2009/11/23(月)「曲がれ!スプーン」
超常現象を信じなくなったかどうかを確かめるため、テレパスの椎名(辻修)が湾岸テレビ「あすなろサイキック」のAD桜井米(長澤まさみ)の手を握る。そこで椎名が見たものは、空から海に落ちる謎の火球を目撃した子供の頃から現在に至るまでの米の足跡。ことごとく自称超能力者から裏切られてきた米は子供の頃から信じてきたものなくしてしまいそうになっている。そこからのクライマックスが素晴らしい。
喫茶店「カフェ・ド・念力」に集う7人のエスパーたちは力を合わせて米にあるものを見せる。超能力を必死に隠してきた彼らが米の心に取り戻そうとしたのは超常現象を信じさせることではもちろんない。信じる心を失わせないこと、夢見ることを失わせないことだ。そして起きるもう一つの奇跡。夜空を飛ぶ光を見上げる子供たちを次々に映すショットは脚本の上田誠、監督の本広克行の思いであり、エスパーたちの願いと重なっている。超常現象を信じることを「大人げないよね」と切り捨てそうになっていた米は信じる心を取り戻し、同時にエスパーたちの優しさを知るのだ。これはコナン・ドイルが「失われた世界」を捧げた「半分子供の大人たちと半分大人の子供たち」に贈るクリスマスイブの素敵なプレゼントだ。
劇団ヨーロッパ企画の演劇「冬のユリゲラー」を作・演出の上田誠自身が脚本化し、本広克行が監督したとなれば、「サマータイムマシン・ブルース」の再来を期待せざるを得ない。いや、正直に言えば、僕は「サマータイムマシン・ブルース」については良くできた映画と思っただけで、それほど入れ込んではいない。でも今回は違う。前半はゲラゲラ笑わせられながらも快調とは言えない出来で、単なる良くできた舞台の映画化かと思っていたが、このクライマックスがすべてを補って余りある。予告編から予想したクライマックスはエスパーたちが力を合わせて世界の危機に立ち向かうのではないかということだったが、それは世界の危機ではなく、米の心の危機だった。これが映画のスケールをわきまえていてとてもいい。1人の人の心の危機を救うことは世界の危機を救うのに劣らない価値があるのだ。それに懸命になるエスパーたちがいい。
上田誠の脚本は監督と話し合って14稿に及んだという。「サマータイムマシン・ブルース」と同様に最後にピタリと決まるさまざまな伏線が気持ちよい。舞台でも同じ役柄を演じた透視の中川晴樹、念力の諏訪雅をはじめ、電子機器を操作できるエレキネシスの川島潤也、テレポーテーション(実は時間を止める能力)の三宅弘城らいずれも演劇の役者たちがそろって好演。おかしくて楽しい。本広監督の過去の映画の楽屋落ちのギャグも散りばめられていて、見ている人はニヤリとするだろう。主人公は本来なら10代の女の子の方が良いのではないかと思うが、役柄がテレビ局のADなのだから長澤まさみにはピッタリだ。
「小さい頃は今よりずっと不思議な世界への扉が近かったような気がする」というセリフに少しでも共感できる人は見逃してはいけない映画だと思う。
2009/11/15(日)「沈まぬ太陽」
「行天、お前寂しい男になったな」。終盤、会社の階段で行天四郎(三浦友和)と対峙した恩地元(渡辺謙)が言う。国民航空の恩地と行天は労働組合の委員長、副委員長としてともに会社を良くするために闘った仲間だったが、行天は組合を辞めて会社の出世コースに乗り、恩地は仲間を裏切られずに懲罰人事で9年間の海外僻地勤務をさせられる。日本に帰った後も不遇なままだ。日本航空をモデルにした航空会社の内幕を、金と出世にあくせくする腐った幹部と、苦悩しながらも信念を曲げない主人公の対決という古くからの図式に沿って描き、十分それに成功している。これは社会派の映画と言うよりは一種のヒーローもので、だから描かれていることが事実かどうかにあまり意味はない。こういう図式の映画が僕は好きだ。
悪役がいかにも悪役風の演技なのはどうかとか、飛行機のCGはもう少しうまくできなかったのかという些細な傷はあるし、3時間22分を飽きさせない作りかと言えば、それにも少し疑問を覚えるのだけれど、西岡琢也の脚本と若松節朗(「ホワイトアウト」)の演出には正攻法を外さない視点が貫かれている。こうした大作にありがちな空疎さは一切なく、熱気のこもった力作。公開初日の舞台挨拶で映画の撮影を思い返して号泣したという渡辺謙の人柄は何事にも真摯に真正直に正攻法に対処する恩地の人柄とそのまま重なる。渡辺謙渾身の演技であり、今年の主演男優賞は渡辺謙のものであるに違いない。
原作は山崎豊子。西岡琢也の脚本は前半でパキスタンのカラチ、テヘラン、ナイロビと、家族と離れて転々とさせられる恩地と御巣鷹山の航空機墜落事故を交互に描き、10分間のインターミッションを挟んだ後半は国民航空の腐蝕の構造を描いていく。事故で責任を取って辞任した会長に代わって新会長に就任する関西紡績会長の国見(石坂浩二)は会社の再建のために4つに分裂した組合を統合しようとし、その過程で恩地の人柄を知って理解を示す。会社の幹部と利権に群がる政治家たちの中で恩地と国見はすがすがしい存在だ。パンフレットで石坂浩二は「沈まぬ太陽とは日本」と言い、製作の井上泰一は「企業が存続することへの願いと象徴」と言っているけれども、僕は恩地のような人間こそが沈まぬ太陽にほかならないと思う。
事故で息子夫婦と孫を亡くした宇津井健や夫を亡くして酒に溺れる木村多江、組合活動のために支店の閑職に追いやられる香川照之、恩地を支える妻の鈴木京香、カラチ支店の支店長大杉漣ら多数の俳優たちがそれぞれに良い。惜しいのは恩地と対照的に出世に走る行天のキャラクターが十分には描かれてはいないこと。行天の背景まで含めて描けば、映画はさらに厚みを増しただろう。
2009/11/11(水)「スペル」
サム・ライミ監督が「死霊のはらわた」の原点に返って作ったホラー。描写が大げさすぎて極端すぎて笑ってしまうのがホントに「死霊のはらわた」(というかそのリメイクみたいな「死霊のはらわたII」)と同じである。あきれて笑ってしまうのだけれど、これは明らかに狙ってやっていることで、失笑や嘲笑とは違う、まともな(?)笑いだ。ライミの持ち味は基本的にカラッとしているので少しも怖くはなく、恐怖と笑いというよりはショック演出と笑いにあふれたエンタテインメント。主演のコケティッシュなアリソン・ローマンが恐怖にさらされた後に反撃に出る展開が真っ当で、墓場での老婆の死体とのスラップスティックな騒動などおかしくていい。この結末では続編は無理だろうが、ライミの同じタイプのホラーをまた見たくなるような快作。
銀行の融資係クリスティン(アリソン・ローマン)がある日、老婆(ローナ・レイヴァー)にローンの返済延長を断ったのが恐怖の始まり。次長への昇進を狙っていたクリスティンはライバルのスチュ(レジー・リー)に負けたくなくて、すがる老婆を冷たくあしらう。しかし、満場で恥をかかされたと怒った老婆は駐車場でクリスティンを待ち伏せ、壮絶な格闘の後、クリスティンのコートのボタンを引きちぎって呪いをかける。それからクリスティンの周囲に恐怖の出来事が起こり始める。霊視者のラム・ジャス(ディリープ・ラオ)によれば、老婆がかけた呪いは悪霊のラミアを呼ぶもので、ラミアは3日間、クリスティンを苦しませた後、地獄に引きずり込んで魂を奪うのだという。ラム・ジャスの手には負えないため同じく霊能力者のショーン・サン・ディナ(アドリアナ・バラッザ)の力を借りるが、屋敷で開いた降霊会でラミアは強力なパワーを見せつける。
パンフレットによれば、ラミアは元々、ギリシャ神話に登場する下半身が蛇の子供を食らう魔物。映画ではヤギのような影を見せるが、ちゃんとした姿は見せないまま。魔物や悪霊というより悪魔を思わせる存在になっている。普通の人間が悪魔に勝てるわけはなく、何とか逃れようとするクリスティンはクライマックス、死んだ老婆の墓をあばいて、呪いのかけられたボタンを老婆に押しつけようとするのだ。
笑いが生まれるのはオーバーな表現にあり、クリスティンと凄まじい格闘をした老婆の目玉が飛び出たり、口から緑色の液体をドバっとかけたりと、アホなスプラッタ映画とは違うライミ独自の描写がとても面白い。ライミ自身が楽しんで作っている感じがありあり。久しぶりに帰って来たホームグラウンドで好きなように撮っていることが楽しさの理由なのだろう。脚本のアイヴァン・ライミは実兄で、この脚本自体は10年前に書かれたものだそうだ。ライミ、来年には「死霊のはらわた」をリメイクするらしい。恐らくVFXをパワーアップさせてのリメイクだろうが、この笑いの感覚を忘れなければ、期待できるのではないか。
2009/10/30(金)「きみがぼくを見つけた日」
主人公のヘンリーは時間も行き先も制御できないタイムトラベラー。「ターミネーター」のアーノルド・シュワルツェネッガーと同じく服はタイムトラベルできない設定で、突然、服だけを残して裸で過去や未来に飛んでしまう。だからタイムトラベル先でヘンリーがまず行うのは服を手に入れること。その手に入れる方法が違法で警察に捕まってもすぐにタイムトラベルするのだから何も問題はない。
これは超能力ではなく、障害あるいは病気に近い。タイムトラベラーと言うよりタイムスリッパー(なんて言葉はないか)と言うべきだ。映画の中でも遺伝子的な病気としてヘンリーは医師に治療を求める。ラブストーリーは愛する2人の間に障害がなければ成立しないので、その障害にタイムトラベル能力を使うという発想は悪くなかった。しかし、見ていてどうも超能力の無駄遣いという気分が頭をもたげてくる。こういう気分になるのは話がうまくないからだろう。
オードリー・ニッフェネガーの原作「タイムトラベラーズ・ワイフ」を「ゴースト ニューヨークの幻」「ディープ・インパクト」などのブルース・ジョエル・ルービンが脚本化。「フライトプラン」のロベルト・シュヴェンケが監督した。クレア(レイチェル・マクアダムス)が6歳の頃と大人になってからの2回、ヘンリー(エリック・バナ)に出会う序盤を見て、これは面白くなるのではないかと思ったが、その後は失速気味だ。
突然いなくなるヘンリーのタイムトラベル能力に、ヘンリー自身と待ち続けるクレアが翻弄されるだけの話になっているからだ。話が盛り上がらないのである。同じルービン脚本の「ゴースト ニューヨークの幻」は主人公が勤める銀行の不正の話を絡め、それによる恋人の危機を救うのがクライマックスになっていた。この映画にはこうしたラブストーリー以外のエピソードがなく、結局のところ、結婚や出産の苦労(胎児にタイムトラベル能力が引き継がれている)など2人だけの問題に終始している。タイムトラベラーの奥さんは大変だね、というだけの話なのである。
世界破滅の危機を救うとか、要人暗殺を防ぐとか、社会の不正を告発するとか、主人公の能力を何かほかの用途に役立てて欲しかったところ。この作りでは主人公は不運なだけで、難病ものと変わらない。話に広がりもない。物語の性格上、仕方がないが、話があっちに飛びこっちに飛びするのも映画の流れを阻害している感じを受けた。パズルが組み合わさって全体が見えてくるという作りにしたかったのは分かるのだが、そんなに大げさに語るほどの中身はないし、シュヴェンケの演出も決してうまいとは言えない。
過去を変えることも未来を変えることもできないタイムトラベラー。たいていの時間テーマSFではそこに絡めて何らかの工夫がある。この映画はヘンリーを悲劇的な運命が襲い、それをラストでひっくり返そうとしているのだが、これで少しハッピーな気分になれというのは無理である。ヘンリーが事故で亡くなった母親と電車の中で偶然出会う場面などうまいところもあるし、主演のエリック・バナとレイチェル・マクアダムス(「きみに読む物語」)も悪くなかったが、個人的に時間テーマSFは大好きなジャンルだけに、この程度の出来で積極的に褒める気にはならない。
2009/10/26(月)「ヴィヨンの妻 桜桃とタンポポ」
モントリオール世界映画祭で最優秀監督賞受賞した。昨年の「おくりびと」「誰も守ってくれない」に続いて日本映画が受賞するのはうれしいことだが、映画を見てみると、今年の映画祭はそんなにレベルが高い作品がそろったわけではなかったのかと思えてくる。根岸吉太郎監督の過去の作品と比較して特別に出来が良いわけではない。根岸レベルで言えば、水準的な作品である。
映画祭での受賞というのはアカデミー賞のように公開された全作品を対象にしているわけではなく、あくまでも映画祭に出品された狭い範囲で賞を選んでいることを頭に止めておく必要がある。かといってアカデミー賞受賞作のすべてが素晴らしい作品かと言えば、そんなことはないし、同じ映画祭でもカンヌのパルム・ドールなどはそれなりに見応えのある作品が多いが、それは映画祭の規模が違うからにほかならない。ただし、これまでに数々の傑作を取ってきた根岸監督が国内だけでなく、国際的な舞台で評価されたのは喜ばしい。これで活躍の場が広がると良いと思う。
太宰治原作の「ヴィヨンの妻」をメインプロットにして「桜桃」や「きりぎりす」「姥捨」「思い出」「燈籠」などの短編を組み合わせて脚本化してある。昭和21年の東京。作家の大谷穣治(浅野忠信)が夜中に家に帰ってくる原作通りの場面で映画は始まる。大谷の後を追って飲み屋の夫婦(伊武雅刀、室井滋)が家に来る。大谷はナイフを振り回してその場から逃げ、妻の佐知(松たか子)は夫婦から大谷が過去2年間、飲み代をためたうえ、今夜は店の金5000円を盗んで逃げたと聞かされる。佐知は警察沙汰にしないよう夫婦に頼み、翌日、店の手伝いをする。美人の佐知が来たことで店は繁盛し、佐知はその後も店で働くことになる。
佐知は原作よりもさらに能動的な女になっている。原作では店の常連客の青年から犯されるが、映画では心中未遂をして殺人未遂に問われた夫の弁護を、過去に好きだった弁護士(堤真一)に頼み、自ら体を差し出す。弁護士の事務所に行く前に街のパンパンから口紅を買う場面が佐知の覚悟を表しており、だから最後の「人非人でもいいじゃないの。私たちは、生きていさえすればいいのよ」というセリフが生きてくる。佐知のキャラクターが前向きで面白いのは過去に万引で捕まった際に警官に対して「私を刑務所に入れてはいけません」ときっぱりと言い放つ場面。「22年間、貧乏に真面目に生きてきてこんなことで刑務所に入れてはいけない」というのは自分勝手な主張ではあるのだが、佐知の前向きなたくましさに好感が持てるのだ。
この映画で輝いているのは佐知を演じる映画初主演の松たか子に尽きると思う。パンフレットによれば、映画祭でコンペに出品されたのも「主演の松たか子の演技力と存在感、共演者キャストたちのハーモニーの素晴らしさ」が要因であったそうだが、それも十分に納得できる。松たか子だけでなく、伊武雅刀と室井滋夫婦の人の良さと全編に漂う微妙なユーモアも魅力。貧乏で悲惨な状況なのに、どこか明るい雰囲気が原作にも映画にもある。衣装の黒澤和子や撮影の柴主高秀ら一流スタッフがそろって手堅い作品に仕上がっていることは間違いない。