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ラスト近く、元空軍大尉のフレッド(ダナ・アンドリュース)は多数の戦闘機が廃棄された場所を通りかかり、そのうちの1機の操縦席に乗り込む。「何をしているんだ」と責任者に詰問されたフレッドは「かつての職場なんだ」と答える。ここは戦闘機を解体してプレハブ住宅の材料にする現場だった。
「人手は足りてるか?」
「職なしか?」
「そうだ」
「空軍の堕天使ってやつか…。口が悪くてすまん。あんたが空にいる時、俺は戦車にいた」
「戦争の話は興味深いが、雇えるかどうか答えてくれ」
「建築の経験は?」
「何も知らないが、学ぶことは訓練されている」
ウィリアム・ワイラー監督の「我等の生涯の最良の年」は第2次大戦の軍人3人の帰還後の生活を描く。終戦の翌年、1946年に公開され、アカデミー賞9部門を制した。問答無用の傑作であり、今もまったく古びていない名作。ワイラー最良の作品は「ベン・ハー」でも「ローマの休日」でもなく、この映画だと思う。
フレッドと元陸軍軍曹の銀行家アル(フレドリック・マーチ)、元水兵のホーマー(ハロルド・ラッセル)は同じ軍用輸送機に乗り合わせて知り合う。ホーマーは乗り組んでいた空母を撃沈され、火事で両手を失い、フックのような義手をしている(マッチを擦れるし、栓を開けることもできるが、パジャマのボタンは嵌められない)。経済的にも家庭的にも恵まれたアルと違って、フレッドとホーマーの戦後は多難だ。
フレッドは出征の20日前に結婚したが、帰還してみると、妻のマリー(バージニア・メイヨ)はフレッドの両親の家を出て、ナイトクラブで働いていた。マリーは出征前と同じソーダ水売り場で働き始めたフレッドの稼ぎの少なさをなじる。空軍では月に500ドルもらっていたのに、今は週35ドルなのである。フレッド自身、戦争で功績を挙げた自分にはもっとふさわしい職場があると考えている。しかし、世間は帰還兵に冷たかった。
そんなフレッドが紆余曲悦を経て戦闘機解体の仕事に就くのは象徴的だ。フレッドは自分の過去を葬る仕事で新しい人生を生きることを決意するわけである。
演技に関してまったくの素人だったハロルド・ラッセルは実際に両手を戦争でなくした(戦闘中ではなく、TNT火薬を扱っている時の事故によるもの)。ドキュメンタリー映画に出ているのをワイラーが見てホーマー役への起用を決めたという。アカデミー助演男優賞と特別賞を受賞したが、ラッセルはその後、映画から遠ざかった。次に映画で顔を見せたのはこの作品から実に34年後、リチャード・ドナー監督の「サンフランシスコ物語」(1980年)においてだった。当時、映画評論家の荻昌弘さんはラッセルの34年ぶりの映画出演を映画雑誌(「ロードショー」だったと思う)で取り上げていた。出演はドナー監督が懇願したことと、障害者を描いた作品だったので了承したと記事に書いてあったと記憶している。ジョン・サベージ主演のこの佳作を僕は学生時代に見て深い感銘を受けた。残念ながら現在、ネット配信はもちろんDVDもなく、見ることができない。何とかしてほしいものだ。
フレッドは妻と別れ、アルの娘ペギー(テレサ・ライト)と親しくなっていく。ラストのフレッドのペギーへのセリフは字幕ではこうなっている。
「生活が安定するまで何年もかかるし、金もいい家もないが、一緒に頑張ろう」
どうも「一緒に頑張ろう」が安っぽくて良い訳とは思えない。IMDbによると、元のセリフは次の通り。
You know what it'll be, don't you, Peggy? It may take us years to get anywhere. We'll have no money, no decent place to live. We'll have to work, get kicked around...
「ペギー、(僕と一緒になったら)どうなるか分かってるだろう? 生活が安定するまで何年もかかる。お金もないし、住むのに十分な家もない。僕たちは転々としながら、働かなくてはならないだろう…」。その言葉を遮って、ペギーはフレッドにキスをする。
アカデミー賞を得た後のプロデューサーのサミュエル・ゴールドウィンについてWikipediaにはこうある。
フランシス夫人はゴールドウィンが「まるでクリスマスに欲しい物を全部貰った子供のように」はしゃいでいたのを記憶している。(アカデミー賞授賞式から)夫妻が帰宅した後、フランシス夫人はゴールドウィンがいつまでも2階に上がってくる気配が無いので何処に居るのか家中を探し回ったところ、暗いリビングルームでアカデミー作品賞とアービング・G・タルバーグ賞を片手ずつ持ち、腰を下ろし、うつむいて声も無く泣いていた彼を発見したという。
プロデューサー冥利に尽きる映画だったのだろう。上映時間2時間50分は当時の一般的な映画の2倍の長さ。映画の上映回数が少なくなり、興行上不利なことを承知の上で完成させたのは、ゴールドウィンがこの映画にはこの長さが必要だと考えたからだろう。実際、映画はまったく長さを感じさせない。もっともっと見ていたくなる。恐らく、その時点でベストを尽くした映画は普遍性を備える傑作になり得るのだ。