2010/12/22(水)「白いリボン」

 キネ旬1月上旬号に翻訳家で評論家の芝山幹郎が書いているミヒャエル・ハネケ「白いリボン」の映画評が面白かった。この映画、今月初めの東京出張時に見たが、どう感想を書けば良いのか分からなかった。第一次大戦直前のドイツの寒村を舞台にした映画で、昨年のカンヌ映画祭パルムドール。この村では奇怪な事件がいくつか起きる。その犯人捜しの興味で見ていっても、すべての事件の犯人が分かるわけではない。映画の冒頭のナレーションが言う通り、戦争前の不穏な空気を村の事件に重ね合わせている、という解釈が一般的だ。僕もその程度の感想しか抱けなかった。

 芝山評が優れているのは以下のような部分。

 まあ、そういう解釈も不可能ではない。抑圧や不幸が凶事の種であることは周知の事実だし、窮境に置かれた人間が甘い餌に釣られやすいことも、また歪みようがないからだ。だが、『白いリボン』は教育映画ではない。教訓や寓意を読み取って能事了れりとする映画でもない。ハネケはむしろ、抑圧や不幸や窮境の形象化に力をそそぐ。こわばった人々を表に出し、快楽と不幸のよじれた関係をあぶりだそうとする。その力技はこの映画の磁力になっている。

 なぜ事件が起こったのか、誰が犯人なのかではなく、映画の主眼はそうした状況そのものにある。そこにどんな寓意を受け取っても、それは見る側の勝手という姿勢が感じられるのだ。描写そのものは明快で、白黒映画ながら映像も美しい。その先はどうなの、という感情がむくむくとわき上がってくるが、ハネケの興味はそんなところにはないのだ。医師が愛人の看護師に厳しい言葉を浴びせる場面とか、人間の醜さを描き出してすこぶる面白いのだけれど、なかなかやっかいな映画だ。

 芝山幹郎はハネケの映画が苦手だったと言い、この映画を認めながらも、最後にこう書く。「私はこの映画に感心したが、彼の体質と親しく付き合う方法をまだ発見していない」。この指摘が一般的な観客の正直な感想になるのではないか。