也の語り口はやや一本調子のきらいがあることを除けば今回も一流だと思う。それをもってしてもこの話では傑作になることは難しかったようだ。描写の過激さに比べてストーリーが弱い。